要らない子
ガシャーンとテーブルに置かれた諸道具が、装飾が引っ繰り返されけたたましい音を立てる。硝子コップや水差し、銀の燭台が赤い絨毯に散る。その赤い絨毯でさえ、引き剥がされ、木材の床を露呈させていた。
「遙」
破損の音は尚も続く。
「遙。そのへんにしとけ」
ついに虎鉄が遙の拳を掴み、八つ当たりと思える暴挙を止めさせた。遙の血走った眼が虎鉄に向かう。その拳も、霊刀でさえ自分に向けるのではないかと思わせる幼馴染の殺気走った剣幕に、虎鉄は一瞬、怯んだ。細い手首は、自分の大きな手と腕力を以てすれば軽く捻って骨さえ折れそうなのに。
「菫ちゃんが来なかった」
遙の第一義はそれに尽きた。
「仕方ねえだろ」
「菫ちゃんが来なかった。安野暁斎の邪魔さえなければ……」
「それもどうだか。バイオレットの実力を見ただろう。流石は月光姫だ」
「そんな問題じゃない。彼女は、自由意志で僕と来る筈だったんだ」
虎鉄が溜息を吐く。
「あのな、遙。現実を見ろ。あの女は、霊能特務課、長老共、巫術士、隠師から御師からあらゆる諸組織が両目かっ開いて動向を監視し、あわよくば手中にしようとしている女だ。お前の感傷で左右されるようじゃ、こっちのほうが困るんだよ。玲音にしろ樹利亜にしろ俺にしろ、駄々っ子に振り回されるんじゃ良い迷惑だ」
「彼女を僕は得られないと? ずっと?」
「そうは言ってねえ。ただ、バイオレットを獲ろうとすりゃ、安野暁斎だの神楽京史郎だの、更にその上の厄介な連中まで出張る可能性がある。なら内側から攻めるのが、賢いと思わないか」
「つまり?」
「村崎駿……。霊刀に問題ありとされ、長老たちにより島根は出雲に囚われていたらしい。連中にとって獅子身中の虫と、言えなくもないんじゃないか?」
遙の表情がそれまでより落ち着きを取り戻す。それを認めた虎鉄は掴んでいた手首を離した。
「疲れただろう。今日はもう寝ろ」
「うん」
労わる口調の虎鉄に、迷惑を掛けてしまったと自己嫌悪に陥りながら、遙は自分の仕出かした部屋の惨状の後始末を始めた。付き合いよく、虎鉄も手伝ってくれる。しばらくの間、二人は黙って片付けに専念した。
〝お前は要らない子なの〟
悲しげな顔で遙に語り掛ける母。佳人の誉れ高い美貌を、翳らせながら。
隠師の家も父も子である自分も捨てて、常人としての恋を選んだ罪深き人。
〝私は貴方たちとは違う。普通の人間として、普通の女として、生を全うしたいの〟
だから僕を、僕たちを捨てるの。
〝ごめんね、遙。さようなら〟
待って。父さんはどうするの。貴方を本当に愛している、あの哀れな人はどうするの。
〝ごめんね、遙〟
母が家を出た後、父と移り住んだ先の小学校で、虎鉄や菫と出逢った。
隠師であることを捨てた母の行為の果てに出逢ったのが、隠師の家の子たちだったのは何の運命の悪戯か。皮肉か。母を失った父が辿ったのはまるで決まり切ったシナリオ。酒に逃げ、溺れ、職を失くし、隠師としての務めも放棄した。長老からも霊能特務課からも見放され。中学を出た遙は虎鉄と共に玲音のもとに身を寄せた。虎鉄は平穏な家庭の出だったが、ある日唐突に家族全てを事故で亡くした。遙も虎鉄も、汚濁を滅する隠師の行為に懐疑的になっていた。悲しみ、怒り、寂しさ、口惜しさ、妬ましさ。それらを肯定して何が悪い? 全て人間の自然な感情だ。滅することこそが自然の摂理に背く行為だ。遙たちは玲音により、汚濁を生む方法を授けられた。汚濁を解放し、負の感情を受け容れてやることこそが人に施せる真の救い。玲音は遙たちにそう告げた。湖のような、底深い瞳で。彼の説く、菫をメシアと崇め、世界を浄化し救済するという話は余りに突飛で、遙にはそこまではついて行けない。けれど玲音が、遙たちを認め庇護下に置く懐の持ち主だということは事実だった。
「うむ」
ほわわん、と宙を漂いながら、何やら思案深げに呟いた百瀬に、課員たちが目を向けた。
十二単の袖がひらひらと舞っている。逆さになった百瀬の、金の釵子が波間のような霊波動に微細な輝きをこぼしている。緋の袴まで逆さになっているが、素足が見えるようなあられもない恰好にはならないあたり、重力を無視している。
「どうされました、課長」
「バナナのことがな」
「バイオレットが?」
訂正して訊き返す課員は、百瀬の奇抜な言動にはもう慣れている。そうでなければ霊能特務課勤務は務まらない。そう思う横から、銀の小魚の群れが機敏な動きで通り過ぎて行く。
「余りに目を惹き過ぎておる。暁斎や京史郎で、いつまであしらってゆけるものか」
「――――まさか課長自らお出ましに?」
「それも大義なことよな」
ふあ~と欠伸する百瀬に、課員は脱力する。こういう人であると言えばそれまでだ。
「ま、今しばらくは若者たちに凌いでもらうと致そう」
悠然とそう言い放った百瀬は、身体の向きを正位置に戻し、高麗端の畳の上に淑やかに座した。
寝ている興吾を、自身もまだ目が覚めやらぬ状態で、菫はぼう、と眺め遣った。昨日は飛頭蛮と汚濁の出現で遅くなった。睡眠時間が足りないのだろう。銀白色のカーテンの隙間から漏れ出る朝日に目を細めながら、菫はそうと判断し、今日は興吾は置いて大学に行こうかと思いながら着替えの服に手を掛けた。起きてないよなと思いながら興吾を振り向くと、いつの間にかぱっちり開いていた濃い紫色の目と目が合い、驚く。
「俺も行くぞ、菫」
「でも、昨日の今日だろう。疲れてるんじゃないのか」
「どこの年寄りだ。あれくらい平気だ。俺は若いからな」
「まあ、そうだが」
興吾の紫の目は、暁斎のそれを思い出させて心臓に悪い。暁斎は自分を渡さないと言った。あの、戦闘ともなれば冷徹になる暁斎が、菫が掴んだ単衣の背中を振り解かないでいてくれた。
〝墨汁が垂れたからです〟
あの言葉の真意は解らないが。
「おい菫、さっさと着替えろ。その間に飯作ってやるから」
「あ、ああ。ありがとう」
着替えていると、興吾が朝食の支度をする物音が聴こえてくる。着替えの早い興吾は菫の目を憚らず、とっくに着替えている。卵の殻を割る音、続いてジュワア、という熱の音。
遙はどうしているだろう。彼は玲音という司祭と共にいるらしい。その司祭が、汚濁を生み出すよう、遙たちを煽動しているのだろうか。遙は繊細で心根が優しい。利用されているのかもしれないと菫は危ぶんだ。
吹き荒れ荘に出迎えた客に、駿は遠慮なく迷惑そうな顔を隠さなかった。
「次に会った時は討つ。言わなかったっけ?」
「聴いてない」
「あ、そ。じゃあ、言い忘れた」
駿は虎鉄にしれっと嘘を吐いた。
ドアをそのまま閉めようとすると、虎鉄の靴がドアと壁の隙間に挟まる。
「おい、ドラマの観過ぎ」
「話がある。村崎駿」
「俺にはねえよ」
「バイオレットに関する話でもか」
ドアを閉めようとする力が緩む。すかさず虎鉄が身体を割り込ませ、無理矢理室内に入った。
「やっぱりお前の弱味はバイオレットか」
「てんめえ……」
「出ようぜ」
「は?」
「お前とは、仕合ってからじゃなきゃ話にならんらしいからな。広いところに行こう」
「ふうん? 死ぬぜ、あんた」
駿の口調は酷く乾いていて、真実味に欠けた。だからこそ、本気で言っていると虎鉄には判った。にやりと笑う。笑いを堪えようと身動きした拍子に、首のチェーンが揺れて光った。
駿は大学近くの公園に虎鉄を伴って行った。花梨と桜の樹がある、嘗て汚濁を滅したところだ。その際、京史郎とも話をした。互いに腹の探り合いだった。
「お前は要らない子なの」
唐突に、砂場に降り、靴先で砂を弄っていた虎鉄が言った。
「あん?」
「遙が、母親から言われた言葉だ。まだガキに言うには、酷な言葉だよな」
「あのポエム野郎か。如何にも、過去を引き摺ってそうだ」
「お前もじゃないのか?」
虎鉄の眼光が駿に向いた。逃さじとばかりに。
桜の樹の葉が揺れている。緑の葉も、直に赤く染まるだろう。
「両親が死んだあと、お前も親戚中に思われただろうが。〝要らない子〟だってな」
「天の横溢、魔の哄笑、日陰の冷涼、縛された鮮血、黒白」
花梨の枝を柄に、斬りつけた駿を、虎鉄は咄嗟にかわした。モノトーンで構成された刀身は恐ろしい程に澄んだ輝きで、虎鉄に牙剥かんとしている。
「おっと……、仕合もだが、俺はお前を勧誘しに来たんだが」
「勧誘?」
「村崎駿。悲しみ。怒り。憎しみ。諸々の負の感情、遍く解放してやりたいとは思わないか」
「常人を犠牲にしてか」
「違うな。常人さえも救いの内だ」
「いかれてやがる」
「そこまでじゃないさ。唐紅に獅子の闊歩す。赤峰秀」
桜の枝から霊刀を顕現させた虎鉄が応戦する。黒白の刃を受け留め、押し返し。
そこで虎鉄は違和感に気付いた。
致命的な違和感だった。