ワンダフルライフ
リビングで待機していた菫、駿、華絵の三人が一斉に顔を上げる。
彼らの直感が待っていた相手の来訪を告げたのだ。
「玄関ね。意外に礼儀正しいこと」
ソファーから立ち上がる華絵に、菫も駿も続く。
ドアを開け、左手に進むと玄関に出る。
果たしてそこには靴をくわえた黒い犬がいた。いや、犬と言うには奇異な点が幾つもある。まずその犬らしき相手は二足で立っている。そして靴を加えた口は耳近くまで深く裂けていた。
爛々と光る目は窪み、鼻は高く尖り手には鳥のような鋭い爪がある。
菫たちの知識にある、ある妖怪の外見的特徴にそれは該当していた。
靴を喰う妖怪、という存在が中国にいる。病人の靴を喰う妖怪で、喰ってもらった病人は元気になる。だがこの妖怪、靴を返しに来ることがあり、返されるとまた病人に逆戻りしてしまう。中国にいる筈の妖怪が、はるばる海を渡り日本に来た経緯は菫たちの知るところではない。しかし害を為す可能性のある妖怪、総じて人外への対処も菫たち隠師の務めだった。
「その靴を返すことはやめて欲しいのよ」
諭すように華絵が言うが、妖怪はぼとり、とくわえていた靴を玄関の三和土に落とした。
「話を聴く気はないって訳ね。良いわ」
「華絵さん」
「退いてなさい、菫。この程度なら私一人で始末がつく」
緑がかった目は険しく細められ、しなやかな右腕が靴箱の上に活けてあるアガパンサスの茎を掴んだ。
「乱朱よ。歌え。舞い踊れよ、狂わば狂え」
華絵の呪言そのものが歌謡のようだった。韻律は嫋やかに晴れやかに。
華絵の総身を紅の燐光が包む。
やがてアガパンサスの茎は細長い華奢な太刀となった。朱に乱れ映える刃文。匂い立つように艶美な、華絵の霊刀である。
霊刀を警戒した様子の妖怪が逃げる気配を見せるが、華絵は先んじて玄関のドアを開け放ち、外に回り込む。襲い掛かる爪の攻撃をかわし、長い脚で回し蹴りを妖怪の腹部にめり込ませた。
痛みに怯む妖怪に、華絵が告げる。最後通牒だった。
「もう一度言うわ。あの靴を持って消えてくれない?」
ガアアッと虎のような口から咆哮が響く。それが答えだ。
「そう……。残念だわ」
華絵は濃く天を向く睫毛の庇のある目を伏せると、乱朱を構え直し、妖怪の眉間に狙いを定めて突き立てた。妖怪に避ける暇も、防ぎ逃げる隙も与えなかった。
華奢な太刀は容赦なくその頭部をずぶりと刺し貫いた。妖怪が赤い霧となって消える。無味乾燥な瞳で華絵がそれを見届ける。赤いスプレーを周囲に撒いたような光景だった。
「仕留めたんですか、華絵さん?」
手出しせず、一部始終を見守っていた駿が尋ねる。
華絵は嫣然と笑った。
「ええ、消失したわ」
「靴が戻されてしまったけど……」
「多分、大丈夫よ。菫。あの妖怪が消えた以上、その時点で能力も消える。返却したという事象を含めて。竹下さんは快癒したままだわ。この先も健康な生活が送れる。彼のラストプレゼントね」
華絵はアガパンサスをちょい、と花器に戻した。
みるみる内に、アガパンサスが萎れていく。仕方のないことだった。
菫たち隠師の異能は、植物を自分の霊刀に変じさせるところにある。例えなよやかな草一本であっても、霊刀を顕現すればそれに呼応して強化される。鍔や柄のように変じる箇所もあり、真実、一振りの日本刀となるのだ。しかし、一度霊刀として使われた植物は、精気を失い、遠からず枯れ果てる。活け花のように、最初から断ち切られているものであれば尚更だった。また、この異能を使う際には自らの霊刀の名を呼ぶことが必須であった。霊刀は言霊に応じて、初めて顕現する。
「外国の妖怪が最近、日本に出没しているっていう話は本当みたいね」
「面倒な話だな。パスポートも持たずに入国するんだから」
「駿ったら」
駿の軽口に華絵が笑う。赤い唇が綻んでいるのは、無事に任務をやりおおせた安堵からくるものであり、肩が軽く上下しているのは、妖怪と対峙した戦闘での消耗の名残りだった。冷静且つ優勢に戦闘を圧したように見えて、それは彼女の努力によるマインドコントロールの賜物であったと知れる。
「華絵さん、お疲れ様でした」
「疲れたわあ、菫~」
華絵は甘えた口調で菫にしなだれかかる。それを駿が引き離す。いつも通りの光景だ。これは言わば、彼らが日常に戻る為の儀式のようなものだった。戦闘のあとは極度の緊張状態と日常感覚の落差に違和を覚える。平生に立ち帰るきっかけがあれば、常人として息が出来る。
菫も駿も華絵もそのこつを弁えていて、日常に回帰するのだった。このように霊刀を消したあともその残滓と言える行動は必須だった。彼らは竹下家の面々に、犯人は既に取り押さえて警察で身柄を護送していると偽りの報告を尤もらしく行い、その場を退去した。
「菫~~~~~」
靴を喰う犬妖怪の事件から凡そ一週間後。
再び駿が精魂尽き果てた様子で研究室のドアを開けた。外は雨がしとしとと降っている。
「またか。今度はどこだ」
尋ねた菫に駿が黙ってビニール袋を差し出す。中には菓子折りが入っていた。
「生八つ橋……。京都だったのか。うわー。霊能特務課の本家じゃないか。そこを除けば良い土地柄だと思うが」
「あの魔窟には近寄らずに済んだよ。てか、呼び出し無視してきた。こえーこえー。それにな、長老から言い渡された猶予期間中、めいっぱい使って汚濁と妖怪の双方を相手取ってきたんだぜ? 観光する暇もないっての」
それでも土産物を買ってくるあたり、律儀である。
菫は緑茶を淹れるべく立ち上がり、机に突っ伏している駿をちらりと眺めた。駿がこれだけ上層部に酷使されるのは、彼の実力がそれだけ評価されていることの裏返しである。駿は菫たちの前で自分の霊刀を出現させることを嫌う。本人曰はく、見て気持ちの良い物ではないからだと言うが――――――――。
雨のしずやかな音が聴こえる。
菫の母が倒れたのも、こんな雨の降る日だった。
「ほら」
駿の前に緑茶の入った青磁の湯呑を置く。水面に佇む白鷺の絵が描かれている。持永教授は好事家で、日頃に使う茶器まで上等の物を選んでいた。それを院生に自由に使わせるあたり、太っ腹である。
「ありがとう」
駿が珍しく芯の籠った礼を言い、湯呑に手を伸ばした。
「土日、実家に帰ったんだろう?」
「ああ」
「どうだった」
「どうもこうもない。……いつも通りだ」
「ふうん?」
駿の見透かすような視線を、菫は避ける。彼は時々、こうした視線で菫を見る。そのことが菫には煩わしく、また、怖くもあった。
実家の生活がいつも通り、円滑に運営されていたのは事実だ。
大らかな父。優しく甲斐甲斐しい母。……いつも通りだ。
例えそのいつも通りが間違っているとしても。
弟の興吾の能力は日に日に強くなっているようだ。自分を長老たちや特務課に、任務可能と推薦しろと菫に喧しく訴えた。興吾は髪と目の色が異相の為、小学校では居場所が作りにくいようだ。子供ながら存在意義を確認出来る居場所が欲しいのだろう。
菫は駿に一つ、嘘を吐いた。
いつも通りではないことが、帰省中にあったのだ。
菫の家、神楽家は裕福な資産家だった。隠師ながら血筋も良く、上流階級の知己も多かった。
だが菫の兄である翔の死後、急に家が傾き、神楽家は零落した。それまでの住まいであった大きな屋敷から、建売住宅の一戸建てに引っ越した。
母は今でもそのことを嘆いているようだが、菫は手頃な広さの家が気に入り、それを再三再四、母にアピールした。この家でも快適に生活出来る、と。
その、家で。
彼に逢った。
漆黒の髪の美丈夫。艶めいた唇、声。
〝僕の可愛いお姫様〟
プールサイドで菫にそう言った男に。