マリーゴールド
暁斎は盃を傾け、傾け、しながらゆっくり話す。
まるで興吾に噛んで含めるように。いや、その対象には菫も入っている。
「二人連れでしてん。細身の、長めの髪の若い男性と、筋肉質の同じくらいの年の男性」
「その二人が、汚濁を生み出しているのですか?」
「せや。港のあたりで仕合いましてなあ」
「いつですか」
「一昨日の日曜です」
菫の部屋は駿の部屋と違い、しっかり冷房が効く。しかし今、菫の腕が鳥肌立っているのはその為ではない。
〝友達? 誰かに追われてたのか〟
〝凄く強い人だった。僕は鉄と……、そう、友達と、二手に別れてここまで逃げてきた。でも、鉄も毒を受けたんだ。誰かが助けないと〟
ゴーヤチャンプルーを突きながら暁斎は続ける。
「菫はん、だいぶ霊力が減ってますねえ。誰かに分け与えたり、しましたか?」
「違う!」
「菫」
「遙君はそんなことしない……」
「そう、中ヶ谷遙。そして四王寺虎鉄。お友達ですか」
「四王寺とかは知りません。遙君は、小学校の、同級生です」
ふー、と暁斎が大きな溜息を吐くも、箸は置かない。食事中に箸を置くのは行儀の悪いことだと、そう言えば父さんが言ってたななどと、興吾は関係ないことを思い出す。
「さいですか。お友達ですか……。そないなことなら、無理もありませんねえ……。……興吾君は僕と中ヶ谷遙が仕合うたこと、気付いてはりましたね」
「ああ」
「何も僕に言うてくれはらへんかった……」
「菫のダチだって聴いたからな。けど、汚濁を生み出すとまでは知らなかった」
「ふんふん」
暁斎は業務連絡を聴くように軽く相槌を打ちながら、ささみの胡麻酢和えに箸を伸ばした。実際、これは取調べの一環だった。霊能特務課課長補佐による、神楽菫、神楽興吾の。
菫はなぜ、遙が内実を自分に話してくれなかったのかとショックだった。だが、話せば話したで、菫が懊悩するだろうと簡単に予測がついたから、話さなかったのだろうとも察せられた。現に今、自分は衝撃を受け、板挟みに苦しんでいる。
気つけの意味合いも兼ねて、泡盛を口に含む。咽喉が心地好く焼けるような感覚。意識が明瞭とも不明瞭ともつかず、感情的になる。
暁斎が好きだ。
振り返れば初恋からずっと、想う相手は変わらなかった。暁斎が自分を、〝親戚の可愛いお嬢さん〟以上に見ていないと知っていたから、菫も無邪気に慕うだけの振りを通してきた。強者への憧れもあったのかもしれない。興吾と髪と目の色が同じであるせいもあったのかもしれない。だが、理由など、所詮、後づけに過ぎない。ウィスキーボンボンで暁斎が何か図ったのだと知ったあとも、気持ちは変わらなかった。
暁斎と相対する立場に立つかもしれないとは、それでも考えなかった。敵う筈もない。だが、遙の命が懸かっているとなれば話は別だ。暁斎であっても、それは譲れない。
(恋い慕う貴方に、私が剣を向けるだなんて)
泡盛の、盃の水面が揺れる。手が震えているのだ。
けれどもしそうなれば、畢竟、結果は目に見えている。
銀月では銀滴主に勝てない。暁斎の霊刀と菫の霊刀は霊力の質が似ている。似ているゆえに、その優劣を比較した時、それは明白となる。これが性質の異なる霊刀であれば、能力値が劣っていても万に一つの勝機はある。しかし、銀月と銀滴主では近過ぎる。そして銀滴主は強過ぎる。
霊能特務課課長補佐・安野暁斎。
今、目の前で泡盛を呑んでいるのは、その肩書きに相応の実力を持つ人物なのだ。
そして菫の恋慕など、その見えない目でとっくにお見通しなのだろう。知りながら、知らない振りをする。君は可愛いお嬢さんだよ、と態度で示してあしらう。届かない想いが、菫には切なく辛かった。
スマートフォンが鳴る。
興吾たちから離れて、菫は通話ボタンに触れる。
『菫?』
「村崎……」
『――――泣きそうな声。どしたの』
「私は」
『うん』
「暁斎おじ様が好きだ」
唐突だ。
なぜ駿に、今、言うのか。甘えている、と菫は自身を情けなく思った。
『うん。知ってる』
ふわり、と菫の甘えごと包み込んで笑む、駿の顔が見えるような、そんな声だった。
『やっぱり暁斎さんが来てるんだね? そっちに行ったかあ』
「ああ」
『そっか』
それ以上を言わない。駿はそのあと適当に喋ると、通話を切った。
がりがりと頭を掻く。
菫の暁斎への恋慕など、とっくに知っている。どれだけの時間、見ていたと思うのだ。相手が暁斎なら仕方ないとすごすごと引き下がるような性分でもない。菫には悪いが、暁斎が菫を相手にしない態度を貫いているので、駿はほっとしたのだ。
背後を振り返る。既に日は落ち、電気を点けない室内は薄暗く心許ない。
「ばれたみたいだぜ、中ヶ谷遙君」
駿の視線の先に立つ、眉目秀麗な青年は、憂いがちに目を伏せた。
隣には虎鉄が腕組みして立っている。
駿に異能を披露したあと、虎鉄は現実世界に戻った。駿の意識ごと。置き去りにすれば駿は遠からず廃人となる。一瞬、考えないでもなかったが、駿には恩義があった。律儀な虎鉄はそれを考慮して、駿の意識を元に戻したのだ。そして、遙に連絡し、この場所を伝えた。駿の部屋は図らずも彼らの集合場所となったのだ。いい迷惑、と言えないこともなかった。
「夕飯までは奢らねえぞ。もう二人共、霊力は間に合ってんだろ」
し、し、と駿は手で二人を追い払う仕草をする。そうするだけの権利は実際、あった。
「俺たちが今、お前を襲うとは思わねえのか?」
「思わないし、思われても別に困らないし~」
「安野暁斎に比肩する力があると?」
「さあね。少なくとも今、ここには誰の目もない。菫に見られることもない。なら、病み上がりのあんたらが二人掛かりで来たって大した脅威じゃないのさ」
「――――ほう」
細く、光を凝縮したような駿の双眸に宿る戦意は、その台詞がただの虚仮脅しではないと物語っている。遙が静かに割って入った。
「君もバイオレットのことが好きなんだね」
「ふーん、あんたもか。でも菫の本命は別だぜ」
「ちょっと待って」
目を見開いた遙が、スマートフォンに何やら打ち込み始めた。
「――――何やってんだ?」
「今の君の衝撃発言に震えた僕の心のポエムをメモしている」
「…………」
「悲しみの。悲しみの波涛が、僕の胸に押し寄せ、違う、こんなありきたりな言葉じゃ駄目だ! 駄目だ!」
「…………」
白々とした空気を取り成すように虎鉄が咳払いする。
「言ってみただけだ。命の恩人に仇なすようなことはしないさ」
「ああそう、じゃあバイバイ」
言外に早く出て行けと言った駿に従い、まだスマホにポエムを書き込み中の遙と、その首根っ子を掴んだ虎鉄が、部屋から退室した。
改めて、駿は部屋の電気を点ける。明るくなった室内には、虎鉄と突いた豚肉の浸けダレ焼きの夢の跡の皿と、ビール缶が転がっている。今度の燃えないゴミの日っていつだったっけと主婦のようなことを考えながら、駿は先程の菫の告白を思い出していた。
〝暁斎おじ様が好きだ〟
予測出来ていたことと、本人に明言されるのとではやはり重みが違う。
「…………」
駿は冷蔵庫を開け、缶ビールをもう一缶開ける。
ぐるる~とお腹の音。健康な若者の肉体は、昼過ぎに食べた豚肉だけじゃ足りねえぞと訴えてくる。感傷にも浸り切れない若さだ。
そしておあつらえ向きに汚濁の異臭を感じた駿は、狩人めいた笑みを浮かべる。
今、目撃者は誰もない。せいぜいが、静馬が近辺にいるくらい。
(黒白を使える)
「それからコンビニ行ってお買い物しようっと」
鼻歌を歌いながら鍵をくるくると指先で回す。
吹き荒れ荘の階段を足音高く降りながら、光り始めた一番星に目を向ける。
――――汚濁への弔い星だ。
濃くなる汚濁の臭気と気配は、もしや吹き荒れ荘の住人がその元となったのか。
「天の横溢、魔の哄笑、日陰の冷涼、縛された鮮血、黒白」
吹き荒れ荘の誰かが育てているのであろうマリーゴールドを一輪、失敬して呪言を唱える。
黒と白の二色のみで構成された霊刀が顕現する。潔い程の色彩構成。
それに反して汚濁は濃い灰色で、赤い点滅が身体全体を覆っていた。
(醜悪極まれり)
黒白が唸り、汚濁を捉える。
そのまま、斬るのではなく、汚濁を貪り喰う。ばりばり、ごくり、と。
余すところなくその染み出た汁まで。吸い尽くしてしまう。
貪欲にして悪食。
(これもまた醜悪)
美しく高潔たるを旨とする霊刀にしては有り得ない浅ましさだった。しかも黒白が喰らうのは汚濁に限らない。
だからこそ静馬の祖父たちは駿の処分まで検討したのだ。
無に帰した黒白の名残りの、枯れたマリーゴールドの花を見ている時だった。
「そこまでじゃ、村崎君」
「……教授?」
いつもにこやかなサンタクロースのような風貌の持永が、厳然とした面持ちで駿に対している。黒白の間合いを測り、その外に立っていると判る。警戒しているのだ。
「君の霊刀・黒白の異常性、しかとこの目で確認した。長老直下の隠師として、君を更迭する」
持永の気配に気付かなかった。
知られれば破滅と解っていながら。気を抜けば一貫の終わりだと知っていながら。
駿はぼんやりとマリーゴールドの黄色を眺めた。
明るい世界の象徴のような。
もう戻れない、と思った。