ガールズトーク
人の心は計り知れない。些細なことがきっかけで、その天秤は簡単に傾く。右に、或いは左に。駿がいなくなったら。あの、空中浮遊牢に彼が囚われていた間の、焦燥感と胸にぽっかり穴が開いたような感覚を菫は思い出す。不思議と駿が死ぬという仮定は思い浮かばなかった。ただ、彼がいなくなるとすれば、今度は自発的に、自らの意志で菫たちの前から去るのだろうと思えた。そのことを寂しいと感じる。彼がいるのは菫にとって余りに当たり前のことで、日常で、光景で。軽い態度と笑顔で、いつまでもこの研究室に、吹き荒れ荘に留まるものと信じ込んでいた。願望が、そこにはあった。幼少期の出逢い。大学での再会。尤も、再会だったと知ったのはつい最近だったが。村崎駿という男は、いつもいつの間にか菫の傍にいる。その事実に慣れ親しんでいた。
(霊刀の異常性)
それがいつの日か駿を連れ去ってしまうのだろうか。可能性はそれしか思いつかない。菫は誰かに助けを求めたかった。例えば今、暁斎が目の前にいたなら、自分の抱く不安を打ち明け、そうして心の負荷を軽くしようとするかもしれない。けれどここに暁斎はいないし、いたとしても内容が内容だ。明かせば駿の心証が悪くなるかもしれないものを、軽率に口にすることは憚られる。
「興吾」
「ん?」
研究室から帰り、菫の作ったウィンナーと葱チャーハンを口に運びながら、興吾が紫色の目を菫に向ける。
「村崎の跡を追ったんだよな。何を見た?」
興吾の双眸がふいと真剣になる。
「言えねえ。あいつの、問題だ」
「興吾」
「菫。あいつはやめとけよ」
「そんなんじゃない」
牛肉とわかめの入った韓国風スープを飲み、興吾が醒めた目で語る。
「時が来たら解るだろう。でも俺は、その時が来ないことを願う」
「時が来たら手遅れかもしれないじゃないか」
「ならそれが、あいつの潮時だ。ご馳走様」
興吾はリビングとキッチンを隔てる煉瓦の壁の横を抜け、さっさと食器を洗い始めた。菫は不承不承、夕食の続きを摂り、空いた皿をキッチンに運んだ。開けたベランダの硝子戸の、網戸の向こうから博多の浜風が吹いてくる。密やかな冷涼は季節が移ろいゆくことを暗示している。菫は翔の形見である紫水晶を掌に乗せ、じっと見つめた。そうすればそこに最良の答えが現れる気がして。気持ちを鎮めたかった。美しく澄んだ輝きを放つ水晶は、菫の悩みを払拭してくれるのではないかと思えた。
ちらちらと光る鉱石は固くて、何も喋らないところは駿や興吾と同じだけれど。
(兄さん)
何だい、バイオレット。僕の可愛いお姫様。
彼であれば。生きてさえいれば、そう言って、菫の悩みを何でも聴いてくれただろう。駿に関する不安も、暁斎への思慕も、翔にであればきっと打ち明けられた。翔はどんな時でも、菫の味方でいてくれる筈だから。
感傷的になっている。自分でもそう思う。
そのくらい、駿の存在は自分に影響を及ぼしていたのかと、菫は驚いていた。
スマートフォンの音が鳴る。
(暁斎おじ様?)
自分の助けを求める心の声が聴こえたのだろうか。暁斎であれば良い。そう思いながら着信元を見た菫は、複雑な顔になった。
「もしもし」
『バナナかえ』
「菫です、特務課長」
するとスマートフォンの画面から、にゅうと十二単の袖と白く小さな手が飛び出てきた。その手はそのまま菫の頬に伸び、むにゅ~と引っ張る。
「はひょう、ひゃへへふひゃひゃひ」
「うむ、若者の肌の張り、真、羨ましい限りよの」
「何の御用ですか」
やっと解放された頬を擦りながら、菫が百瀬に尋ねる。
「ご挨拶じゃな。折角、わらわ直々に、ガールズトークをせんと電話を掛けてやったに」
「…………」
お化け、もとい隠師を束ねる霊能特務課長とガールズトーク。正直、菫には傍迷惑な事柄と言えた。そもそもガールズトークと言うには、百瀬も自分も薹が立っているように思える。
「聴け、バイオレット」
百瀬の口調が変わる。冷厳に。
「そなたは引く手数多じゃが、我が霊能特務課だけはそなたを囲い込もうとせなんだ。自由の気風と、そなたの意志を重んじるゆえな。したが最近、そなたに手を出す連中、多過ぎる」
「課長まで、私を欲されますか」
「たわけたバナナか。有象無象の輩と一緒にするでないわ。早晩、わらわ自ら骨折りしてやるかもしれないと申すに」
何事も面倒臭がる百瀬にしては、破格の言葉だった。そして彼女がそこまで決断する程、自分は他者から見た好餌なのだと思い知らされる。
「課長。村崎は今後どうなりましょう」
「村崎? 差し当たってはどうもなるまいよ。何か心配事でもあるのか」
「課長は村崎の霊刀の異常性の詳細をご存じですか」
「存じておるが? 存じておりながら野放しにしている、わらわの度量を褒めて欲しいところよな」
「その詳細、教えていただけないでしょうか」
「バイオレットよ」
百瀬の口調が、深沈としたものになる。
「本人が秘して明かさぬものを、わらわが暴き立てすることは出来ぬ。得心が行かぬじゃろうがの」
菫は唇を噛み締める。結局、こうなのだ。自分の正体も、駿の霊刀の異常性の神髄も、知る者は口を閉ざし、渦中にある筈の菫は幼児のように、お前は何も知らないで良いのだよと言われる。
スマートフォンの通話口から出ていた百瀬の手が、ローテーブルの上に伸び、飴玉の包みを掴むと引っ込んだ。ばりぼりと勢いのいい音が聴こえる。
「苺ミルク、美味よの~」
そこではったと菫は思いついた。百瀬は食い意地が張っている。それはもう、人の何倍も。
「百瀬課長。お夕飯はお済みですか」
「それがまだでの。空腹なのじゃ」
「ウィンナーと葱のチャーハン、牛肉とわかめのスープ、里芋の煮っ転がしなどありますが」
くいくい、と百瀬の白い手が上向きに招く。持ってこいと言うのだ。
そこで菫は余った食材を温め直し、ローテーブルの上に置いた。百瀬の白い手が箸を以て食卓に向かう。スマートフォンに消えてゆく夕飯たち。
「うむ、美味。バイオレットは料理が上手じゃの~。良い嫁となろうて。さて、相手は誰になるか知らぬが」
百瀬の冷やかしを受け流し、菫は訊きたいことを口にした。
「それで課長、村崎の黒白のことですが」
「ああ、あれはの、剣呑よ。喰らうは汚濁のみならず。何せ霊刀までその捕食対象なんじゃからな…………あ、しもうた。言ってしもうた」
霊刀をも喰らう霊刀。悪食にしておぞましきその性質。いや、喰らうのは果たして霊刀だけに留まるのだろうか?
「ゆえにの、直截に申せば長老たちの気持ちも解らぬ訳でもないのよ」
「……課長は、村崎を庇ってくださったのですね」
「勘違い致すな。情に動かされてのことではない。如何なる危険な持ち札も、手中に収め、使い切って見せるのが上に立つ者の器量よ」
その危険な持ち札の中には自分も含まれているのだろうと思いながらも、菫は安堵した。百瀬が駿を手放さない限り、駿との別離の可能性も低い。