現世で靴鳴らし皆が踊る
教会の周囲には幾つかの建物が並んでいた。教会と繋がる回廊も見える。どれも全て灰色の煉瓦が敷き詰められた壁面を見せている。京史郎は少し考えてから、教会の扉を開けた。
「放胆だな。人がいたらどうする」
「適宜、対応する」
「言葉を正そう。考えなしだ」
忍の批評にはもう答えず、京史郎は教会の玄関部に踏み入った。口を出す割に忍もついてくる。文字通り、見物する積りなのだろう。そして彼女には、それを可能とするだけの力がある。忍の手にした牡丹をちらりと見遣り、京史郎は正面を向く。真紅の絨毯が敷かれ、両脇には木の長椅子。そして太い柱。柱頭は細かな意匠の彫刻が施されている。天井は高く突き上がったリブ・ヴォールト。内陣には主祭壇とパイプオルガン。ファサードにはバラ窓。身廊を真っ直ぐに歩けばそこにもステンドグラスを拝むことになる。ステンドグラスにはキリスト像。十字架がないのが物寂しいとも言えるが、ごくありふれた教会だった。
外からこちらに向かう足音が聴こえ、京史郎は内陣横の扉を開け、そこに身を潜める。忍は影のように京史郎に寄り添い、彼の横にいた。京史郎は意に介さず、細くドアを開け、教会内の様子を窺う。バケツと雑巾、はたきを手にした人物は、教会の掃除を始めた。清掃スタッフらしい。京史郎はそのまま扉を静かに閉めると、今、自分がいる箇所が回廊部分に当たると察しをつける。香部屋(内陣奥の祭礼準備室)ではないらしい。
コツ、コツ、と靴音を鳴らしながら、まるで見学客のように京史郎は回廊を歩く。回廊の床も真紅の絨毯で、高い位置に嵌め殺しの小さな正方形の採光窓がある。その下には備えつけの燭台がある。天井にランプシェードがあるところからして、燭台は飾りか、雰囲気を盛り上げる時にだけ使う物だろう。銀の精緻な作りで、細い蛇が絡みついている。京史郎は違和感を覚える。キリスト教で蛇は忌まわしき者とされている筈だ。こんな意匠を好んで使うあたり、やはりここは通常の教会ではない。崇める対象はイエスでも聖母マリアでもない。
回廊の角を曲がると、部屋の扉が並んでいた。その内の一室は開け放たれている。中を覗くと、調理台や食器棚が並び、ガスコンロが見えた。ここで日々の食事を賄っているのだろう。室内の壁も外壁と同じ灰色の煉瓦で、古風な修道院を思わせる。葡萄が銀盆にうず高く盛られていて、これまた如何にも教会という風情だった。
足音が聴こえ、京史郎は調理台の脇に身を隠した。忍も横に潜む。
赤味がかったショートボブの少女が、そこだけは近代的なステンレス鋼板を用いた冷蔵庫の扉を開け、中から紙パックを取り出している。色合いからして、林檎ジュースを食器棚から取り出した硝子コップに注ぐと、中身を一気に飲み干した。ふう、と息を吐く。
そのまま少女は、京史郎たちに気付くことなく調理場をあとにした。
そう、京史郎が思った矢先だった。
廊下を行ってしまったと思った少女が、腕組みして、調理台を見据えている。その手には白いグラジオラスの花。
「ねえ。出てきなさいよ。どこの鼠か知らないけれど。あたしと遊びましょ?」
挑発的な声音には、見逃すまいとする強い意志が感じられる。
これに答えようと立ち上がりかけた京史郎を、忍の白く細い手が制した。
「この私を鼠呼ばわりするか、小娘。遊ぶと言ったな。その望み、叶えてくれよう。対価はお前の命だ」
ちろり、と忍の赤い舌が唇を舐める。蛇のようだと京史郎は思った。楽園の住人らを唆した賢しらな存在。グラジオラスを手にした少女が、一歩、後ずさるのが見えた。
「仰天の御柱。玉水宴」
牡丹の花から水色の刀身を持った霊刀が顕現する。刀身の中に揺らぐ水が見える。極めて純度と透明度の高い水を内包しているのだ。細く、華奢で美麗な装身具にさえ見える霊刀だが、京史郎の感覚は玉水宴に脅威を感じた。刃を交えずとも、端から見ただけで知れる圧倒的な霊力。相対する少女に憐れみを感じる程に。
「精霊が宿る。魔魅は陥る。俗世現世の流れ。煉獄真紅」
先程、一歩後退したことを除けば、玉水宴の顕現を見ても少女に怖じる気配はなく、果敢に自らの霊刀を呼び出した。
レイピアのように細い、両刃の剣。細いぶん、真紅の色は濃く、凝縮されたようだった。
玉水宴と煉獄真紅が打ち合う。斬り結ぶと言うよりは、互いの刃を弾き合っていると言ったほうが適した戦いだった。点を狙う少女に対して、線で応じる忍。玉水宴の強度と拮抗する程の強度がなければ、打ち合いは続かない。京史郎は煉獄真紅の強靭さに感心した。彼は二人の勝負に、一切の手出しをする積りがなかった。その必要性を感じなかったからでもあるし、もし手出ししようものなら、忍は次に玉水宴を自分に向けるだろうと予測出来たからでもある。良い勝負、と見える戦いの行方を、しかし京史郎は既に判じていた。
少女の額に浮かぶ脂汗。
忍の目に浮かぶ歓喜。狩人の眼差し。
実力伯仲と見せかけて、その実、忍は言った通りに遊んでいた。少女はまるで、猫に弄ばれる鼠だった。
「玉水宴。風浪ぼかし」
忍の霊刀が、少女の煉獄真紅に流動して絡みつき、少女の心臓を一突きしようとした。
「そこまでにしてもらおう」
ぴたりと、玉水宴が止まる。少女の心臓の真上だった。
現れたのは白髪、司祭服を着た水色の瞳の男。
「玲音!」
「無茶が過ぎるよ、樹利亜。君が死んだら虎鉄たちが悲しむ。もちろん、私もね」
忍は玉水宴を樹利亜から離し、蒼い双眸で測るように玲音を見ている。邪魔をされたという不快感も、その目には宿っていた。
「そうか。お前がさしずめ汚濁の元締めか。私の遊戯の邪魔をしたのだ。次はお前が相手をしてくれるのだろうな?」
「待て、千羽忍」
「何だ、神楽の。邪魔立てするな」
玲音が両腕を鷹揚に広げる。
「君では私に勝てんよ」
「ほう?」
「死にたいかね」
「是非もなし。止めるな、神楽」
「駄目だ」
逸る忍を、京史郎は頑なに止めた。玲音の言葉はただのはったりではない。嘘や誤魔化しではなく、忍では確かに勝てないと京史郎の直感が告げていた。この、化け物めいた力を誇る隠師でさえ、玲音には敗れる。死ぬ。そのことが判ってしまった。判ったからには、京史郎は全力を賭して忍を止めなければならなかった。
力を顕現させる方向性が、根本からして違う。
「君たちの侵入には気づいていたよ。バイオレットの身内でもあるから、見学するに任せておいた。寛容な処置と思ってもらいたい。神楽京史郎、千羽忍。今日は見学のみに留めたが賢明だろう。命は大切にしたまえ」
「見逃すと?」
「ここまで辿り着いたことに、敬意を表しておこう」
「相解った。いずれ私がお前を殺す。今日は退散するとしよう」
「吠えるのは負け犬と決まっているが……」
忍の玉水宴がしゅるりと伸び、玲音の首に巻きついた。
巻きつき、そして霧散した。
忍が目を瞠る。
玲音は霊刀さえ所持していない。
「得心したなら帰りなさい」
教会からの帰路、忍は無言だった。屈辱に打ち震えているかと思えば、そんな様子でもない。何やら思索に耽っている。京史郎もまた、玲音の能力について思いを巡らしていた。
「大方の予測はついたが、まだ材料が足りんな」
「玲音とやらの能力か」
「ああ。まあ、我らの能力は秘すことが戦略の内であるからして、私たちにその一端を見せたところはあの男の度量か油断か。いずれにしろ、厄介には違いない。嘉治たちに調べさせるとしよう」
「嘉治……。小池嘉治か」
「そうだ。御師は隠師と違い、祈祷くらいしか霊力の発揮する術がないゆえ、無力と思われがちだが、ゆえにこそ、霊刀、霊力の研究には熱心だ。胡散臭い司祭の異能も、格好の研究、調査分析対象となるだろう」
「その為にはまず霊力そのものの断片なりが必要だろう」
忍が笑った。
外はいつの間にか日没が迫り、橙色の黄昏が、忍の振袖姿を艶やかに彩っている。
水色の長い髪が、清涼に風に靡いた。
忍は京史郎に紫色のストラ(司祭が礼拝の際に首から掛ける帯)を投げて寄越す。
「……香部屋に入った記憶はないが」
「何、そこはそれ、要領だ」
答えになっていない答えとこの行動が、京史郎に百瀬を思い起こさせた。畢竟、彼女もまた百瀬のような化け物の部類だと考えればとりあえずの納得は行く。
「あの生臭坊主の化けの皮はこちらで剥がしてやる。貴殿はせいぜい、娘御を大切にしろ」
初手とは言え、軽くあしらわれた事実を、忍はやはり根に持っているらしい。
京史郎は紫色のストラを見て、それが今回の敵地潜入における一番の収穫だろうと考えた。