顔の見えない隣人
明朗な青年は、小池静馬と名乗った。
亡き兄の友人だったのだと。
兄の位牌に線香を上げる為に、わざわざ家に寄ってくれたのだそうだ。漆黒の髪がさらりと揺れて、兄を悼む言葉を言う時だけ、切れ長の双眸が悲しげに細められた。それら一連の仕草は芝居のようでいて、けれど真実味が籠っていることは菫が見てもよく解った。亡き兄の友人であったのであれば、兄の口癖を知っていたのも納得出来る。プールで落ち合った理由までは判然としないが。父も母も彼を歓待していた。ただ、弟の興吾だけは盗人に吠える番犬のように静馬に対して警戒心を見せ、両親に窘められていた。
光が綺麗だったな。
全く関係のない思考が、水に浮かぶ泡のようにふわりと菫の意識に浮上した。
菫の実家は建売住宅とは言うものの、玄関の扉にはステンドグラスが嵌められ、南からの陽を受けると彩り鮮やかに輝き、玄関の床に光を映し出す。菫が実家に帰る時、楽しみに思うことの一つが、それが見られることであった。ステンドグラスは具体的なモチーフをわざと解らなくしてあるようで、見様によっては鳥にも花にも見えた。見る時の心持ちで変わるものなのかもしれないなどと、菫は兼ねてより考えていた。
静馬が神楽家を辞去する際、菫は両親たちと共に彼を玄関先で送り出した。静馬は早く翔を殺害した犯人が捕まることを願う、と言った。現場の状況等から殺人と見なされた翔の死だが、まだ警察は犯人を捕まえられていない。静馬の艶めく唇が動く時、丁度、光がステンドグラスから射し込み、静馬に彩りを負わせていた。赤とも青ともつかぬ色合いに縁取られた静馬は、大仰に例えるなら神の御使いのようだった。
けれど違う、と菫は思う。
静馬は神聖なるものと言うよりもっと、人の思惑の絡んだ背景を持つ人間だ。その思惑を以て神楽家を訪問したのだ、と。
だがその思惑とやらの見当が菫にはさっぱりつかない。
(……もっと清かなるものを)
菫は生来、清らかさや美しさを尊んだ。外的なものだけではなく、内面から滲み出るものまで。この子は年の割に大人びている、と両親や周囲の大人たちによく言われた。菫が昔、住んでいた屋敷を出ることになった際、惜しんだのがその屋敷の調度やシャンデリアなど、気に入っていた品々との別れであった。眩しい純白だったグランドピアノとも別れなければならず、今の家には黒いアップライトがあるだけだ。せめて什器だけはと母と共に段ボール箱に緩衝材と一緒に入れて引っ越した。持永教授の好事家振りは、だから、菫といたく共感するところだった。
それにしても今になって静馬が自分に、神楽家に接触した理由は何だったのだろう?
単に兄を悼む為ならもっと早い時期でも良かった筈だ。
菫が青磁の湯呑からお茶を口に含んだ時、駿の視線に気付いた。
「何だ」
「今、他の男のこと考えてただろ」
「莫迦莫迦しい」
鼻で笑ったが、実際は胸の内で駿の勘の鋭さに舌を巻いていた。尤も静馬のことを考えていたのは恋愛感情などからは程遠い思いからであるが。
「菫は、俺以外のことを考えちゃ駄目なんだよ」
「莫迦を言うな。誰が決めた」
「俺が決めた。俺のことは全て俺が決める。菫がどんなことになっても」
「村崎……?」
「忘れるなよ」
いつになく真剣な駿の口振りと表情に、菫は湯呑を置く。すると次の瞬間、駿はへらり、と表情を一変させた。
「なーんてね。だから菫、俺と付き合おうよ」
「断る」
いつもの調子に戻った駿に安堵しながら、菫はすっぱり言い切った。
後々、菫はこの時の駿を思い出すことになる。
駿の言葉は、紛う方なき彼の真実だったのだと。
生八つ橋を賞味し、お茶を飲み終えると、菫は自宅のアパートに帰った。
安普請の賃貸だが、以前、このアパートに住んでいた建築家志望の学生が、大家の許可のもと、洒落た内装に改築していて、そこが菫の気に入っていた。
ドアを開けるとまず、キッチンと、リビング兼寝室を隔てている煉瓦の壁が目につく。そしてその壁には六弁の花形の嵌め殺しの窓がある。その色は赤、紫、オレンジ、緑、青、黄色、である。南に面したベランダを隔てる窓硝子から陽が射すと、その硝子の色が壁に、床に着彩する。まるで実家を思わせるこの造りが、大いに菫の気に入っていた。更に雰囲気を出す為に、壁の向こうに接した机に蔦植物の鉢植えを置き、煉瓦との雰囲気の調和を図った。
ベランダに面した硝子戸に設置したカーテンは綿麻で、薄く白銀の色が混じっている。
什器類も、家から上等且つ菫の眼鏡に適う物を幾つか分けて貰ってきていた。
今日も暑く、帰宅しながらずっとシャワーが恋しかった。研究室にもシャワーがあるが、やはり自宅のそれのほうが落ち着く。
お湯を溜めながら、シャワーの蛇口をひねる。着ていた服は全て洗濯籠行きだ。
頭から熱いシャワーが降り注ぐ。
静馬の顔と、兄の顔が交互に浮かんだ。
良くない兆候だ。
〝要のところだけ君の記憶の箱に鍵を掛けて。心の深海に沈めて〟
兄の声が響く。激しい頭痛を伴って。
(無理だ、兄さん)
要点だけを忘却し、他の事柄は全て記憶して平穏無事に過ごし続けるなど。
いっそのこと、全てを憶えていさせて欲しかった。
〝他の男のこと考えてただろ〟
不意に駿の声が蘇る。
その通りだ。いつもいつも。気が付けば菫は兄・翔のことを考えている。
静馬のことなど、翔に比べれば通り雨のような思考に過ぎない。
(ああ……。今回は特に酷い)
紫の花畑、舞い散る鮮血。匂いまでむせ返るようで。
兄は本当に兄だったのか? そんな莫迦げた考えまで湧いてくる。全ては頭痛のせいだ。
あの時。
静馬が家から出る直前、菫に顔を寄せて囁いた。
〝お母様を大切に〟
菫はぎり、と唇を噛み締める。通り雨は、存外に強い。
兄にしろ、静馬にしろ、彼らの真の姿は明らかな輪郭を持たず、霧の向こうにあるようだ。
激しい頭痛に、菫はくずおれた。細く白い肢体がぐにゃりと床に伸びる。
朧な思考が悲鳴のように叫ぶ。
(兄さん。兄さん。兄さん)
――――帰ってきて。
シャワーの水滴が容赦ない。穴を穿つように肌を打つ。
チャイムが数回鳴った。出る気力も体力もない菫は、辛うじて頭を巡らせた。
鍵の開く音がする。
ということは……。
「おい、菫! またぶっ倒れてんのかっ」
遠慮なしに浴室のドアを勢いよく開けたのは、白髪、紫の目の児童・菫の弟である興吾だった。