親愛なる君へ
百瀬との「ガールズトーク」も終わり、寝る準備を菫がしていると、興吾が煉瓦の壁の向こうに行った。
「菫。俺、コンビニ行ってくる」
「暗いぞ。気をつけろ」
「誰に言ってる」
興吾は不敵な笑いを見せると、玄関のドアを開けた。
隠師の家に生まれた者は、霊刀の扱いと共に体術も教えられる。霊刀を顕現させてただ振り回すだけでは、汚濁は斬れないのだ。だから霊刀なしでも、興吾も菫もある程度、格闘の心得はあった。
住宅地の街灯の下を通る興吾の白髪は、夜闇に目立つ。
「称えられよ慈しみの戦慄、憐れみを施せ禍つ恐怖。霊刹の妙なるを聴け。皓刃」
声が響くと同時に、興吾は横っ飛びに跳んで、刃をかわしていた。純白の、雪の凝りのように美しい刃を。道に生えていた蓬を手折る。
「誰だ」
「小池静馬。君は黒白の見てはならないものを見てしまった」
街灯の下、憂いある容貌で、静馬は静かに告げる。
「だから消すか」
返答の代わりに刃が降ってきた。
「飛翔する影は陽の鉄槌を受け足下に座す。八百緑斬」
顕現した若草色の霊刀と、純白の霊刀が入り乱れる。刃が打ち合う音が無数に響く。興吾の逆袈裟を静馬が避け、空いた隙を狙い切っ先を繰り出す。興吾がそれを弾く。白い雪が散る錯覚を覚える。
「皓刃。比丘尼の情け」
静馬が唱えた。その呪言を聴いたのを最後に、興吾の意識は飛んだ。
波の音がする。気付けば真っ白な空間に、興吾はいた。
(巫術の一種か)
この空間からは結界術の気配がする。結界は本来、自陣を守り固めるのがその性質ではあるが、他者を閉じ込める攻撃としても有効である。隠師にはそれを霊刀で為す者もいる。静馬はそのタイプのようだ。尤も、扱う術がそれだけとは限らないが。比丘尼と言っていた。人魚の肉を食べ、不老不死となった八百比丘尼。その名を冠する技であるなら、つまりは時に封じ込められたということになるのだろう。八百緑斬が、主の心を反映するように所在なさげに若草を光らせる。
寄せては返す、波の音。そしてどこまでも白い空間。果て無しの。
白く白く、どこまでも白。色彩を有するのは自分だけ。
これは結構な拷問だ。時が経てばこの術に囚われた者は発狂して死ぬ。己独り、不変の檻に囚われて生き続けていける程、人の心は強くない。
(八百比丘尼は若狭に縁が深いらしいからな。それで波の音が聴こえるのか)
小池静馬と名乗った青年は、恐らく駿の知己だろう。それもかなり親しい。興吾に刃を向けたのは、駿の秘密を知った為。駿の身を案じての暴挙だろうが、正直、傍迷惑な話だと興吾は思う。そもそも興吾に駿の黒白に関して口外する積りはない。それは相手が菫であってでさえだ。つまり静馬は、興吾のそうした考え、そして信頼に足るか足らないかを見極める手間と余裕がない状態で、興吾の口を封じようと考えたのだ。
(物騒なダチだな、村崎)
がりがりと白髪を掻く。
「行けるな? 八百緑斬」
興吾の問いに、頼もしくも強く発光する若草の刃。
興吾は唇に笑みを湛えた。
「八百緑斬。払魔滅消」
消した筈のものが不意に現れると人は驚く。この時の静馬がそうだった。
比丘尼の情けはまだ年若い隠師に破れるような甘い術ではない。だが現に術は破れ、目の前には興吾が降り立った。若草の刃の切っ先が、静馬の首に向く。
「本当であれば君を殺したくはない」
「今更かよ」
「君は翔の弟だ」
「……兄貴のダチか? 俺は黒白のことを口外しないぜ」
「口約束なら何とでも言える。しかも君はまだ幼い。うっかり口を滑らせる可能性がないと、なぜ言い切れる?」
この、静馬の子供扱いが、興吾の逆鱗に触れた。術を破った相手を、まだ見下すか。
「八百緑斬。不免罪」
八百緑斬が柔らかな帯状の光を発し、それが見る間に静馬の身体を締め上げる。締め上げつつ、霊力を削ぐ。静馬の顔が苦悶に歪む。じわじわと生気も奪われる。興吾の気性に相応しからぬ、これはなぶり殺しの技だ。
「皓刃。飛行雪」
興吾目掛けて、白雪の矢が何本も飛来する。八百緑斬で幾ら打ち落としてもその勢いは留まるところを知らない。矢は天からも地からも降り注ぐ。まともに全てが当たっていれば、奇怪でおぞましい遺体が出来上がるだろう。しかしその間も八百緑斬から生まれた光の帯は静馬の身を締め付け、霊力と生気を削ぐ。どちらが先に音を上げるか。消耗戦だった。
「銀月。月下銀光!」
割り込んだ声が、二人の膠着状態を終結させた。銀の串が降り注ぎ、静馬を締める若草の帯を裂き、そして興吾に飛来する矢の、その全てを串が折り伏せた。
路上に立つ菫は、興吾と静馬の双方を見て、戸惑い、且つ憤っていた。
「どういうことですか、静馬さん」
「……バイオレット」
「村崎の霊刀の、口封じだとよ」
「興吾を殺そうとしたのですか。兄さんの友人である、貴方が?」
とても信じられないという顔で、それでも菫は興吾を背にして静馬を詰問した。
静馬は苦しげな表情だった。
「黒白は駿の最強の武器であり、最大の弱点だ。知る人間は少なければ少ないほうが良い」
パン、と小気味いい音がして、静馬は菫に頬を張られたのだと気付いた。
「事の重要性は解っている積りです。ですがその為に私の弟を殺そうとした貴方の行為は許せない。知る人間は少ないほうが良いと言いましたね。ならば私も殺しなさい。私もまた、黒白の危険性を知りました」
「なぜ、知ったんだ。バイオレット。駿は、とりわけ君には知られたくなかった筈なんだ」
「どんなに秘しても、洩れ出る真実はあります。その為に血が流れると言うのなら、その血を私が止めましょう」
すっかり殺気を消した静馬は、皓刃を無に帰した。それを見て興吾も、八百緑斬を無に帰す。菫も彼らに倣った。
「駿は君のことが好きだよ。好きな女の子にそこまで言ってもらえたら、あいつも本望だろうな」
軽口めいた言葉を残し、静馬は夜の闇に消えた。街灯の明かりさえ届かない闇は、今の彼の心中を表わしているのではないかと菫には思えた。
「興吾、無事か?」
「プライド以外は」
「よし」
「よし、じゃねえよ。男同士の勝負を邪魔しやがって」
「莫迦。あのままだったら、どちらかが死んでたぞ」
二人は軽い姉弟喧嘩をしながら一緒にコンビニへと向かい、それからアパートに戻った。
戦闘で疲労したのか、興吾の眠りはいつもより早かった。全く、目が離せないと菫は思う。なまじ戦闘能力が高いだけに、まだ子供の身で無茶をする。その、子供である興吾を手に掛けようと考える程、静馬は黒白の性質を隠しておきたかったのだろうか。翔の弟である興吾の命より、秘密の保持を優先する、その心が菫には解らない。月光姫と呼ばれる自分の能力も、既に明らかになってしまった。隠そうとしても、隠しきれない物事はある。影絵のように。隠そうとすればする程、露わになる。菫は寝返りを打った。ひょっとしたら静馬は、駿の命と興吾の命を天秤にかけたのかもしれない。黒白の性質は、今、菫や興吾、そして百瀬が知る以上に厄介なものである可能性がある。それを最も忌み嫌い、危険視するのは、駿の幼少期を知る、御師たちではなかろうか。即ち、静馬の親族。黒白を有する駿に、悪感情を抱いていないとどうして言えるだろう。
タオルケットを頭から被り、菫はごろごろとベッドの上で寝返りを繰り返す。
枕元に置いていた紫水晶を握るとひんやりとした。
握った状態で、菫は睡魔に襲われた。
(私はお前の助けになれるか。村崎)
月光が、白銀色のカーテンの隙間から清かに射し、眠る姉と弟の姿を照らしていた。