君の居場所
京史郎の静かな気迫に、その場の誰もが圧倒され沈黙した。宮部や持永、恐らく百瀬でさえ。隠師であるよりもまず、京史郎は唯一人の父親という生き物としてそこに立っていた。眼光は決して揺るがず真っ直ぐに宮部らを射抜く。
「私の話は以上だ。では」
言い切って、部屋を出る京史郎の跡を、菫は宮部たちに一礼してから慌てて追った。京史郎は振り返ることなく迷いない足取りで廊下を進む。
「父さん。……ありがとうございました」
研究室などの部屋に両側を挟まれた廊下は、日中でも薄暗い。その薄暗い中、京史郎のスーツ姿の輪郭は際立って明瞭で、菫の目に眩しく映った。
「百瀬課長から連絡を貰った。宮部長老の目論むところの予測を聴かされたから、出向いた」
課長にはまた借りが出来たなと京史郎が呟く。
彼が図ったようなタイミングであの対談の場に登場した背景には、百瀬の計らいがあったのだ。菫は納得した。結果として、京史郎の切った啖呵に宮部でさえ沈黙せざるを得ず、菫は今の居場所から離れずに済んだ。菫自身もまた、百瀬に借りが出来たのだと感じた。
「父さんは、私が〝何〟であるのか、ご存じですね」
「知っているとも。私の娘だ」
京史郎は視線を逃がすこともなく、菫を直視した。その瞳に嘘や誤魔化しはない。だからこそ菫は歯痒く、切なくなる。京史郎は恐らくは菫の求める真の答えを知っている。けれどそれを明かす気はないのだ。どこまで行っても、自分は京史郎の娘であることが彼にとって第一義だから。
「私の娘である以外の何者でもない。お前も、興吾も、私の子だ。子を守るのは親の義務だ。例え命を賭してでも」
京史郎の視線が斜めに滑る。憂いがあった。
「翔は守れなかった」
「父さん」
「次はない」
その宣言を最後に、京史郎は階段を降りて行った。遠くなる背中は、踊り場に設けられた窓から射し込む陽光に白く縁取られて。隠師の一線から退いた筈の京史郎が、子を守る為に動いている。その事実が菫の胸を熱くした。京史郎は文字通り、命をも賭けているのだ。
菫は階段の手摺りを掴む手に力を籠めた。
(父さんが私や興吾を守る為に死をも厭わないと言うのなら、私も父さんを守る盾の一枚となろう。例え父さんにとってそれが不本意でも。その為であれば私は、月光姫となって銀月を振るう)
菫が研究室に戻ると、待ち兼ねたかのように駿たちがソファーから立ち上がった。その勢いのまま、菫に駆け寄ってくる。
「宮部長老に何を言われた」
問い詰める駿の表情は真剣そのもので、普段のちゃらい態度が欠片も見受けられない。
「出雲に来いと」
「出雲に? どうしてよ」
「奈良の、巫術士の行動が、長老たちを刺激したようです。彼らは私を囲い込みたがっていた……」
「まさか行くのか」
「いや、百瀬課長の計らいで父さんが来て、話を断ってくれた」
「父さんが?」
反応したのは興吾だった。
「来てたのか、菫」
「うん。もう帰ったけど」
「最強の京の神楽さんの、鶴の一声か。敵わねえな」
苦笑して、くしゃりと駿が前髪を掻き上げる。駿は京史郎に大きな借りもあるのだ。
菫はその様子を眺め、窓の外を見る。透き通った青空は高く、秋の風情を早くも漂わせてる。銀杏の樹も徐々に色づき始めるだろう。
足元が揺らぐ感覚が抜けない。
自分が何者であるのか解らない。月光姫などという二つ名だけで括られるような、単純な話ではないのだということが、宮部の剣幕と焦燥から感じ取れた。
〝人死にが出てからでは遅いと言っている!!〟
〝私の息子は死んだ。次に人が死ぬと言うのなら、その最初の一人には私がなろう〟
あの二人の言い様はまるで、菫が死を呼ぶ元凶とでも言わんばかりであった。ひんやりとした可能性が菫の頭をよぎる。もし。もしも、翔の死もまた、菫のせいであったとしたなら? 自分は何なのかという問いに、一斉に口を噤んだ面々が、それを慮っていないとどうして言えるだろう。京史郎は何もかも承知の上で、それでも菫を守ろうと言うのか。かねてより怪訝に感じていることではあった。まるで菫に引き寄せられるように出没する汚濁と妖怪、人外の者たち。このまま、華絵たちと行動を共にすれば、華絵たちが翔のように死の危険に晒されることになりはしないだろうか。
「私は……、ここにはいないほうが良いのかもしれない」
拳を握り締め、喘ぐように言った菫に、華絵たちが目を瞠る。
「何言ってんだよ」
「それが最善かもしれないんだ、興吾。お前の為にも」
「訳解んねえ」
「ここにいろ」
強い声は、駿が発したものだった。彼は今日も白に英字がプリントされたシャツを着て、黒いジーンズを穿き、垢抜けた装いをしている。明るく染めた髪の間から覗く双眼は、小粋な恰好とは一線を画し、どこまでも真摯な色を湛えていた。
「ここにいろ、菫。ここがお前の居場所だ」
凍りつきそうだった心が、息を吹き返したかのようだった。菫は不覚にも涙ぐみそうになった。共に在ることを許される。ただそれだけで、生き続ける気力が湧く。闘い続ける覚悟が定まる。感傷に気付かれまいと、菫はわざと明るい声で言った。
「コーヒーを淹れるよ」
「良いわね。チョコロールケーキもあったから、食べましょ」
察しの良い華絵が、空気を読んで朗らかに菫に合わせる。
駿の目は菫をずっと見ていた。慈愛さえ含んだその双眸を、興吾もまた、紫の瞳で凝視していた。
「あ~あ。退屈だわ、あたし」
教会のステンドグラスを背に、主祭壇に腰掛けて長い脚を組んだ少女が欠伸を洩らす。
髪は赤味がかって内巻きのショートボブ。睫毛は上向きにカールして、それが縁取る目はくりくりと生気を放っている。
「そんなところに座っていたら、玲音司祭に怒られるよ」
静かな遙の忠告に、少女がふふん、と笑う。猫のようにしなやかに主祭壇から降りると、遙の首に両腕を回す。吐息が届くくらいの距離で、目を覗き込む。遙は動じずにその目を見返した。
「怒らせておけば良いわ。ねえ、遙」
「……離れて」
「嫌」
掠めるように口づけられて、遙は少女の身体を突き放す。
「バイオレットとじゃなきゃ嫌?」
「虎鉄と寝てる癖に」
「本命は遙よ」
「僕はそういうのは嫌いだ、樹利亜」
樹利亜は血色の良い、艶のある唇を突き出す。見せつけるように。
「遙が相手してくれたら、あたしだって虎鉄とは切れるわ。遙のご執心のバイオレットは、さぞかし清純なお嬢ちゃんなんでしょうね?」
「彼女に危害を加えるな」
「それは無理」
あっさり、樹利亜が遙の言を一蹴すると、ステンドグラスに向き直り、顔に直面する色彩に目を軽く細めた。
「玲音の指示だもの。妖怪に負の霊力を注ぎ、バイオレットに向かわせる。バイオレットは少しずつ、覚醒に向かう。そして世界は浄化されるの」
「世迷言だ」
「言い切れる? バイオレットの真価を目の当たりにしたのは、恐らく神楽翔だけよ」
死んじゃったけどね、と樹利亜が続ける。歌うように。
「世界は浄化なんてされない。悲しみや、痛み、憤りは解放されればそれで良い」
「貴方の言う、それの究極的結末が即ち浄化よ」
「僕はそんなことは望まない」
「ならどうしてここにいるの」
樹利亜の目と声が急激に冷たくなる。答えない遙を嗤う。
「結局、どこにも行き場所なんてない癖に」
遙が樹利亜の手首を掴み、主祭壇の上に押し倒す。樹利亜が妖艶に微笑む。
啄むような口づけは、やがて深いものに変わる。樹利亜の赤味がかった髪と遙の漆黒の髪が乱れ混じり合う。樹利亜の目に教会の、アーチを平行に押し出したリブ・ヴォールトの天井が映る。遙が樹利亜から離れると、樹利亜は物足りなさそうな顔をした。彼女は最後まで行くことを望んでいた。例えそれが、遙の一時の気の迷いであっても。乱れた衣服もそのままに起き上がり、手慰みに自分の髪を梳く。
「樹利亜」
「なあに?」
「もしも菫ちゃんが死んだら、僕は君を殺すよ」
「あらそう。出来るかしらね」
「バイオレットを殺すなど有り得んよ」
新たに加わった声に、遙の背に緊張が走った。
「はあい、玲音。御機嫌よう」
「御機嫌よう、樹利亜」
白髪、黒い司祭服の中背が前室を通り、主祭壇に向けて身廊をゆっくりと歩く。身廊のファサード部分に設けられたバラ窓から入る光が、彼の足元を照らす。目尻に寄る皺が如何にも彼を温厚そうに見せる。瞳は薄い水色で、異国の血が混じっていると思われやすい。
「そこから降りなさい」
「はいはい、」
樹利亜に命じた玲音の水色の目が遙に向かう。穏やかな湖のような。その湖は底が知れない深さだと遙は思う。底が知れないままに、自分と虎鉄を同胞として迎え入れた異教の司祭。彼が崇めるのはキリストではなく、バイオレット唯一人。
「バイオレットは我々のメシアだ。死なせる訳には行かない。先だって、彼女を誤って狙撃した警察は懲戒免職させたよ。木村警視正の指示が行き渡っていなかったらしい」
「…………」
玲音を前にすると遙は口数は少なくなる。穏やかなようでいて重厚に醸し出されるオーラが、遙を圧するのだ。
「隠師の長老、巫術の一族、霊能特務課、御師。どの陣営にもバイオレットを包み隠させはしないよ」
「そうして、彼女を危険に晒すと?」
玲音の目が笑う。
「君も汚濁を望んでいるじゃないか。望むところは一つでは?」
「僕は貴方とは違う」
遙は身を翻した。歩む遙の背を追うように、玲音が奏でるパイプオルガンの音が聴こえてきた。