月の光に酔い痴れて
紫紺の闇の中。蛍か、もしくは雪でも飛び違えばさぞや映えて風流だろう。けれど秋に映ろう晩夏には、そのどちらも望めない。
ぶっ法そうは宿から出て京都御所を囲む塀の前にうっそりと佇んでいた。
蛇の身体、人面の、飛び出た双眼に長い舌。手目坊主などとは違う、明確に人に害を成す妖怪。
菫を見ると、飛び出た眼がぎょろりと妖しく光った。濁った、底光りだった。
菫は鉄線を持った手を、優美な仕草でぶっ法そうに向けた。
凛として。
「私は今、虫の居所が悪い。手早く終わらせてもらうぞ。魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
現れいでる、銀の刀身。柄に鉄線の紫色を供として。銀の輝きと紫色の花びらが、冷涼として、あたりの暑気と妖気を払うようだった。
ぶっ法そうの蛇身が、菫を素早く取り巻き、華奢な体躯を締め上げようとする。その習性は蛇の攻撃に近い。しかし蛇より性質が悪いことには、体躯を締め上げるに飽き足らず、長い舌で首を締め上げようとするところだった。舌は長く、赤く奥のほうは黒い。
菫の身体を紫の燐光が包み、ぶっ法そうの攻撃を緩和していた。
空に向かい、呟く。
「銀月。月下銀光」
降り来るは銀の串。鋭利なそれは宙よりぶっ法そう目掛けて落下し、その蛇身の幾か所をも刺し貫いた。ぶっ法そうの、奇怪な雄叫びが響き渡る。
「遍く月光の支配下は私の支配下だ。銀月。斬」
菫の呪言と同時に、ぶっ法そうの全身が怜悧な銀色に両断された。
ぶっ法そうが苦しげに呻く。
「そうか。お前が月光姫……!」
「その呼び名は好かぬ」
菫の不快そうな声にぶっ法そうが嗤った。長い舌がそれでも未練がましく菫に追い縋ろうとするのに、再び銀に両断される。それが最期だった。
「手早く終わらせると言った」
さらさらと塵と化すぶっ法そうの、もう届かぬ耳に菫は低くそう告げた。
菫はぶっ法そうを攻撃する間、銀月の刀身を僅かも揺らしはしなかった。ただ、手に持っていただけ。だがそれこそが、月光を操るに肝要だった。闇の眷属たちの間で、まことしやかに噂され、畏怖される存在・月光姫。表に陣する者たちにもその呼び声は届いている。月光を意に沿わせる菫の異能の神髄は、それでなくとも注目されている菫に、更なる多くの視線を呼んでいた。本人としては不本意なことだった。
パシャリと微かな音を、菫の耳が拾う。結界にひびが入ったのだと判る。
微かな音は連続して響き、とうとう、菫が月波で張った結界を消失させてしまった。美しく編み上げられた月の光が何者かの手によって破られた。
「誰だ」
菫が誰何する険しい声に、進み出たのは小柄な人影。
深緑色の涼しげな絽の着物を纏った白髪の女性。絽には細い金と銀の線が入っていた。
「優しい結界ですなあ、菫はん」
「お鶴さん……」
菫が警戒の姿勢を解く。
優しい、とは褒め言葉ではない。生温い、隙だらけだ、と指摘されているも同然なのだ。しかし菫に腹立ちはなかった。なぜなら彼女、田沼鶴は結界術を含め広く術式を修める巫術の一族の長であり、その為結界術に関してスペシャリストと呼べる存在であるからだった。
だが彼女が京都にいるのは解せない。鶴の一族は奈良県桜井市三輪山をご神体と崇め、本拠地は京都ではない。
「いつ、こちらに? なぜ?」
「菫はんが来る、聴きましてなあ。せやかて菫はん。若い女子はんがそないな浴衣一枚で町中をうろつくんは感心しませんえ」
言うと、すい、と絽の袖を動かす。
たちまち菫も、絽の着物に早変わりしていた。但し色柄は鶴と異なり、淡い藤紫に、丸い銀の月が浮かんでいる。
「立ち話も何ですさかい、呑みながら話しましょ」
思えばその声、話術も、鶴の操る術式だったのかもしれない。菫は気が付くと鶴に手を引かれ、どこの通りともつかぬ道行を歩んでいた。紫紺に、時折浮かぶ丸い明かり。黄色、橙、赤。道は、消えたかと思えば現れる。子供たちの笑い声が通り過ぎるが、それも影と声ばかりでしかとした姿は見えない。
そうして辿り着いたのは一軒の屋台だった。
赤い提灯に「巡り燈籠」と書かれてある。夢と現の狭間にある空間だとは菫も承知だ。鶴に招かれたからには。そしてこの屋台には、菫も一見さんではなかった。
「おいでやす」
「お久し振りです、大将」
菫が返すと、細面ながら厳つい顔が僅かに緩む。前に来た時と変わらぬ姿。彼もまた、全き人ではないのだろう。頭に張り付いた白髪は、とりあえず年経た人の振りをしているだけの小道具のように見える。
「さあさ、呑みましょ、菫はん」
「いや、しかし」
「釣れない男なんて放っといて」
「…………」
一体、自分の秘めた筈の恋心は、どこまで知れ渡っているのか。直接に打ち明けたのは駿しかいない。それなのに百瀬も、鶴も、解り切ったかのような口振りなのだ。ある意味、彼女たちこそ真の異形、化け物なのではと思わせられるところが多々ある。
菫は諦めて、冷酒を口に含んだ。純米大吟醸だ、と舌が歓喜に震える。高野豆腐、枝豆などが目前にとん、とん、とリズミカルに置かれる。こうなるともう、呑むしかあるまいと菫の中の呑兵衛の虫が断じてしまった。鶴もおっとりと品良く盃を傾けている。おっとりと、品良く、しかし絶え間なく呑み続ける。相当な酒豪である。
「わたくしはね、菫はんのことが心配ですのや」
「心配?」
菫が訊き返すと、んもう、と、鶴が小娘のような拗ね方をして見せる。しかし彼女がやると、白髪だというのにそれが様になって、尚且つ品がある。
「菫はんはあちらでもこちらでも有名人。バイオレットて呼ばれたり、月光姫て呼ばれたり。貴方はね、混沌のその、最中におるお人ですのや」
菫は苦笑する。自分がそんなに大層な人間だとは思わない。主に死んだ兄や、母のことで思い煩うくらいだ。宥める意味合いも兼ねて、鶴の盃に冷酒を注ぐ。徳利も盃も薄く繊細な硝子で、少し力を籠めれば割れてしまいそうな儚い美を備えている。
「うちにお出でなさいな」
菫に注がれた酒を、一息に呑んでしまってから鶴が言う。おっとりと、しかし熱意を籠めて。
「奈良にですか」
半ば冗談交じりに菫が問う。しかし鶴の酔眼でもない目は真剣に、是、と答えていた。遙にも誘われたな、と菫は思いだす。
〝今の居場所が居辛くなったら僕を頼って。僕らはいつでも君を迎え入れるから〟
僕らというのは汚濁を生み出す集団を指していたのだろうか。そうであれば、到底、菫が行ける筈もない。
「私はあちこちからスカウトされて、人気者ですね」
「肝心のお人からはスカウトされませんのにねえ」
ぐさりと刺された気がした。鶴はサディストではあるまいか、と傷心の菫は思う。駿に指摘されるような自分のS振りなど生温い。やんわりと円やかな声調に針を仕込むのは、関西のお家芸だろうか。
もう随分と盃を重ねた。普段は呑み過ぎれば笑い上戸になる自分なのに、なぜだか今は泣きたい気分になっている。これでは泣き上戸だ。
鶴に頭を撫でられる。
「よしよし。悲しいことが、多いですね。ね、奈良に来なさい。わたくしたちが貴方を守ってあげますよって」
心に沁み入るような、優しい声だった。小さな子供に戻って、泣いて鶴の胸に顔を埋めたいと、菫は切実に望んだ。
「ええ子や、ええ子」
鶴の声が、段々に遠ざかる。意識が白濁し、朦朧として急激な睡魔に襲われる。
ことりと頭を自分の肩に預けた菫の髪を優しく梳きながら、鶴は目を細めた。二種の感情から。一つは慈愛。もう一つは。きろりと光る、鶴の目。
「おばんです」
「おいでやす」
「思うたよりのんびりでしたねえ、暁斎はん」
白髪を掻きながら、困ったように薄紫の目を瞬きさせて、暁斎は菫の横に座った。
「捜し当てるのに往生しましてん。何せ巫術の一族の長の辿った道筋ですよって」
「せやけど、こうして辿り着かれました。流石は〝されど視えたる〟の暁斎はんですね」
「畏れ入ります。畏れ入りついでに、その子ぉを、返してもらえませんやろか」
鶴の眼差しが鋭く、敵意さえ含んで暁斎を睨んだ。
「泣かすばかりの男はんに、渡す気にはなりません。菫はんにはわたくしの孫の嫁になってもらえたら、ほんま嬉しい思うてますのえ」
暁斎が黙り込む。彼にしては珍しく、いつもの飄々とした余裕が見られない。沈黙は固く、重い。
「懐に」
ぴくり、と暁斎の白髪が動く。
「懐に花を仕込んで来はりましたね。わたくしを、斬らはりますか」
「…………」
鶴の存在感と霊力がどんどん増大してゆく。暁斎だからこそ鋭敏に、明瞭に感じ取れる変化であり、威圧だ。鶴を斬ることは出来ない。諸組織のパワーバランスが崩れる。
鶴はそれを見抜いている。勝ち誇ったように笑う。嫣然と。
菫を絽の袖でくるむように抱いて、すいと立ち上がる。
立ち上がった、次の瞬間には鶴の姿は消えていた。菫と共に。
卓上にはきちんと勘定が置かれている。暁斎は鶴と菫が消えたことを察した。「おおきに」と、一拍遅れて店主が言うよりも前に。
単衣の袂に手を入れて、竜胆の花を出す。店主の目が窺うようにそれを見遣る。
菫をまんまと連れ去られた。
深い青紫の竜胆の花を持ち、暁斎はしばらく微動だにしなかった。