鬼さんこちら
駿は何事もなかったかのように戻ってきた。研究室の黒い革張りソファーに寝そべり、雑誌を見ている姿を見た菫は、緊張が弛緩する思いだった。やや腹立ちもあった。こちらの心配も知らないで、と。興吾などはつかつかと駿に歩み寄ると、その頭を拳で殴った。
「いてっ」
「莫迦野郎! 菫に心配掛けやがって」
「え? 菫、心配してくれたの?」
喜色混じりの声で聴かれて素直にそうだと答える菫でもない。腹立ちも手伝い、つんと横を向いた。
「してない」
「またまた~」
「してない」
「またまたまたまた~~~」
「煩いうざい黙れ」
「京都には俺も行く」
いきなり話題が転換し、菫は駿の顔をまじまじと見る。
「特務課長への礼か」
「そ。神楽さんにも暁斎さんにもそうしろって言われたしさ」
「私も行くわよ~。御倉御用達の宿に皆で泊まると良いわ」
「お。良いねえ」
持永研究室の全員が京都くんだりすることになる。持永の職務に差し支えなければ良いが。菫はそう思い、駿を更迭したのが持永本人だったと聴いたことを思い出す。持永は長老直下の隠師として、常々、駿を猜疑の目で見ていたことになる。その考えは、少なからず菫を陰鬱な気分にした。駿との師弟関係も、これまで通りとはいかないだろう。だが駿は研究室に居座る構えだし、持永も駿を放逐しようという気配はない。全てが以前のようにとは行かないまでも、表面上は持永研究室は平穏を保たれることになる。例えそれが薄氷の上に成り立つものだとしても。
その晩、菫は京都行きの準備をし、興吾も京都行きに備えて一旦、実家に帰った。菫のボストンバッグに比べ、リュックサック一つを持って来た興吾を見て、軽装振りに半ば感心し、半ば呆れた。
博多から京都まで、新幹線のぞみで約三時間半。
暁斎、華絵、駿、興吾、菫の顔触れで乗る新幹線は新鮮で、尚且つ、暁斎に引率されているような気分になったのは菫だけではあるまい。暁斎も駿も、興吾と似たり寄ったりの軽装で、菫は同じく膨れ上がったボストンバッグを持つ華絵と顔を見合わせた。窓際の席から順に菫、華絵、暁斎、向かいの窓際には興吾、そして駿の順に座った。九時台の新幹線に乗り、駅弁やパンを買って、新幹線に乗り込んだ面々は、席に着くと早速、飲食を始め、まるで遠足か修学旅行かといった光景となった。
「おい、村崎」
「んあ?」
今しも、駅弁の海老フライにかぶりつこうとしていた駿が興吾を見る。
「父さんの霊刀を見たのか」
「ああ」
「どうだった」
駿は海老フライを咀嚼し、飲み込んでから答える。記憶を辿るように少し遠い目をしながら。
「すげえな」
「やっぱりな。名前は? 能力は?」
「名前は王黄院。王様の王に、黄色の黄に、病院の院。だろうな」
「能力は?」
「それは訊かないのが隠師としての嗜みだろ」
駿の笑いに、興吾も渋々と引き下がる。実際、隠師の霊刀の能力は隠してこそ戦闘に益するのであり、暴露して得することは当の隠師自身には何もない。興吾は京史郎の息子ではあるが、そのへんのけじめはつけるべきだと駿は考える。興吾もそうと知った上で尚、訊かずにはいられなかったのだろう。
「暁斎おじ様。父さんは霊能特務課とは今は距離を置いてるんですよね。課長に挨拶に行かないのは、それが理由でもあるんですか?」
菫が暁斎に尋ねる。
「そうですねえ、そんなとこです」
俵型のお握りを食べながら、暁斎がのんびりと答える。
日本全国にいる隠師は、大抵が長老たちと霊能特務課、そのどちらかか、もしくはその両方に属している。どちらにも属さないはぐれ隠師もいる。そして同じ領域を扱う機関同士の常で、その両者の仲は決して友好的とは言えない。言えないからこそ、今回の件は特に長老たちにとって未曾有の不祥事であり、霊能特務課に対する非難も批判も殺到した。暁斎は肩書きが示す通り、霊能特務課派閥に属し、京史郎もまた特務課寄りである。持永は長老直下の隠師ではあるものの、霊能特務課長と独自のパイプを持つ。今回、霊能特務課長は駿の件について、長老たちを半ば上から目線で宥め、今後は駿の監視をこちらでも怠りなくするからなどと言い含めて黙らせてしまった。一見、両者の力関係が浮き彫りになったようでもあるが、これで長老たちは特務課に大きな貸しを作ったことになる。特務課長はその事実をも匂わせ、事態を収束させたのだ。政治的な駆け引きは、どこの世界にも存在する。
やがて新大阪も近くなり、そろそろ降りる準備を菫たちがしようとしていたところ。
「ねえねえ、」
菫の袖を引く小さな手がある。菫はぎょっとした。菫の右手は窓、左手には華絵が座り、人の入るスペースなどないのである。足元を見ると、前の座席と菫の脚との間に身を屈めて座る、小さな、平安時代の女童の恰好をしたおかっぱより少し長い髪に紐で蝶々結びの飾りをつけた女の子がいた。
「主様がね? お腹が空いた、早く待ってるって」
彼女はくすくす笑ってそう言うと消えた。
華絵ももちろんそれを見ていた。目を丸くしている。当然だろう。
しかし暁斎は。
「ああ、早速、課長からの催促ですか。せっかちなお人やなあ」
そう言って嘆息する。
「暁斎おじ様。今のは」
「課長の式神でしてん。名前は胡蝶はん」
「……菓子折りに加えて、博多明太子なども持参したのですが。アイスノンで厳重に包んで貰って」
「それはええ。あのお人は、特産品に目がないさかい」
知っている。だからあえて、デパートの地下で、特に味の良いと思われる逸品を選び、購入したのだ。菫も霊能特務課長には会ったことがあるからだ。特務課は、まさに魔の巣窟だったが、式神まで闊歩しているとは、京都の町の奥深さと課長の異能に改めて畏敬の念を抱く菫だった。
京都駅のプラットホームに降り立った途端、うわんという耳鳴りが起こり、霊域に入ったなと感じ取れる。京都駅に着いた一行は、それから地下鉄で丸太町駅までの切符を買うことにした。
霊能特務課は京都御所の地下にあるのだ。のみならず、御倉家御用達の宿も御所近くにあり、まずは荷物をそこに置いてから特務課に向かう方針を一行は定めたのだった。隠師の名門である御倉家ご用達の宿が特務課に近いのは、偶然ではない。
雑踏の中、地下鉄の券売機に並んだ菫は、視界の中にちらつくものがあり、何かと目を凝らした。そして後悔した。
そこにいたのは両手に目がある坊主頭の妖怪だった。菫の様子に気付いた華絵が同じ方向に視線を向ける。途端、嫌そうな顔になる。
「手目坊主じゃない」
「はい」
いかさまや賭博で、自分に都合の良い目や札を出すこと、或いはそのいかさまを「手目」と言う。見えているのは菫たちだけで、周囲に騒ぎは起きない。
「放っておいても害はないわね」
言外に、このまま通り過ぎたいと主張する華絵に、菫も一応は頷く。
手目坊主が近づいてくる。手を菫たちに見せながら。
その手にある目を覗き込んだ菫は、眼球の映し出す景色に引き込まれた。
駿の手折ったマリーゴールド。
顕現した霊刀。
持永の弾劾。
それらを瞬時に、菫は見た。
手目坊主はもう、菫に拘ることなく、通り抜けて行く。行き交う人々はそれに気づかない。かくして人外と人が混沌として共存するのが京都である。
菫は先に改札口に向かう駿をちらりと見る。
黒白が危険視されたその異常性を、自分も知ってしまった。だが、と思う。汚濁をかっ喰らう、ただそれだけで、幽閉にまで事は至るだろうか。黒白が異例の霊刀なのは確かだが、それだけでは捕らえる論拠は弱い。その先に、更なる未知の性質を黒白は備えているのだ。