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夢待ち人

挿絵(By みてみん)





挿絵(By みてみん)






 深夜に宿に戻った暁斎の告げた事実は、到底、華絵たちに受け容れられないものだった。


「菫が攫われたって……。どういうことですか、暁斎さん」


 一睡もせず菫と、その迎えに向かった暁斎の帰りを待っていた華絵の困惑は、興吾たちにも共通するところだった。

 御倉の名の効能で、宿で最も良い部屋を宛がわれた華絵のもとに、一同は集った。

 

「言葉通りの意味でしてん。攫うたんは、奈良は三輪に本拠地のある巫術の一族の長・田沼鶴」

「聴いた名だな」


 壁に寄り掛かり、腕を組んでいた駿に、暁斎は頷く。


「業界では有名人ですさかい」

「その有名人が、どうして菫をさらうんだ、暁斎おじ!」


 同じ白髪、紫の目が向かい合う。暁斎の、普段は笑んだような目が、今は恐ろしく澄んで冷たいくらいであることに、興吾は些か気圧されていた。


「こう言うては何ですが、菫はんは使いでがあります。鶴はんは、孫の嫁にと言うてましたが、あながちそれも出鱈目ではないですやろ。霊力の強い子ぉを産み育てるんは、この業界の常識ですよって」

「まんまと、目の前で、菫を攫われたんですか。貴方が?」


 問う駿の声は静かで、視線さえ暁斎を見ていない。その目は床の間の掛け軸の、円月の絵に向かっていた。駿の問いは問いではなく、実際は糾弾だった。暁斎であるからこそ、菫の迎えを任せた。冷たく扱われた菫を哀れに思い、同情してもいた。だがその結果がこれだ。


「殴って気が済むんなら幾らでも」


 暁斎の肯定と謝意の意思表示に駿はひょいと肩を竦める。その時、初めて暁斎を見た。


「殴りませんし、済みませんよ。とりあえず俺は寝ます」

「ちょっと駿!」

「華絵さんも寝たほうが良いですよ。寝不足は美容の敵ですし、明日は奈良行きだ。でしょう? 暁斎さん」


 暁斎は黙して頷く。それを見届けた駿はさっさと部屋を出て行き、興吾もそれに続いた。暁斎は最後にゆっくりとした足取りで部屋を出た。



 三輪山。

 奈良県桜井市にあり、記紀の時代からその名は知られていた。大神(おおみわ)神社(じんじゃ)の祭神・大物(おおもの)(ぬしの)(かみ)の伝説が有名で、なだらかな円錐形の山そのものがご神体として崇められている。大物主神と大国主神の和魂(にきみたま)とする伝承もある。神仏習合の歴史から古神道の濃い影響までが認められ、現代ではパワースポットとしても脚光を浴びている。


 その三輪山を臨む桜井市の田沼家では、家の主婦が賓客のもてなしに頭を悩ませていた。姑が連れ帰った女性は貴人と称するに相応しい立場であり、今は昏々と眠りに就いている。姑の差配ゆえだ。姑の命は絶対である。こと、この家、この一族に関しては。眠りに就く客人が起きるまでに、もてなしの支度の段取りを全て整えておかなければならない。


 ピ――――――と音を立てて、薬缶が湯の沸騰を知らせる。パタパタと急ぐ足音がそれに向かい、その足に小さな子が纏わりつく。


「こら、だあめ! 今、お母さん、熱い物持ってるんやから」

「あっちのお部屋に行っちゃだめえ?」


 舌っ足らずな声が尋ねる。敏感な子供は、〝あっちのお部屋〟に、何か特別なことがあると察している。それは両親から出入り禁止を言い渡されたからでもあるが。母親は、怖い顔を作って見せた。


「大事なお客様が寝てるからね。絶対、駄目よ」


 そう言って、ポットに湯を注ぎ入れる。眠り続ける客人の世話をも彼女は任されているのだ。客人は、そのまま身内となるかもしれないと言う。彼女は気を張って、家事全般に取り掛かった。家の周囲の結界の綻びをチェックするのも、彼女の大切な仕事だった。



 何だかとても安らかな気分だと菫は思う。

 ここ最近、張り詰めていた気が一気に緩み、まるで花の綻ぶ春を迎えたかのような。

 春? 今の季節は春だっただろうか。

 春だったかもしれない。だって空があんなに長閑に青く、吹き抜ける風も優しい。菫は長い髪を手櫛で梳きながら微笑む。

 ふと何か、違和感を覚えたが、目の前を通り過ぎた紋白蝶に気を取られ、忘れてしまった。……紋白蝶。ひらひら。

 ひらひらと。

 紋白蝶を、いつどこで見ただろう。飛んでいたのは蜜蜂だった気がする。

 ぶんぶんというあの羽音。今でも思い出せる。

 思い出せる……。何を?

 菫は水色のベルベットのワンピースの裾を翻して、そこに向かう。

 兄が手招きしている。

 バイオレット。僕の可愛いお姫様。

 早くおいでと言っている。

 足元には小川が流れている。小川が。小川などあっただろうか。

 けれどそれもどうでも良い。兄の元に急がねば。

 蜜蜂が飛び交う。ほら、やっぱり蜜蜂だった。

 さっき見たのは何だっただろうか。また忘れてしまった。

 悲しいことや辛いことを、全て忘れて流してしまいなさい。

 そう、誰かに言われた気がする。そして自分もそれを望んだ。望んだけれど。

 菫は少し怖くなる。

 悲しみの忘却と引き換えに、大切なものまで失くしそうで。

 足元の覚束ない心持ちで。

 するといつの間にかすぐそこまで来ていた兄が言う。

 どうしたんだい、菫。

 何でもないわ、お兄様。

 言葉はなぜかぎこちなく、滑らかには出てこなかった。まるで久しく言わなかった単語のように。

 菫はいつの間にか裸足になっていた。足元にはふかふかの、菫の小花が茂る絨毯。

 濃い紫の、生命の絨毯。

 菫はそれを踏みしだくことが何だか怖くなり、そろりそろりと後ずさりした。

 蜜蜂が、そんな菫を追い立てて責めるように飛んでいる。

 怖がることはないよ。菫。

 兄の笑顔。

 この笑顔の向こうに、とても悲しいことが起きた気がする。

 赤い飛沫が在った気がする。

 なかったのよ。忘れなさい。

 そうだ。忘れてしまえば良い。

 だって兄は笑っている。ここにある色は紫色だけで、菫の名前の色だけで、赤い色なんて微塵もないのだから。

菫? どうして泣いているの?

え?

頬に手を遣ると確かに涙。濡れている。どうしてだろう。世界はこんなに平和なのに。

 ……世界はこんなに平和なのに。

 気付くと菫は紫水晶を握り締めていた。

 その輝きに、何かを思い出しそうになる。忘れられない大事な人の色。


 暁斎おじ様がウィスキーボンボンをくれたわ。


 突拍子もなく菫はそう言った。ぽん、と。飛び上がるように思い出したのだ。

 兄はにこにこと笑っている。

 へえ、それは良いねと。美味しそうだと。

 僕にもおくれ?

 駄目よ。あのウィスキーボンボンは。だってあのウィスキーボンボンは。

 何が、どうして駄目だったのだろう?

 そうだ、忘れてしまうから。

 食べたら忘れてしまうから。

 忘れてしまうことを菫は思い出した。

 忘れてしまうことは良いことだよ、バイオレット。

 深い声で兄が言う。

 忘れて。

 忘れないで。

 相反する声が同時に聴こえて菫は戸惑う。

 忘れて。

 いいえ、忘れないで。

 

 麗らかな日和。春の日。

 昔日の忘却は罪にあらず。


 厳かに誰かがそう、告げる。

 昔日の忘却は罪にあらず。


 それは許すようでいて、その実、菫に命じて強いる声。

 ぐるぐると目が回る。視界に映るのは蒼天と菫の紫色ばかり。


〝俺のことは全て俺が決める。菫がどんなことになっても〟


 そう。誰かが。近しい誰かがそう言った。強い声で。

 私も、私のことは、私が決める。

 菫の宣言は花畑に突風を巻き起こした。


 困ったお人ですねえ、菫はん。


 わんわんとそう響き渡る女性の声、声、声。

 兄を見上げると兄は、菫を抱き締めた。


「思うようにお生き。バイオレット」


 その声はそれまでの茫漠として、ただただ優しいだけの声とは違い、確かな肉声として菫の耳に響いた。


 鶏と雀。それから鳩の鳴き声がする。

 目を覚ました菫の布団の横に、銀滴主が突き刺さっていた。その冷たく澄んだ煌めきは、菫を叱咤するかのように。

 銀滴主の主の姿を求めて、菫は首を巡らした。



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