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こんにちはさようなら

挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)




 駿の姿が研究室内になかったので、菫は首を傾げた。彼の下宿先・吹き荒れ荘はお世辞にも居心地が良いとは言えず、冷暖房費の節約も兼ねて、誰より早く研究室に来て、なるべく遅くまで室内に粘ることが多いのが駿の常だ。

 

「おはよう、菫」

「おはようございます、華絵さん」

「興吾も、おはよう」

「おはよう」


 パソコンに何やら入力していた華絵が、艶やかな笑みと共に菫たちに声を掛ける。いつもの平穏な朝だ。なのにこの胸騒ぎは何だろう。興吾も、どこか厳しい顔をしている。


「俺、ちょっと出てくる」


 そう言って、研究室を出て行ってしまった。止める間もなかった。小さな身体はすばしこく、菫が手を伸べた時にはその姿はドアの向こうに消えた。

 嘆息した菫は自分も修士論文の続きを書こうと思い、その前にコーヒーを淹れることにする。薬缶に湯を沸かし、コーヒーミルで豆を挽く。ガリガリという音は、いつもは心安らがせるものなのに、なぜだか今は菫の不安を助長させるようで、ほんの少しそれが忌々しかった。



 虎鉄の本能がざわつき、慄いていた。レッド・シグナル。

 すかさず駿から、黒白から離れ、間合いを取る。


「――――何だ、その刀は」

「黒白だよ。厭わしくも愛おしい俺の相棒」

「汚濁を喰らうだけじゃないのか」


 駿の面に冷酷な笑みが宿る。


「誰がそれだけだと言った」

「有り得ない。霊刀をも、喰らおうとする霊刀など」

「有り得ないことは有り得ない。世の中、そんなものさ」

「――――赤峰秀。混沌烈火」


 虎鉄の赤黒く分厚い刀身から煌めく業火が生まれ、駿を取り巻き、更にその周囲が球体を成して駿を取り込む。透明度の高い赤の球体の中、囚われれば焼け死ぬしかない。

 だが。

 虎鉄の目は見た。

 球体内で炎が収束し、球体さえ溶け消える瞬間を。

 何事も無かったような顔で立つ駿を、虎鉄は異形だと感じた。今、起きたことが信じられない。駿の黒白は、混沌烈火の生み出した業火も、虜とする球体をも喰らったのだ。こうなると最早、隠師ではなく、人外の業だった。

 今はまだ緑の葉を揺らす桜の樹が公園の敷地内をぐるりと囲み、花梨の樹は静かにブランコの後ろに立っている。ささやかに満たされた、牧歌的な風景。

 それを背にして立つ異形の男。

 唇にはにこやかな笑みを刷き。


「お前は誰だ」

「村崎駿」

「お前は何だ。人間か?」


 投げつけられた、嫌悪混じりの声にも駿の笑みは動じない。虎鉄は、これまで駿を自分に近しい相手だと感じていた。虎鉄もまた、駿と同じく家族を事故で亡くし、施設に預けられた。違いはその惨事が早いか遅いかだけのことであろうと思っていた。虎鉄が家族を亡くしたのは、中学に入ってからだった。だが親戚とは疎遠になった。隠師の親戚はもう図体も大きくなった虎鉄を引き取ることを拒んだ。


〝お前は要らない子なの〟


 だからそう母親に言われた遙の気持ちが虎鉄にはよく理解出来た。駿もまた、そうだと思っていた。彼の霊刀を、その力を知るまでは。

 駿が嗤う。


「陳腐な質問だな。じゃあ、あんたは人間なのか? 人間って何だ?」

「空中浮遊牢に、お前を縛しておきたいと考えた、長老たちの思惑が今ならよく解る」

「理解者が出来てじいさんたちもさぞ喜ぶだろうよ」

「こちら側につく気はないか」


 駿の目が丸くなる。


「正気か? 黒白の力を見た上で、まだ俺を誘おうってんなら、相当なクレイジーだぜ」

「俺たちはとっくに狂ってる。だがバイオレットたちは正気だろう。正気の中にあって、その霊刀を抱え続けるのは苦しいだろう」

「……断る」

「諦めないさ。村崎駿。異形の主。お前こそがバイオレットと並び立つ真のジョーカー。いつかまた、迎えに来る」

「無駄足になるぜ」


 駿の乾いた声にちらりと白い歯を見せて、虎鉄は赤峰秀を無に帰すと、公園の敷地を出て行った。簡略結界が消え、虎鉄の横を通り過ぎた低い位置にある白髪を一瞥したが、無言で歩み去った。


「いつから見てた?」


 駿が声を掛ける。小さな人影。暁斎と同じ色彩を持つ少年に。

 白髪が陽光を弾き、銀髪にも似た輝きを放つ。

 強い紫の瞳が、真っ直ぐに駿を射抜いている。


「黒白が出たところから」

「参ったな。どうしてここが解った?」

「戦闘の、気配がした。だから追った」

「まだ霊刀も出していなかったのに?」

「戦意は明瞭だった」

「それだけでか。末恐ろしいな」


 駿は実際、興吾を扱いあぐねていた。黒白を出したのは、既に長老たちには周知の霊刀として知られたあとのことだからであり、改めて拘束されるような事態にはもうならないだろうと踏んだからである。だが菫に似て高潔な、この小さな目撃者は、大人の老獪な思惑や寛容さを持ち得ない。


「答えろ、村崎。お前は俺たちの味方か」

「……俺はその積りだ。いつまでも、そうありたいと願っている」

「黒白が、菫に向かう日はないと?」

「そんな日は永久に来ない」

「お前、その霊刀をコントロール出来ているのか」


 今はもう無に帰して、花梨の枝しか手に残らぬ駿の、それでもまだそこに霊刀があるかのように見据える興吾の問いは、駿には痛い問いだった。


「…………」

「沈黙が答えか。頼りねえな。お前が黒白を御し切れなくなったら、俺は八百緑斬をお前に向けるだろう」


 興吾の予想に反して、駿が弱々しく笑った。


「そんな必要はないよ」


 黒白を制御し切れなくなる。その日を駿はずっと恐れていた。今でさえ、完璧に御し切れているとは言い難い。その悪食の刃を、菫たちに向けるくらいなら。

 その時は。


「研究室に戻ろう、興吾」


 物柔らかな声で駿は興吾を促した。




 研究室に入ると、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔を突いた。

 菫と華絵が、応接セットのソファーに座り、チョコロールケーキの残りを食べている。駿と興吾を見て、華絵が手を上げた。


「こっち来なさいよ、二人共。今までどこ行ってたの」

「ちょっと野暮用」

「男同士の話だ」


 へらりと笑った駿に反して、興吾はむっつりと不機嫌な顔をしている。華絵が小首を傾げ、菫はそんな二人の前にコーヒーを置いた。興吾はむっつりした顔のまま、コーヒーカップに口をつけたが、やはり苦かったと見えて、ミルクと砂糖を足していた。

 菫は駿と興吾の顔を代わる代わる、窺う。何事かあったらしい。興吾は駿に劣らず感覚が鋭敏だ。彼が駿の居所に向かい、そこで何を見聞きし、話したのか、菫には見当もつかない。気掛かりだった。しかし駿は笑顔で本心をオブラートのように包み、相手をはぐらかすところがある。今のように。菫たちに言うべきでないと決めた事柄を、彼が軽々と口にするとは思えなかった。興吾に関してもそれは同様で、口の堅い男たちの結託は侮れない。紫色の瞳は、それでも物言いたげに菫を見てはいるけれど。

 ふ、と菫の心に影が射す。


「村崎」

「んあ?」


 チョコロールケーキにかぶりつこうとしていた駿が視線だけを菫に向ける。


「お前、どこにも行ったりしないよな?」


 それは菫自身にさえ突拍子なく思える問いだった。

 興吾の視線が揺れたのが判る。駿はケーキを咀嚼して、コーヒーを飲んでから菫に答えた。


「藪から棒に何だよ。行く訳ないじゃん」


 ああ、作った笑顔だと菫は思う。不可視の壁が、駿と菫を隔てるようで、菫の心は寂寞とした。寂しいと、そう感じた。

 やがて来る別れの時を予感していたのかもしれない。





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