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泣かないで

挿絵(By みてみん)




挿絵(By みてみん)





 オセロゲームに興じたあと、暁斎は帰って行った。遠くなる、黒い単衣の着流しの姿を、菫は廊下まで出て見守った。結局、暁斎に全敗した駿は、応接セットのテーブルに俯せていた。菫が廊下まで出て暁斎を見送ることもまた、彼にダメージを与えていた。


「不思議なのよねえ」

「……何がですか、華絵さん。因みに今、俺、凹んでますから労わってくださいね」

「駿って、その気になれば引く手数多でしょ? 菫一途ってところが、お姉さんには謎だわ~」

「俺が純情じゃおかしいですか」

「おかしいわ」

「おかしいよな」

「だから労わってってば! 興吾まで一緒になって」

「何の話だ?」


 戻ってきた菫が会話に加わる。


「駿が案外にへたれだって話よ、菫」

「いやいやいや、華絵さん? 曲解のし過ぎじゃないですか」

「村崎は良い奴ですよ」


 菫の微笑に、その場にいる全員の注目が集まった。

 彼女の発言を、素直に喜ぶべきかどうか駿は迷う。「良い人」、「良い奴」と評されるのは、男にとって必ずしも名誉ではない。しかも相手が意中の女性であれば尚更である。だが発言と共に菫の顔に浮かんだ微笑が、駿の心を和らげた。


「お前がいなくなると困る。だから村崎はずっと一緒にいろ」


 華絵と興吾の間でどよめきが起こる。菫の破格の発言に、興吾は顔をしかめ、華絵はあらまあ、と呟き、駿は今度こそ純粋に喜んだ。彼女の真意が、駿の霊刀・黒白への懸念ゆえのものだとしても。

 素直に嬉しかった。

 素直に嬉しかったから、約束は出来なかった。

 守れないかもしれない約束で、菫は縛れなかった。


 落陽の頃。

 興吾と研究室を出た菫は、アパートに向かって歩きながら考え事をしていた。

 信用されている気がしない。

 駿のことである。

 駿は、あらゆる諸機関から注視されていて、その点では菫も同様である。そして、その命の行方すら詮議に掛けられているところも。だから同胞と言って差し支えないのに、駿は笑うのだ。全てを包み隠す笑顔で、菫に一線を引く。ここから先は駄目だよ、と。菫にはそれが歯痒かった。菫を好きだと言いながら、まるで別れの時が来ることを予感しているような、そしてその時を望んでいるような空気を漂わせる。菫はその時の到来を恐れた。駿が遠く離れゆく日が来るのを恐れた。けれど全ての歯車が、今現在、別離の方向に向かって動いているようで。

 運命に人は抗えない。

 遠い昔。菫にそう告げたのは父である京史郎だった。翔が死んだあと。運命に人は抗えないと、菫に言い聴かせるように京史郎は、真剣で、そして悲壮な顔で告げた。あれは心強き父の、弱音の一端だったのか。菫に言って聴かせることで、息子を亡くした自らをも納得させようとしていたのか。それを怯懦だとは思わない。けれど今の菫には、その言葉に唯々諾々と従う積りはなかった。

 運命に人は抗う。それが抗うべきものであるのなら。

 抗えるかどうかではない。抗うかどうかの問題だ。

 意志が問われる。それだけだ。

 自分自身、月光姫と呼ばれ、災厄を招き得るバイオレットと目され、それでも菫は常人と同じ温もりを乞う。人として生まれた以上、その権利を、幸福を、常人と等しく求めて何の罪があるだろう。汚濁を滅する。その務めを果たしながら、恋をし、夢を見る。認められても良い筈だ。認められても、良い筈だ。


「菫」


 興吾の声で我に帰る。   


「泣くな」

「泣いてない」

「泣きそうな顔してるぞ。雨が降る、一歩手前ってとこだ」


 住宅街の中の、ぽかんとそこだけ田舎のような、田んぼの稲穂は早くも若草混じりの金に輝いている。夕日が稲穂と興吾の白髪を眩しく照らし出している。紫色の双眼が、姉の表情の何物をも見逃すまいと、強く光っている。


「村崎のことは心配するな」

「…………」

「俺が守ってやる。暁斎おじだって、助けてくれるだろう」


 プライドの高い興吾が、人を頼みにした発言をすることは、極めて珍しい。


「興吾」

「何だ」

「愛してる」

「気色わりい。そういう台詞は村崎にでも売れ。高値で買い取るぞ、あいつなら」


 菫はくすりと笑う。思い詰めていた思考が平らかになるのが判る。アパートはもう目の前で、部屋に着いたら興吾の好物を作ろうと思った。そんな平穏な思考がいつまでも許されるようにと願いながら。




 チャイムの音に、美津枝はインターフォンの映像を見てから答える。


「はい。何の御用でしょう?」

「こんにちは。僕は中ヶ谷遙と申します。菫さんとは小学校が一緒でした」

「あらあら、まあ、そうだったんですか」


 ガチャリと扉を開けて、美津枝は遙に会釈した。遙も頭を下げる。


「中学では菫さんと別になり、僕も引っ越しでしばらくこのあたりから離れていたんですが、最近になって戻ってきまして。懐かしくなってお宅に寄らせてもらいました」

「まあ、ご丁寧に。菫と仲良くしてくださっていたのね。生憎あの子、下宿してまして、今はこの家にはいないんですよ」

「そうでしたか……」

「でもどうぞ、お上がりくださいな。お茶でも飲んで行ってらしてください。久し振りに、菫の思い出話なんかもしたいわ」

「では、お言葉に甘えて」


 この遣り取りの間、遙はずっとにこやかな笑みを絶やさなかった。中性的に整った顔立ち、どこか優美な物腰は美津枝に警戒心を解かせるのに十分に役立った。そして遙は、美津枝を注意深く観察していた。


(何だ、これは?)


 莫迦な、と思う。なぜ、こんな異常な事態が持続されているのか。動揺する気持ちを押し隠して、神楽家に上り込む。玄関の靴箱の上には、菫が昔描いたのであろう花の絵がかかっていた。拙いが、花の生気が感じ取れる、勢いのある絵だ。そして娘の描いた絵を玄関に飾るあたりに、両親の情愛を感じる。ここの家庭は平穏なのだなと思い、自分の家と比較して少しうら寂しい気持ちになった。


 リビングのソファーに座り、もてなしの栗の渋皮煮とお茶を賞味しつつ、美津枝の話に相槌を打つ。今年は栗が早く手に入ったのよなど、菫とは関係のない話もあったが、遙は愛想よくそれに応じた。今日、神楽京史郎と別の隠師が教会内に侵入したと聴いたのは、彼らが去ってよりあとだった。なぜ自分も呼ばなかったのかと詰め寄った遙に、玲音は邪魔になるからだ、と口調こそ穏やかだが厳しいことを言ってのけた。意趣返しをしたければ、君も神楽家を訪ねたらどうだねと言う玲音の軽口に乗ったのは、菫の生まれ育った家を見てみたいという思いからでもあった。彼女が生まれ、育まれた家。自分とは異なり、穏やかな情愛に包まれて。神楽京史郎の根城を見たかったという思いもある。隠師の名家として名高い神楽家は、しかし長男である翔の死と共に零落し、家も替わったのだったと思い出したのはこの家に辿り着いてからだった。菫の実家の住所を知っていたのは、調べたからだ。菫だけではない。御倉華絵の邸宅も、持永誠一の住まいも、吹き荒れ荘の場所も遙たちは予め調べていた。今後、必要になるだろうという玲音の判断のもとでのことだった。実際、現にこうして役立っている。樹利亜は危うく殺されかけたと聴いた。自分が美津枝と歓談する様子を京史郎が目の当たりにすればどうなるだろうと、遙は底意地の悪い思いで時を過ごしていた。ささやかな、意趣返しにはなるだろう。京史郎が美津枝の目も憚らずにこの一戸建ての中、王黄院を振るうとは考えにくい。相手が相手だけにその考えすら甘いのかもしれないのだが。そして遙は、美津枝の異常に気付いてしまった。


(君は知っているの、菫ちゃん)


 知っていて、けれどこのままに放置しているのは、彼女の願いでもあるのだろうか。もしそうであるならばそれは、歪な願いであると遙は思う。そうまでして、手放したくない温もりだったのかと考えると、今度は同情と憐憫の情が湧いた。その情は、今、遙の前でにこにこと菫の思い出話を語っている美津枝に対しても向けられた。栗の渋皮煮は柔らかく口にするとほろりと崩れ、優しい甘さが口中に広がる。その優しい甘さが美津枝自身と、また、自分を捨てた母の遠い昔の姿と重なる気がして、遙は目を伏せた。


 やがて玄関の鍵が開く音がして、京史郎が帰宅した。


「お帰りなさい、貴方。今ね、菫の同級生だった中ヶ谷遙君が来てらして」


 京史郎からの返答の声は聴こえない。黙って頷いているのか、反応出来ない程に驚いているのか。

 ドアを開け、リビングに姿を現した京史郎は、特に驚いた顔もせず、遙を受け容れた。


「いらっしゃい」

「どうも、お邪魔してます」

「美津枝の相手ばかりで疲れただろう。どうかね。今度は私の話に付き合ってくれないか?」

「貴方、それじゃ遙君が退屈だわ。ねえ、遙君?」


 いつの間にか美津枝は遙を苗字ではなく名前で呼んでいた。

 はにかむ笑顔で、遙が答える。


「いえ、神楽さんのお話も是非、伺いたいです」

「そう? 無理はしないでね。じゃあ貴方、私はあとからコーヒーを持って行きますから」

「いや、コーヒーは要らない」

「あらそう。まあ、遙君はお茶も飲んだものね。飲み過ぎると水腹になるわね」


 遙は曖昧に頷く。京史郎が、美津枝に話を聞かれることを危惧したのだということが彼には解った。



 京史郎の書斎を、遙は興味深く見回した。六畳の洋間は決して広くはないが、あるべき物があるべきところに収まりよく落ち着いている為か、窮屈な印象はなく、全体的に垢抜けたレトロな調度品が、イギリスを思わせる洒落た部屋だった。硝子鉢のジェフレラの緑も、品の良いアクセントとなっている。机上にある、透明な硝子のデカンタに遙の目が向かう。繊細なカットが、部屋の天井から下がるペンダントランプの光を反射して煌めいている。中の赤い液体はワインだろうか。デカンタと揃いのように、恐らくバカラの物と思われるグラスが置かれてあった。この書斎で、京史郎は一人、何を考えながら呑むのだろう。

 肘掛け椅子に鷹揚に腰掛けた京史郎の、遙を見る目は鷹揚とは程遠かった。


「招かれざる客だな」

「貴方に言われる筋合いはないと思うけど」


 遙の切り返しに、京史郎が唇を苦笑の形に歪めた。


「君は……」


 ふと京史郎が言い差して、後ろの窓硝子を見る。降り出してきた雨音が、彼を振り向かせた。無防備なようでいて、隙のない背中。京史郎は向き直り、静穏な声で続けた。


「私に殺されに来たのかな」

「奥様のいるこのうちで、霊刀を顕現させると?」

「結界を張ればそれも可能だ。君は菫の同級生だったのか?」

「小学校の時、クラスが同じだった」

 

 答えた京史郎の問いに、遙もまた答える。


「娘の同級生を殺すのは忍びないな」

「思ってもいない癖に」


 遙が嗤う。


「そうだな。君は美津枝にまで逢ってしまった。解ったんだね?」

「解ったよ」


 ふー、と京史郎が嘆息する。事実彼は、この事態を憂いていた。遙が菫の同級生だったという不意打ちの事実も含めて。


「感覚の鋭さとは厄介だな」

「……あそこまでして貴方が守りたいものとは何。菫ちゃんもこのことを知っているの?」

「部外者の君に、とやかく言われることではない」

「菫ちゃんに話すよ」

「その前に君は王黄院の刃の露となる」

「脅しに屈するとでも?」

「ならば願いだ。中ヶ谷遙。どうか今ある、私たちの平穏を壊してくれるな。それが菫の幸せでもある」

「まやかしだ」

「まやかしで救われる人間もいる。狭量でない者であれば誰もが知ることだ」


 遙は京史郎を睨んだ。


「僕は菫ちゃんが泣くのを見たくない。そして貴方はそんな僕の感情につけ込んでいる」

「そうだ」

「卑怯だ」

「そうだな」


 遙は踵を返した。


「帰る。…………菫ちゃんには話さない」


 外では天が激しく泣き始めていた。遙の耳にはそれが菫の号泣にさえ聴こえた。そんな風に泣かれるくらいなら、今日見たことは自分の胸一つに収めようと、そう心に決めた。



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