足りないピース
研究室に着き、室内を見回して何か足りないものがあると菫は思った。華絵はパソコンに向き合いながら挨拶してくれる。持永は今日も忙しいのだろう、不在だ。
「村崎がいないな」
先にそのことを指摘したのは興吾だった。
「ああ……、またどこかに飛ばされてるのかもしれないな」
そうか、駿がいなかったのかと腑に落ちて、しかしその不在が今日は妙に胸をざわつかせて菫は落ち着かなかった。
〝暁斎おじ様が好きだ〟
〝うん。知ってる〟
あの声に救われたと思った。それ程、菫は切実な思いだった。思い返せば羞恥と共に、駿への感謝の念が湧いてくる。面と向かって礼を言うのは照れ臭い。さりげなく、感謝を伝えられればと、そう思っていた。
なのにその当人がいない。
(明日には会えるだろう)
だがその〝明日〟は、三日経っても、一週間経っても、来なかった。
駿の不在は十日を越した。
「教授。村崎は一体どこにいるんですか」
研究室ではなく、大学から持永に宛がわれた部屋に、持永が講義を終えて戻ったところを逃さず、菫は詰め寄った。
「長老たちからとくに聴いてはないがのう」
のんびりと言う持永の周囲は本棚に囲まれている。教授ともなると大学に置く蔵書数も相当なものになるのだ。今に本の重さで床がみしりと鳴り、抜け落ちそうな錯覚に囚われる。
「任務が長引いておるだけじゃろう」
ず、ずーと茶を飲む。室内にはポットや茶器なども常備されていて、今、簡易式のテーブルに座る菫にもお茶が出されている。納得出来ない思いで菫もまた茶を口に含む。持永は茶を淹れるのが上手い。まろやかな緑の味が口中を巡り、咽喉を滑り落ちてゆく。ほ、と一息吐いたところで、持永が不思議そうに自分を見ているのに気付いた。
「学生のプライベートに首を突っ込むのも野暮じゃが、神楽君は村崎君と付き合っておったのかね」
「いいえ。そういう関係ではありません」
「それにしたって必死じゃのう」
「それは、」
「ほい」
目前に差し出されたのは雅やかな和三盆だった。二十センチ四方程の箱に綺麗に納まっている。
「学生からの京都土産じゃ」
「京都……」
「そう言えば京都は霊能特務課の拠点じゃったな」
持永は菫に勧めながら自らも流水を象った和三盆を摘まむと、ひょいと口に入れる。
霊能特務課。
暁斎ならば何か知っているだろうか。
「失礼しました」
「ん」
菫が退室したあと、和三盆を摘まみ続ける持永の、目だけは冷淡だった。だが手も口も止まる気配がない。血糖値という単語を都合よく忘却の彼方に置き、和菓子を貪り喰う彼の背後に広がる空は今日も青く、蝉の鳴き声がこだまする。古い建物だが空調は辛うじて作動しており、冷房が心地好くお茶の熱さと相和す。
「こりゃ」
「うあう!?」
いつまでも食べ止めようとしない持永のふくよかな頬を、思い切り突く物があった。
檜扇の先端である。
紫陽花の造花があしらわれ、何色もの糸が垂れた檜扇の先端が持永の頬を容赦なくぐりぐりと抉る。檜扇の反対の先は持永の机に置かれた電話の受話器からにゅうと突き出ている。
「何が〝うあう〟じゃ。可愛い子ぶりっ子しおってからに」
檜扇の先端を持永の頬に埋める手を休めることなく、声は言う。
「課長……、頬が、痛い痛い痛いっ」
「あのぶんでは早晩、暁斎あたりに相談するじゃろう、何と言うたかの、あの娘、バ、バ、バ、」
「バナナ」
「阿呆!」
檜扇が持永の頭を殴る。受話器からは檜扇を持った白く小さな手と着物の袖がずるうりと出てきている。奇怪な光景だ。
「どこの物書きじゃ! バイオレットであろうが、たわけ!」
「解っておいでなら訊かないでくださいよう」
「ど忘れじゃ」
「暁斎君は課長補佐でしょう。何か言ってきても問題ないのでは?」
「あの男は扱い辛い。わらわのか弱き細腕が荒くれ男に敵うとでも?」
よよよ、と泣き真似をする相手に、敵うよ絶対!!と断言すると、また檜扇で殴られること必定なので、持永は賢明に沈黙を保った。
その内心を見通しているかのように、声の主は泣き真似を止めると、今度はふん、と忌々しそうに鼻を鳴らした。
「長老共の石頭は相変わらずかえ」
「長老直下の儂からは何とも」
「あのバナナ……」
「バイオレットです」
「解っておる。ぼけてみただけじゃ。あの娘……」
哀れよのう、と、声は続けた。
その時ばかりはそれまで童女だったような声が、妙齢の、いや、それ以上に年経たような透徹とした女性の声音となり、持永の部屋に染み入るように響き渡った。
なぜ思いつかなかったんだろう、と菫は研究室までの道を急ぎながら思った。研究室までの道と言っても、持永の部屋と研究室は同じ階の端と端にあるので、直行するだけだ。
途中、学部生らしき生徒数人とすれ違ったが気にも留めない。
研究室まであと数メートル、というところだった。
「バイオレット」
聞き覚えのある声に、反射的に振り返る。
漆黒の髪の美丈夫。艶めいた唇。
「静馬さん……」
微かな違和感は、自分を呼んだ声に、以前の彼にはなかった焦燥感のようなものからだ。常に余裕を持って微笑するような青年の顔には今、笑みがない。固く引き締まっている。さながら非常時を物語るように。
「パープルは長老の檻の中だ」
「パープル……。村崎のことですか。長老の檻って……どうして」
その〝どうして〟は幾多のことに向けられていた。どうして静馬が駿の居場所を知るのか。駿が長老たちに囚われていると言うのが本当ならどうしてなのか。静馬が自分にそれを打ち明ける理由は。
「隠師に相応しからぬ霊刀の所持者として危険視されている」
「村崎は島根ですか」
霊能特務課の本拠地が京都なら、長老たちの本拠地は島根県出雲市だ。
静馬は頷く。
「君にしか頼めない。安野暁斎を動かしてくれ」
「静馬さん。貴方は隠師ですか」
「違う。僕は、隠師の能力を持った御師だ。御師サイドの人間も、菫さん、君や駿のような規定外の隠師の動向を注視しているんだよ」
「兄さんと友人だったのは、私を監視する為ですか」
「それは違う。翔と知り合ったのは本当に偶然だった。最初は互いに、隠師とも御師とも知らなかったんだ」
「貴方は村崎の……」
「兄代わりだった。…………遠い昔の話だけどね」
この日、初めて見た静馬の微笑は憂いがちで、どこか寂しそうだった。静馬は菫の返事を聴かず、その場を去った。引き留めることの出来ない背中を菫に見せながら。
「菫。どうだった?」
研究室に戻ると、華絵が駆け寄ってきた。興吾も、菫の机に腰掛けてこちらを見ている。――――強い紫の瞳で。
〝安野暁斎を動かしてくれ〟
「教授にははぐらかされましたが、村崎は長老たちに囚われの身となっているようです」
「てことは、島根に……?」
「はい」
「どうしてそんなことになってるのよ!」
「村崎の霊刀が危険視されたことが理由のようです」
華絵が視線を床に落とし、人差し指の背を唇に当てる。
興吾は菫を凝視して動かない。
駿の霊刀に関しては、皆に思うところがあったのだ。しかし、幽閉の身となれば話は別だ。
華絵の決断は早かった。
「御倉の家から長老に抗議するわ」
神楽家と並ぶ由緒正しい隠師の家柄であり、尚且つ多大な財力を有する御倉家の声は、長老と言えども軽んじることが出来ない。霞を食べて生きている訳ではないのだ。長老という建前を保持するにも財源は必須だ。
「お願いします。私は、暁斎おじ様と父さんに掛け合います」
「菫。俺も行く」
興吾の声に菫は逡巡したが、頷く。興吾の双眸には、興吾なりに駿を案じる色が浮かんでいた。
「あいつの本当の実力を拝ませてもらわないとな」
「駆け引きや圧力でも無理なら、実力行使するしかないわね」
剣呑だが頼もしいことを言ってのける華絵たちに、菫は頷いた。改めて、研究室を見渡す。
ここに足りないピースがあると感じる。
感じるからには、動くしかないのだ。