墨汁と銀滴
遠いどこかで、パイプオルガンの音色が流れた気がして、暁斎は筆を持つ手を止めた。龍切寺の離れにあって、そんな音が聴こえる筈などないものを。それでもごく時折、暁斎の鋭敏過ぎる聴覚は、有り得ない程遠距離の音まで拾ってしまうことがあった。彼は手が空いている時は、専らその鋭敏な聴覚を菫に向けて働かせていた。笑っている、怒っている、泣いている。そんな感情が漏れ伝わる時が稀にあった。京都に住んでいた期間はそれも叶わず、ただ、彼女の息災を願っていた。息災と安寧と。京史郎がいれば案じることはないだろうという思いも、翔の一件があってからは万一ということをも思わせた。彼女が自分に寄せる思慕の情は、所謂父性への憧れに近いものであるだろうと考え、まるで知らない振りを通した。暁斎にとって菫は、血の連なる大切な子であり、それ以上でもそれ以下でもない。墨汁が一滴、ポタリと和紙に綴った文字に垂れる音がした。
「さて、京都くんだりのあと早速だが」
チョコロールケーキをコーヒーで食べながら、気乗りしない様子で駿が切り出す。
「仕事の話だ。興吾が拾ってきた」
「どこから」
「ネットからだ、菫」
「お前、私のパソコンでそんな情報を拾ってたのか」
興吾が全国の妖怪出没地をチェックしていた成果があったらしい。菫にとっては余り嬉しくもないバッドニュースだ。
「相手は?」
「国際指名手配犯」
駿のユーモアある返答も余り笑えない。
「久々に外国産の妖怪か」
「飛頭蛮だ。この近辺で目撃されてる」
飛頭蛮。夜になると身体から首が抜けて、首だけで飛び回る。昼間は普通の人間のように生活しているが、夜になると首が身体から離れる。個の妖怪と言うより、そういう種族が中国南方の辺境にいるとされる。夜、その地域に行くと、首のない人間の姿をした妖怪ばかりが寝ているという実にシュールな光景を拝むことが出来る。ろくろ首とは別種とされる。特に害はなく、夜になると首だけで虫や蟹、ミミズなどを食べ、朝になると元に戻る。首の周りに糸のような赤い線がぐるりとついているのが目印である。夜間における変身時の記憶はないとされる。
「……放置して良くないか?」
「喰うのがミミズとかだけならな」
あむ、とチョコロールケーキに被りついて駿が菫に答える。
「違うのか」
「耳を喰い千切られた被害者が数名」
ケーキを咀嚼しながらの駿の言葉に菫も華絵も顔をしかめた。
「通常であれば無害である筈の妖怪たちが有害化している。そんなケースが最近、多いな」
「ああ、ふらり火が出たとか言ってたな」
「ああ」
次の言葉はなるべく気が進まないだけに、譲り合うような沈黙がしばし降りた。
腹を括ったのは菫だった。
「今夜は泊まり込みだな」
「よっし!」
「元気だなー。小学生は」
まだ気怠さの残る大人たちは、なるべくなら家に帰って安眠したいのだ。関西から戻って早々に妖怪退治の案件が生じ、実際のところ、皆が避けて通りたい気分だった。被害者が出ているとなればそうは行かないのが酷な現実で、華絵も駿も止むを得ず事態を受け容れ、戦いに備えることとした。
夜は蕎麦の出前を取った。出前とは言え、十割蕎麦の風味、侮るべからずで、それに葱やわさび、唐辛子などの薬味を合わせ、更に熱々の天婦羅もあるので、舌も胃も満たされ、菫たちは十分な英気を養った。
さて行くか、とだいぶ軽くなった腰を上げ、菫たちは学部棟を出て、それぞれ植物採取し、得物の元は確保した。菫は気が咎めながらも桜の枝を失敬した。
夜間のパトロールである。主に大学周辺を視察する。自然、駿が先頭に立ち、一行は歩を進めた。最後尾には菫がついた。
「…………出ないな」
パトロールすること三十分。飛頭蛮の影さえない。大学周辺をぐるぐると歩き回っていた菫たちは、徒労に終わりそうな気配に失望の念を隠せないでいた。人間、一度やる気になったものの、出鼻を挫かれたら気力が萎えるというものである。これは今夜は空振りだったかと、大学に戻ろうとした時。
浮遊する、頭があった。
それは闇夜にぼうと光り、目指すところも定かならぬ様子でふらふらと彷徨っている。
首の周りに赤い線。飛頭蛮だ。
一見するとやはり無害そうに見えるそれに菫たちが戸惑ったのは、その頭が子供の顔をしていたからでもある。耳を喰い千切ったというのは、何等かの誇張ではあるまいか。
しかしあどけない飛頭蛮の目が、急に眦険しくなった。妖気が強くなり、続けて開けた口には鋭い牙が並んでいる。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
菫が斬りつけるも、それは素早く刃をかわす。
「乱朱よ。歌え。舞い踊れよ。狂わば狂え」
かわして上空に逃げようとした飛頭蛮を、跳躍した華絵が斬る。確かな手応えがあり、頭部だけの妖怪は顎が割れ、地に墜落した。流れ出るは人と同じ赤い血液。それに眉をしかめた華絵だが、駿たちの状況を見て取り、それどころではないと知る。
菫と華絵が一体の飛頭蛮と闘っている間、いつの間にか群れ集った飛頭蛮たちに、駿と興吾が応戦していたのだ。飛頭蛮の首の赤い線が無数に見える。一体、全部で何体いるのか。しかも相手は一個体一個体が刃の標的とするには小さく、動きは素早く空を飛ぶ。滅するのにこれ程やりにくい相手もない。
袈裟懸けも胴切りもあったものではない。
相手は頭部だけなのだ。こうなれば飛び道具が欲しいところだった。
駿は黒白を出すか迷い、菫は月下銀光を為すか迷っていた。
「乱朱。百花の慰舞」
高らかな華絵の声が、無数の数え切れない花びらを生んだ。真紅の花びらは乱朱の刀身を中心として生まれ、舞い飛び、夜の闇に華やかな賑わいを披露した。目に美しいだけではない。乱朱の花びらは、飛行する飛頭蛮にふわりと張り付くと、その頭部を溶解させてしまった。それも醜く溶け崩れるのではなく、風に攫われる光の砂のように。菫たちの周囲には光の砂がさらさらと輝きながら舞い踊っていた。飛頭蛮は一つ残らず、花びらによって滅せられた。
地に落ちた真紅の花びらは戦いの名残りと言うには余りに美しかった。
駿が口笛を吹く。
「やるね、華絵さん。そんな技、あったんですか」
華絵が艶麗に微笑む。
「霊刀の能力は秘匿が常識。あんたならよく解るでしょう」
「まあね。まだまだ、乱朱には力がありそうだ」
〝そなたの乱朱。まだこの先、より香り高く花開く日が来ようぞ〟
奈良の田沼家で、鶴に憑いた大物主神と思しき者が言った言葉を、駿は忘れていない。
あたりには芳しい匂いが満ち、いつもの汚濁退治後の臭気とは比較にならない戦闘後の状況に、菫たちは心和ませていた。
「あきません」
厳しい暁斎の声と同時に、一体の汚濁が滅せられたと気付くまで、少しの時を要した。
菫たちが飛頭蛮に気を取られている間に、忍び寄る汚濁があったのだ。その数、無数。
「気を緩めるんはまだ早いです」
銀滴主が押し寄せる汚濁を斬っていく。汚濁は大小様々な形をしており、総じてその色は醜く濁っていた。鈍く明滅する体内の光が透けて見える。乱朱の花びらの芳香が、汚濁の臭気まで消してしまっていたのだ。まるでそれを見計らったかのようなタイミングで、汚濁が仕掛けてきた。背後に人為的な意図を感じる。
(遙君?)
幼馴染の面影を思い出す。汚濁を生み出すと聴いた、彼の仕業だろうか。だとすればどうして彼は汚濁を生み出すのだろう。菫たちを攻撃するのだろう。菫には、彼が自分に危害を加えるという考えが納得行かなかった。考えたくはないが、やはり汚濁は菫自身に引き寄せられているように思えてならない。しかし今まで緩やかだったそれが、最近になって急に加速したように感じられる。誰かがいるのだ。それを望む者が。
今では場は混戦状態と化していた。数多の汚濁。味方は少数で疲弊してきている。銀滴主ばかりに頼る訳にも行かない。
「銀月。月下銀光」
宙より飛来した数百本の銀の串が汚濁を貫く。汚濁の群れの動きが縫い止められ、聴くに堪えない悲鳴、怨嗟の籠る雄叫びが響く。
菫の目は無慈悲に汚濁を見据えていた。
「銀月。斬」
その一言だった。たったその一言だけで、汚濁の群れは一挙に壊滅した。あとにはいつもと同様、塵が風に吹かれるのみ。駿が、華絵が、興吾が、菫を見ていた。乱朱の華麗な活躍。しかしそれとは比較にならない圧倒的な銀月の力。
(そんな目で見ないで)
月光姫。
(そんな名前は要らない。私はただの私で良い)
駿が真の霊刀を隠す気持ちが、今なら少しだけ解る気がした。そして腑に落ちないことがあった。この中で唯一人、菫に畏怖の眼差しを向けない人間。視力がないという理由の為だけではなく。暁斎の銀滴主であれば、汚濁の群れにも対応出来たのではないか。銀滴主は汎用性の高い霊刀と菫は見ている。しかし暁斎はそれをしなかった。なぜか。菫に真価を発揮させ、それを仲間に知らしめる為。菫に覚悟を迫る為。
大学近くのありふれたアスファルトの道路。簡略結界を張ったその中。
密やかに侵入した影が三つ。
「菫ちゃん」
「遙君……」
遙と虎鉄と樹利亜が、菫たちと相対する形で立っていた。
「僕と一緒に行こう」
「遙君が、本当に汚濁を生んでいるの。今のも、全部?」
「全部じゃない。後押しする力と意志があった。玲音は、ここにはいないけど」
「玲音?」
「彼は教会よ、バイオレット。初めまして。あたしは樹利亜」
「……」
ゆったりと間に入り、菫を庇うようにその前に立った暁斎に、遙たち三人の間に緊張が走った。闇に溶け込むような薄紫の双眸。
「何で姿を現しましてん? さしずめ君らはチェスの駒。隠れてこその存在価値ですやろ。のこのこ僕らに姿を晒して」
ふ、と暁斎は間を開けた。
「殺してくれ言うてるようなもんですえ」
「そう簡単には行かないよ」
「試してみますか? 一度拾うた命、むざと落としますか」
「暁斎おじ様、待ってください」
暁斎は菫を振り返らない。黒い単衣の背中を見せたまま。
「この子は渡しません」
「なぜ。彼女の自由意志だ。僕たちと、来るも来ないも」
「墨汁が垂れたからです」
「――――?」
「せやから渡しません」
「菫ちゃん。行こう」
「行けない。ごめん、遙君」
暁斎が手にした銀滴主からは銀滴が今も流れ出て、アスファルトに沁み込んでいた。それは美しい凝りだった。主の心を反映するような、銀滴の凝りだった。暁斎が自分を渡さないと、そう言った。だから菫は遙とは行かない。行けない。乱朱の名残りの真紅の花びらが数枚風に泳ぎ流れてきて、菫と遙の間を通った。二人の間を隔てる真紅と、そして銀滴を遙は黙って眺め遣った。
「菫ちゃん。また」
そう言い残して、遙は虎鉄と樹利亜と共にその場を去った。暁斎は彼らを追わなかった。単衣の背中を菫の指が掴んでいたから追わなかった。
<第五章・完>