甘い苦い冷たい
京都御所の東北、所謂鬼門には、「猿ヶ辻」と呼ばれる箇所がある。日吉大社の使いである猿の像が金網の向こうに安置されている。そして御所の鬼門の角は凹んでいる。角をなくすことで鬼を寄せ付けまいという考えである。烏帽子をつけ、御幣(神事に使う道具)を持つ猿に、暁斎が語り掛ける。
「霊能特務課長補佐・安野暁斎です」
「謎は、今よりはやわれに、秘めかくすべきものあらじ」
「去りゆく風を、遁れゆく光を、我は抱き締む」
あたかも猿が喋ったように見えるが、声はもっと深淵から聴こえてくるものに思えた。
暁斎が合言葉にすらすらと答えると、女性の白い腕が金網の向こうから現れ出て、暁斎の頬を撫でた。
「待ちかねたぞ、暁斎」
すると京都御所の凹んだ一画の地面が、音もなくスライドし、階段が現れる。
「すげえ」
興吾が興奮するのも無理はない。一行がその階段を下りると、十メートル四方の空間に出て、そこにはエレベーターがあった。エレベーターに乗り、華絵が下降ボタンを押す。目的地は地下八階。
ポーン、と到着を知らせる音と共に、眼前に黒い漆塗りの板に縁取られ、花鳥風月が描かれた壮麗な木の扉がある。観音開きの扉の把手の下には朱色の紐が複雑な形に結ばれずっと下に垂れ下がっている。暁斎は臆することなく勝手知ったるという様子で扉を開けた。
そこに広がっていたのは竜宮城のような光景だった。
ゆらりゆらりと薄桃色の水が揺れ、紙書類がくるくる回る。中の人間はそれにもの凄い勢いで何かを書き込んでゆく。熱帯魚と海亀が泳いでいる。熱帯魚でも特に美しいとされるエンゼルフィッシュが菫の頬にキスした。興吾は水が室外に流れ出るのではないかと一瞬慌てて、扉を閉じた。漂っているのでは水ではないと少し霊感を働かせれば解ることだが、やはり初めての環境、しかも常識を無視したそれに混乱していたのだ。
そして。
「お越しやす」
高らかな声で菫たちに宣言したのは、頭に金の釵子(冠のような飾り)を飾った雛人形の扮装の、少女だった。菫より少し年下に見える。
だが彼女の実年齢が暁斎さえ上回ることを菫は知っている。
浮遊する彼女の下では、三人官女の扮装をした課員たちがお茶の用意をしている。
「課長。合言葉にボードレールは止めにしませんか」
「嫌じゃ。お洒落は我慢」
「使い方、間違うてますえ」
「よう来たの、バナナ。久しいのう」
「ご無沙汰致しております、百瀬課長。神楽菫です」
「うむ。バナナは冗談じゃ。許せ」
「はい」
「御倉も息災か」
「はい。特務課長にはご機嫌麗しく」
ほほほほほ、と百瀬が笑う。笑うたびに室内に満ちた、波と見紛う霊波動が揺らめき、百瀬の着物の裾もひらひらと揺れる。
「かわゆいバイオレットの顔が見られたのじゃ。機嫌も良くなろうというもの。して、そちらの童が?」
「神楽興吾と言います。霊能特務課の末席に連なること、お許しくださりありがとうございます」
百瀬の目元が和む。尤も、常に笑っているような目なので、違いは微々たるものだが。
「京史郎の教育の程が偲ばれるな」
深海魚である竜宮の遣いが興吾の身体の周りをぐるうりと旋回する。白銀の身体が美しい。この部屋にいる間中、浮遊感が常にある。
緑色の藻が柔らかにそよぎ、小魚の群れが集い、方向を変えながら進む。
「はて。礼を失しておる無礼者がおるの」
可愛らしく小首を傾げた百瀬だが、その目は笑っていない。
室内に入ってから一言も喋っていなかった駿が真剣な表情で進み出る。とは言っても、足元は地についた感覚がなく、些か頼りないものだったが。
「特務課長。此度のお骨折り、真に忝く存じます」
「うむ、うむ、息災で何よりじゃ、村崎。牢に入れられるとは、可哀そうに」
ころりと機嫌を直した声と顔で、百瀬は駿を不憫がりまでした。
三人官女からお茶を出された面々は、湯呑に口をつける。このお茶も、急いで飲まないと宙に逃れ出ようとするので、皆、迅速に飲み干した。甘露な味は、もっと楽しんでいたいと惜しく思わせた。
ばりばりと、百瀬が菫から献上された明太子の包みを乱暴に破って開ける。そのまま、一腹を素手で掴むとあーんと口を開け、一口で食べてしまった。もそもそと口が動き、目尻は垂れ下がっている。幸せそうだ。そして豪快だ。
「課長。コレステロールは控えてください」
「けち臭いことを申すな、暁斎。食の楽しみなくして何の我が生ぞ」
更にもう一腹、摘まみ上げて口に入れようとする。
「課長」
「何じゃ、煩い」
「胃カメラ……飲まはりますか?」
ぴたりと百瀬の手が止まる。沈黙し、おもむろに摘まみ上げた一腹を包みに戻す。
「……のう、バナナよ」
「……バイオレット」
興吾がぼそりと呟く。
「そう、それじゃ。のう、バイオレットよ。わらわはかくも鬼の如き課長補佐に過酷な扱いを受けておる。憐憫の情が湧かぬか? 湧くであろう?」
答えにくい。
「課長のご健康は、課員全員の願いです」
「お利口さんな答えじゃな。そなたも酔狂なものよ」
菫の、湯呑を持つ手が強張る。百瀬の後半の台詞は、菫の暁斎に対する恋慕を見抜いての言葉だと思われたからだ。相手は化け物じみた隠師の元締めだ。千里眼を持っていると言われても驚くものではないが。
この部屋も、と菫は竜宮のような空間を見渡す。
長老たちの代表はここまで出向いて百瀬に抗議したと聴いた。この部屋は完全に百瀬のテリトリーである。まず、現を嘲笑うような異空間に驚くであろうし、惑乱されるだろう。百瀬の掌の上で玩具のように転がされたかと思うと、少々、長老たちが哀れに思えた。
ひとまずはこれで百瀬、ひいては霊能特務課への礼は尽くしたと判断した菫たちは、竜宮を出て、エレベーターに乗り、今度はぐんと上昇して、やっと外気を吸うことが出来た。
あたりはまだ陽が高い。秋に移り変わる気配があるとは言え、まだまだ暑い。加えてここは油照りと称される京都である。暑い陽射しと蝉の声で、ようやく人界に戻った心地がして、菫は我知らず安堵の溜息を吐いていた。百瀬と相対すると、エネルギーをごっそりと持ってゆかれる。
「チェックインまでにはまだ少しあるけど、宿に行ってレストランで食事にしましょうか」
華絵の提案に賛成の声が上がる。日吉大社の猿は、今はもう何も語らない。
宿は如何にも京都らしい雅やかな佇まいで、レストランも品良く、竹が多用された内装は物静かで落ち着いていた。夕食にも出るだろうが、今が旬の鱧を、待ち切れず頂くことにする。梅肉をベースにしたタレにつけて食べると、白身の淡泊な滋味と梅の酸味がよく合い、昼から日本酒を呑みたくなる。菫がそう考えたのが判るように、興吾が菫をぎょろりと見る。解っているよと目線で返し、慎ましくお茶を飲み、次いで烏賊や鰤などのお造りを食べたが、魚は博多に軍配が上がる、と菫は思った。
そうして飲酒を控えた菫だが、隣を見てぎょっとする。いつの間にか、暁斎が冷酒を呑んでいたのだ。華絵までご相伴に預かっている。
「暁斎おじ様。今は昼ですよ」
「これは酒やのうて般若湯です」
笑顔でそう言い切られると、それ以上、強くは言えない。羨ましい、と思っている菫の前に、ことん、と硝子の盃が置かれた。暁斎が悪戯っぽい顔をしている。
「般若湯やさかい、菫はんも少しくらい呑んで良いですやろ」
「暁斎おじ、甘やかさないでくれ」
「興吾、弟の台詞じゃないぞ」
興吾は姉の笑い上戸を知っている。度を越して呑んだら、また、山荘での晩餐会の再現になる。そう心配する間にも、菫はくいっ、と盃を傾けている。駿もちゃっかり呑んでいる。大人という生き物の生臭さを興吾が身に沁みた瞬間だった。
昼食のあとは解散し、各々、部屋で寛ぐこととなった。興吾と菫は同室だ。菫はぼんやりと籐の肘掛け椅子に座り、眼下の景色を眺めていた。些少の酒で酔う程弱くはない。旅疲れ、緊張した後の疲れが心身にわだかまっていた。
〝早晩、菫はんには村崎はんの霊刀の力が必要になる〟
暁斎はそう言った。そして菫は見た。汚濁を喰らう駿の霊刀を。
汚濁を喰らう霊刀が、どうして自分に必要となるのだろう。兄の死に纏わることといい、暁斎は、恐らく京史郎も、菫より菫を知り、菫に近しいことを知っている。駿もそうなのだろうか。少なくとも母に関する秘密は駿には知られた。興吾には知られたくない。しかしそれももう、時間の問題である気がする。長くは保たないと、京史郎とて承知の筈だ。これまでが寧ろ僥倖だったのだ。
いつしか時は移ろい、夕刻、華絵と共に宿の檜風呂に入ると、一同は揃って京懐石に舌鼓を打った。ここでまた、呑み過ぎた菫が笑い上戸となり、興吾に部屋に連れ戻された。
姉の介抱をしていた興吾は、奇妙な声を聴いた気がして、部屋の窓を開けた。冷房の効いた室内に、暑気が入り込んでくる。
(聴こえる)
「ブッポウソウ」
(仏法僧……)
「ブッポウソウ」
声は陰々滅滅と響き渡る。
木の葉木菟もブッポウソウと鳴くが、この声は明らかに鳥のそれとは異なった。
「ぶっ法そうだな。手目坊主に加えて。流石は京と言ったところか」
いつの間にか起きていた菫がそう断じて、部屋の床の間に活けてあった鉄線を抜き取る。
妖怪・ぶっ法そうは邪悪な相(顔)を表し、その身体に邪心を暗示する蛇身の形を表わしている。更に舌を長く伸ばしているが、「舌がのびる」とは広言を吐くという意である。
仏法僧であれば尊い仏教の三宝、仏・仏教・僧侶のことであるが、こちらは邪悪な妖怪である。
菫に続き、花入れにあった鬼灯を手に興吾が追ってくる。二人共、浴衣姿だ。
廊下で同じように花を手にした暁斎、華絵、駿とかち合う。皆、ぶっ法そうの声を聴いたのだ。濃い負の妖気を感じると同時に。
「聴きましたか」
「はい」
「ほなら菫はんに任せましょか」
ぽん、と。軽く暁斎に負わされた任に、菫は狼狽えた。一人で妖怪を斬ることに異議はないが、暁斎に冷遇された気がしたのだ。華絵と駿が交互に暁斎と菫を見る。
「俺も行く」
「あきません。聴き分けなさい、興吾はん。菫はんも一人前の隠師や。ぶっ法そうくらい、一人で狩ってもらわんと困りますのや」
冷厳な声音で、そう語る暁斎に、誰しも黙った。
「行ってきます」
菫は噛み締めていた唇を開くとそう言い、鉄線を手に外の闇に向かった。
一歩外に出ると纏わりつく蒸し暑さに感傷が助長される気がして、それが怖くて菫は駆けた。