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銀の雪が地に降りる

挿絵(By みてみん)




挿絵(By みてみん)




 水を掻き、進む。浮力が菫の身体を押し上げる。前面へと押し出される身体。五十メートルをもう何往復したか。だいぶ息が上がっている。ノンストップで泳ぎ続けたせいだ。菫は泳ぐのを止めて、仰向けになり、ぷかりとただ身体を水に浮かせた。ゆらゆらと揺蕩う。屋内プールの、高い天井が見える。他の人間が泳ぐ音、話し声が反響している。そういう構造なのだ。

 ここのところ、色々なことがあり過ぎた。心を無にする時間が欲しくて、菫はプールに身を浸した。網目模様の光。透明度の高い水は深く、水中は物音を吸い込むようで。

 けれど心を無にするには至れなかった。

 泳いでいても、つい考えてしまう。

 駿の霊刀。興吾を殺してその口を封じようとした静馬。百瀬の言葉。宮部の、京史郎の、遙の、鶴の顔が浮かび、様々な思考が菫の内に押し寄せた。プールの水も、そこまで押し流してはくれなかった。

 暁斎は自分を渡さないと遙たちに言った。その事実だけが今、菫の中で灯火のように明るく光っていた。例え他意のない発言であったとしても。

 隣のコースを泳いでいた華絵が、菫の横で泳ぎを止める。

 黒に、銀のスパンコールがついたハイレグは胸元も深く、それでなくても魅惑的な華絵の身体を扇情的にも悩ましげにも見せる。


「そろそろ上がる?」

「そうですね」


 華絵は普段、余りプールに近寄らない。それでも菫が泳ぐことを好むので、研究室に水着は常備している。今日の菫の口数の少なさ、物思いに耽る様子から、気に掛けて、プールまで付き合ってくれたのだ。華絵は何も訊かない。それが菫には有り難かった。

 プールから上がった菫たちを、待ち構えたように駿が立っていた。無地の白いTシャツに黒いハーフパンツ。その色合いが、夜闇の中での静馬の霊刀を菫に連想させ、一瞬、昨日の出来事がフラッシュバックする。駿の上げた声は陽気だった。


「目の保養だねえ、お二人さん。カメラの持ち込み不可なのが残念だよ」

「助平は立ち入り禁止よ、ここ」

「釣れないこと言わないで」


 駿が抜かりなく用意しておいたバスタオルを二枚、それぞれ菫と華絵に放って寄越す。

 このにこやかな笑顔が、仮面であることをもう菫は知っている。彼は静馬の行動をどこまで把握しているのだろうかと菫は考える。控え目に見ても、駿は興吾と年の離れた友人、且つ戦友的な思いを抱いているように見える。幾ら静馬が嘗て、駿の兄代わりであったとは言え、興吾を殺そうとした事実を知れば、平静ではいられまい。プールの水中に置いてきた筈の渦巻く思念がまた首をもたげてきて、菫はバスタオルで顔を覆った。


 プール施設の外に出ると、午前中の明るい光が目を刺す。双眸を細めて見上げる空は青く高く、間近に迫る秋という季節を意識させる。空気の透明度が増し、桜の樹の葉の緑が薄れてきている。紅葉に備えているのだ。自分は何に備えれば良いのだろうと菫は思う。どうやらプールの水の効能は余りなかったようだ。桜の葉の一枚を見ても、長老、霊能特務課、巫術士、御師、そして遙たちの存在が声高に菫を呼ぶ。こっちにおいで、バイオレット、と。その声が聴こえそうだ。


 研究室に戻ると、興吾が一人でパソコンに向かっていた。最早、菫のパソコンは彼に私有化されている。白髪、紫の瞳の弟の姿を見て、菫はぎくりとした。今、興吾は一人でここにいたのだ。自分も華絵も駿も、仲間と呼べる存在の無い中、孤立して。そこを狙い目とされていたらと考えて、菫は怖くなった。簡単に、為されるままになる興吾ではない。その実力は贔屓目抜きにして高い。それでも。静馬のように霊刀を繰り、興吾を消そうと考える輩が多勢で襲ってきたら。


「おう、菫。戻ったか」

「菫はん、華絵はん、村崎はん、お邪魔してます」


 興吾の声に次いで聴こえた京都弁に、菫は応接セットのソファーに目を遣る。救われた心地で。暁斎が座り、穏やかに笑んでいた。

 興吾にばかり気を取られていて気付くのに遅れた。暁斎が来ていたのだ。そうであれば興吾の身は安全だ。静馬の一件を知って来た訳ではあるまいが、暁斎は最強のボディーガード足り得るだろう。菫は安堵の息を吐いた。

 緑茶を全員分淹れ、まずは暁斎に出す。


「暁斎おじ様、今日はどんなご用でいらしたんですか?」

「何やら最近、物騒でしてん、菫はんたちがどないしてはるやろ思いましてなあ」


 そう言って緑茶を静かに飲む暁斎を、菫は凝視する。まさか駿の霊刀の詳細、興吾が静馬の襲撃に遭ったことを察知したとは思えないが。良過ぎるタイミングに、穿って考えてみたくもなる。お茶請けとして柚子の砂糖漬けも暁斎の前に置きながら、駿を見ると、彼もまた疑念の色濃い表情で暁斎を見ていた。

 寧ろそうであってくれれば、と菫は思う。

 暁斎が何もかも承知の上で、菫たちを助けるべく動いてくれているのであれば。これ程、心強いことはない。その考えが、甘えたものと知りつつ、菫は願望を抱く。

 急に、暁斎の薄紫の双眸が菫を向く。見えていない目が、過たず自分を見ることに、菫は怯え、歓喜した。


「菫はん、どないしはりましたか」

「え?」

「心拍数が上がってます」

「いえ、別にどうも」

「さよですか。ああ、課長が馳走であった、言うてはりましたえ」


 この台詞に、菫は別の意味で緊張した。その〝馳走〟の見返りに得た情報。暁斎は知っているのだろうか。


「特務課長がどうかしましたか、暁斎さん」


 笑いながら尋ねる駿の、目は笑っていない。


「菫はんに夕食を御馳走になったそうです」

「――――京都にいるのに?」

「電話越しに」

「ああ、お化けだったな」


 駿が、不敬とも取れる発言をする。


「空耳が聴こえましたわ」


 にこにこと暁斎が笑う。

 駿の言わんとするところを承知した上でだ。

 銀の雪だ、と菫は思う。

 暁斎はまるで銀の雪のようだ。皆の上にしんしんと降り積もり、いつの間にか視界を覆う。彼の存念を知るのは彼自身のみ。周囲はただ、推し量るだけ。美しいが孤独だ。独りだ。彼に係累はいない。不要とすら感じているのかもしれない。寄り添う人を、求めない強さは、寂しくてそして弱い。脆い。硝子細工の脆さだ。


(あんなに強い貴方が)


 暁斎の内幕を知る人間が、果たしてどれだけいるだろう。その内実は不透明且つ空虚であると? 執着を持たないことは決して一言で強さであるとは断じ切れない。ふと垣間見えてしまった真実を、菫は持て余した。見えずの暁斎、されど視えたる。そう称せられる彼が、視えることで、聴こえることで、抱く孤独は如何ばかりのものであろう。

 菫は気付けば暁斎の黒い単衣の袖に手を伸ばして掴んでいた。掴むと言うには余りに弱々しい力で。皆の視線がその手に集中する。


「どないしはりました、菫はん?」


 暁斎は菫の手を振り解くこともなく、優しい声音で尋ねる。子供をあやすような優しさに、菫は切なくなった。自分では足りないだろうか。暁斎の隣に並び立つことは出来ないだろうか。ただ庇護下にあるだけを望みはしない。銀の雪に触れたい。彼の心に入りたい。

 いずれ月の光が、銀の雪を解かすこともあるのだろうか。


 文学部棟二階の端。持永研究室から最も遠く離れた箇所。窓硝子の採光が、薄暗い廊下をささやかに明るく照らす一画で、駿はスマートフォンを耳に当てていた。


『珍しいね、君から電話とは。定時連絡かい?』

「静馬。お前、動いたか?」

『何の話だい』

「ふざけるな。どうして興吾から皓刃の気配がする。ぷんぷん匂うぜ」

『――――感覚が鋭いのも考え物だ』

「あいつに手を出すな」

『黒白のことを知られただろう』

「あいつは口外しない」

『保証はない』

「安野暁斎が来ている」

『…………』

「何か嗅ぎつけられたのかもしれない。お前は当分、こちらには顔を出すな」

『バイオレットは君の黒白の真実に肉迫しているよ』

「――――」

『もうあと一歩だ、駿。もうあと一歩、君が踏み誤れば、君の日常は瓦解する』

「脅しかよ」

『事実だ。ねえ、駿。もしそうなれば、僕が君に手を下す可能性だって有り得るんだよ』

「やってみろ」

『嫌だよ。だから身辺、せいぜい気を付けてくれ』


 もう手遅れかもしれないけれど、と最後に言って、通話は切れた。




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