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シャーマニズム

挿絵(By みてみん)




挿絵(By みてみん)






 暁斎が消えた後、一拍を置いて、華絵たちは立ち上がった。足に湯呑が当たり、お茶がこぼれる。罠であったかと皆が思ったのだ。

 しかし鶴はお茶を飲みながら悠然と彼らに命じた。


「お座りなさい。暁斎はんはご無事です」

「どこに行ったんですか!」


 抗議の声を上げる華絵の顔を、鶴は見遣る。憐れむように。


「御倉の娘。悲しき恋であったことよな」

「…………」


 華絵が言葉に詰まる。翔のことを言っているのであれば、なぜ鶴がそれを知るのか。

 そして鶴の口調はこれまでのものと劇的に変化している。地の底から響くような、それでいて天から降っているような捉えどころのない声。まるで何かに憑かれたように。


「されどそなたの乱朱。まだこの先、より香り高く花開く日が来ようぞ。それを幸いと思え」

「暁斎さんをどうしたかと、聴いている」


 駿の低い声に、しかし鶴は面白がる目つきで答える。


「あれは菫の深層意識の結界に入った。鶴の張った結界ゆえ、難儀するであろうな。のう、黒白の若造よ」


 駿の顔色が変わる。これは誰だ?


 ――――巫術。結界術を操り、神をその身に降ろすシャーマニズムの業。御師よりも隠師よりもそれに近接して生きる巫術士たち。


「……貴方は誰だ」

「聴かぬがよかろ。名には言霊が宿るゆえ。したが面妖なものじゃ。黒白の若造よ。そなたの霊刀、意のままに操れば日の本の遍く猛者も、屠るは容易かろうに」

「俺はそんなことを望んではいない」


 鶴に宿った者は、しばらく駿の言葉を吟味するように黙ると、そっぽを向いた。


「つまらぬ」


 目を閉じ、次に開けた時、鶴はそれまで通りの鶴だった。


「ああ、お逢いになりましたか」

「突然に神降ろしされるんですね」

「巫女の、不自由なところです」


 そう言って、一筋はらりと顔に落ちた白髪を頭に撫でつける鶴の頬には、翳りある微笑が浮かんでいた。複雑な苦々しさが、その表情からは見て取れた。どこまで行っても人の世に悩みは尽きぬものらしい。巫術の一族の長として、尊崇を集めていても。鶴は気を取り直したように、茶菓子などを運ばせましょう、と言って、声高く雅代を呼んだ。



 菫の寝顔に顔を向けたところで暁斎の意識は飛んだ。

 飛んだ。その瞬間に飛来した刃を、暁斎はほぼ反射で銀滴主にて払った。刃は尚も豪雨のように降ってくる。暁斎は銀滴主を振るい続けた。盲目で、それでも掠り傷一つ負わないのは脅威の事実だった。ここは恐らく菫の意識内部だ。そしてこの攻撃は鶴の意志によるもの。意識の中の傷であれ、生身に負えば血は流れる。攻撃主の姿があれば、銀滴主で迎え撃つも可能だが、この領域は言わば鶴の絶対支配下と化している。銀滴主の攻撃を以てしても刃の切っ先は届かない。銀滴による毒も不能だ。

 飛来する刃を避け、払い落としながら暁斎は駆けた。菫の深層と感じる方向に向かって。

 幾つもの空間を通り抜けた。或いは酸の雨が降り、或いは弾丸さえ飛んできた。それらの攻撃を銀滴主でしのぎながら、流石に息が切れてきた時。それまでの猛攻が嘘のように止んだ。菫の深層に辿り着いたのだと悟る。

気付けば穏やかで暖かな空気が身を包んでいる。花の香りがする。恐らくは、群生している野花の。暁斎の足は裸足になっており、その感触から菫の花畑ではないかと察せられた。耳には小鳥の囀りと蜜蜂の羽音、小川のせせらぎ。成る程、あの日の再現かと察しがついた。ならば菫や翔も近くにいる筈。不意に懐かしい声が暁斎の耳を打った。


「バイオレット。僕の可愛いお姫様。早くおいで」


 声は左後方から聴こえた。朗らかで優しい、翔の声。

 これがあの日の忠実な再現と言う訳ではないのだろうが、暁斎には感慨深いものがあった。そして軽やかに近づいてくる足音がする。彼女も裸足なのかその音はごく小さく、暁斎の耳であればこそ拾い上げられるものだった。

 そして空気を伝い、感じ取れる菫の戸惑い。菫は鶴の術に幻惑され切っていない。違和感を覚え、戸惑っている。そんな菫に翔の声が畳み掛ける。怖がることはない、忘れてしまえば良いと。

 そんな翔に、唐突に菫が言った。


「暁斎おじ様がウィスキーボンボンをくれたわ」


 不意に出された自分の名前に、暁斎の肩が揺れる。

 ウィスキーボンボン。

 確かに菫に渡した。しかしこれでは時系列が異なる。自分が菫にウィスキーボンボンを渡したのは、あの惨劇が起きたあとだ。だから菫が今、翔にこんなことを言うのはおかしい。計画通りではないと、鶴も思った筈だ。呑気に、自分にもおくれと菫にねだる翔。

 それは出来ないと拒否する菫。忘れてしまうから、と。

 暁斎の胸に、微小な痛みが走った。忘れるのが良いと思った。記憶に鍵を掛けなければ、菫は生きていけないと思った。だから翔の死後、彼女に渡した。あの忘却の菓子を。忘却の巫術を施した鶴と自分に、どんな違いがあるだろう。

 巫女の厳格なる声が響く。


 昔日の忘却は罪にあらず。

 昔日の忘却は罪にあらず。


 その甘美な誘惑に打ち勝つ、菫のどこにそんな強い意志があったのか。


「私も、私のことは、私が決める」


 力強い宣言。突風が起こる。

 これだけの足掛かりがあれば、巫術を破ることが出来る。暁斎は銀滴主を掴む手に力を籠めた。


 困ったお人ですねえ、菫はん。


 響き渡るのは鶴の声だ。苦いものを呑んだかのような、けれど笑みを含んだ声。

 違和感だらけのこの空間で、それでも尚、おかしいと感じたのは次の翔の声だった。


「思うようにお生き。バイオレット」


 不自然だ。この夢が鶴によって操られているのだとしたら、夢の産物である翔がそのようなことを言う筈がない。まるで本物の翔のような言葉を。


(降りたんか)


 巫女である鶴の操る空間に、死者である翔が、今、この瞬間だけ降りた。鶴を媒介としたゆえに可能となった奇跡だ。夢の中とは言え、菫は死んだ兄との邂逅を果たしたのだ。

暁斎は銀滴主をかざした。銀滴が広く、夢全体に行き渡るように。


「銀滴主。夢破り」


 そのまま、大地に銀滴主を突き刺す。

 文字通り、夢が破れて崩壊する。鶴が施した忘却の結界巫術が消滅する。



 花の香りが消え、身を包む陽光の温もりも消え、足元に畳の気配を感じた暁斎は、現に戻ったのだと悟った。銀滴主の気配は、菫の身体近くと思しき場所にある。


「暁斎おじ様」

「菫はん。お帰りなさい」


 目覚めた菫は、やっと布団横に刺さった銀滴主の主の姿を見て、安堵の声を洩らした。華絵が駆け寄り、菫を抱き締める。暁斎は銀滴主を畳から抜くと、無に帰した。もう要らぬであろうという判断からだった。


「華絵さん。ここはどこですか」

「奈良よ。桜井市の、三輪よ」

「巫術士の聖地……。なぜ、そんなところに」


 混乱すること頻りである。菫の最後の記憶は、京都の異界にある屋台「巡り燈籠」なのだ。


「わたくしがお招きしたからです」


 菫がようやく鶴に気付く。


「お鶴さん。貴方が?」

「惜しいことでした。折角、うちの孫のお嫁さんになってもらおう思うてましたのに」

「孫ってあの女の子?」


 華絵が驚きの声を上げると、鶴が笑った。


「いいえ。あの子やのおて、他にいてる年頃の男子の孫です」


そんなことを本気で考えていたのかと、菫は唖然とする。着ている物は、あの晩、鶴に変化させられた絽の着物ではなく、浴衣だった。菫の視線からそれを見た鶴は、再び着物の袖をすいと動かし、同じ絽の着物に着替えさせた。


「電車で浴衣も何ですやろ。返さんでよろし。差し上げますよって。今回の、お詫びみたいなもんですわ」

「…………ありがとうございます」

「似合ってるよ、菫」

「村崎。興吾。華絵さんも、心配かけて済みませんでした」

「良いのよ。それより菫、暁斎さんにもちゃんとお礼言わないと。一番、菫の為に働いてくれたのは暁斎さんなんだから」 

 

 菫は改めて暁斎を見る。黒い単衣の着流しの、あちこちに裂け目が生じ、一部溶けていると見られる跡もある。暁斎の労苦が偲ばれた。


「ええんです。元はと言えば僕の監督不行き届きやさかい、礼も侘びも要りません」

「暁斎おじ様……」


 夢の声を思い出す。その名残りは、まやかしの名残りではあったけれど、確かな温もりが菫の胸に残っている。

 自分を取り戻すきっかけとなったのは、駿の言葉の記憶だ。


〝俺のことは全て俺が決める。菫がどんなことになっても〟


 強い言葉に、意識が覚醒した。そして最後の兄の抱擁と、言葉。


「菫はん。最後の翔はんの言葉は本物です。鶴はんの巫術を憑代とした、本物の翔はんです。ええ贈り物、貰いましたな」


 菫は驚きながらも頷く。華絵と興吾が翔の名前に反応したのを見て、あとで彼らにも教えようと思った。


「雅代さんがお昼を支度してくれてます。食べてからお帰りなさい」


 鶴の勧めに有り難く従い、昼食を摂った一行は、田沼家を出て、三輪をあとにした。

 駿は三輪山を振り返る。三輪山の主・大物主神。あの時、鶴に降りたのは、大物主だったのではないだろうか。


〝そなたの霊刀、意のままに操れば日の本の遍く猛者も、屠るは容易かろうに〟


 物騒なことを言ってくれる。菫と暁斎に聴かれなかっただけまだましか。華絵たちには聴かれてしまったが。黒白を、コントロールし切れている間は、菫たちと共にいられる。この、陽だまりのような居場所に。まるで人畜無害な顔をして。しかし御し切れなくなったならその時は。こっそりと菫を盗み見る。

 電車の椅子に腰掛ける菫は、淡い藤色に銀の月が浮かんだ絽の着物を着ている。一枚の絵みたいだなどと柄にもなく思う。


 別れの時が来るなどと、今は考えたくなかった。




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