悪い夢
大学院からの帰路、菫と興吾はスーパーに寄って買い物を済ませ、アパートまでのんびり歩いていた。まだ空は綺麗なサーモンピンクで、日没までに掛かる時を示している。売却地、と大きく赤文字で書かれた看板が立つ、豚草が群生する空き地を横目に見る。
「豚草って結構世話になるんだよな」
「花粉症でか」
「じゃなくて、霊刀のほう」
豚草は花粉症の原因植物とされる嫌われ者だ。だが菫も興吾も花粉症ではない。菫は興吾の問いを否定して正す。豚草から霊刀を生み出しておきながら花粉症では、くしゃみ、鼻水、涙目と共に戦うことになり、様にならないことこの上ない。戦闘にも支障が出る。
隠師の戦闘には植物が必須だが、必ずしも戦闘時、身近に手頃な植物があるとは限らない。雑草の世話になることしばしばなのだ。その意味で、花粉症の根源、憎しと嫌われる豚草も、菫たちには有り難い存在だった。
「雑草が生い茂る、土地の余剰がある内はまだ良い。全てがコンクリートで塗り固められてみろ。隠師、万事休すだぞ。多分、人間的にもな」
「まあな」
「隠師は普通の人より自然界に近い生き物なのかもしれないな」
「一理ある」
菫の話を笑わずに頷いてみせる興吾は、自由研究の作文は相変わらずの速筆で今日中に仕上げていた。「人の負の感情が生み出す事象例について」というテーマのもと、汚濁を匂わせる文章は全くなく、企業現場や学校などの集合体を参考として、現代人の抱えるストレスの生み出す悪循環などに触れ、果ては長時間労働の問題点にまで言及していて、もう小学生の作文とにこやかに笑えない。読む先生はどんな心境なのだろうと菫は半ば申し訳ないような思いで、半ば誇らしい思いでいた。
家に辿り着き、興吾が入浴したあと、菫が入浴する。その間に興吾は夕食を作る。今日は彼が食事当番なのだ。豆腐と豚肉、ゴーヤのチャンプルーに取り掛かっていると、菫が良い匂いだと言いながら風呂から上がる。ドライヤーを使う音を耳にしながら、興吾は黙々と調理を続けた。集中力が大事だと考えている。
チャイムの音に反応出来る筈もなく。
「菫ー」
「はーい」
ここで興吾は姉の服装を一瞥する。白いタンクトップに紺のキュロット。許容範囲だろうと思い、看過する。
来客は思わぬ人物だった。
いや、興吾は予期していたかもしれない。
「暁斎おじ様!?」
「ああ、ここで当たってましたか。良かった。203聞きましたよって、端からドアの数を数えましてん」
興吾の集中が包丁、まな板から暁斎に向かう。
自分と同じ白髪、薄紫の瞳、黒い単衣。
包丁を持つ手が、なぜか竦むのが判る。暁斎を前に、刃を持つことを本能が忌避している。確たる根拠もなく、興吾には暁斎が、まるで死神のような気がした。
「おばんです」
そう言って確かに暁斎は、見えない目を興吾に向けた。
一切がパステルカラーで塗られたような色調だった。青空も、風船も、はるか眼下に見える知らない町並みも。こりゃすげえや、と感心して見惚れる駿に、巨大なテディベアがぶつかりそうになり、危うく避ける。青に銀色の水玉の、太いリボンを首にしたテディベアは、そのまま落下し続ける。……通行人に直撃したらなどと考える。通行人などという生き物がいるとして。
隣をゆくユリカモメは妙に駿に懐っこい。雌かなあと思いながら駿は飛翔し続ける。
「どうだ、良い気分だろう」
突然、上空に現れた虎鉄が、黒、赤、金、極彩色の着物を、まるでバサラ者のように着ているのも、この空間であれば不思議でないように思えた。ユリカモメがウィンクするのだ。
虎鉄は楽しそうに真紅の薔薇の花びらを毟っては放る、を繰り返している。
哄笑しながら。声が上から降ってくる。花びらと共に。
とても楽しそうなので、駿まで面白く、愉快な気持ちになってしまう。
真紅の花びらを戯れに食んでみる。
予想外に甘く溶けた。だがこの空間であれば何でもありな気はする。
「あんたも隠師として亜種なのか?」
「そうとも言えるし、違うとも言える。この空間は俺の意識が作った異空間。お前はそれに今現在、意識を取り込まれているのさ」
「やばい?」
「いや? 面白可笑しいだけだ」
「ふーん。トリップかあ。何でも自在に出来んの? 飴を降らせるとかさあ」
瞬間、どさどさどさっと金やら銀やら思いつく限りの多様な色の包み紙に包まれたキャンディーの山が駿の真上から降ってきて、てんでに身体の各所に小さな打撃を与えると、そのまま駿をからかうように彼の周囲をふわふわ浮遊し、旋回する。
「……よーく解ったよ」
「楽しいだろう?」
ここで享楽的な虎鉄の声調が少し変わる。
「汚濁を助長し、広めるってのはこんな感じさ」
「愉快犯かよ」
「違うな。浄化だ」
「インチキ宗教みたいだな」
「否定はしない」
「ビールに酔うほうが楽しいなあ」
虎鉄の眉がぴくと動く。そのまま、凄い勢いで下降し、駿と目線を合わせる。
「俺の幻想空間が、アルコールに劣ると?」
真顔で尋ねる。
「だってさあ、ここ、何か寂しいじゃん。愉快だけど、寂しいじゃん。あんたはそう思わないの? 喜怒哀楽みてーな、生きてる感じがしない。まるで補陀落渡海だよ」
ごうっと、真紅の薔薇の花びらと、菫の紫が入り混じる。
豪華絢爛な嘘っぱちだ。駿はそう思う。
「俺のバイオレットは、そんなんじゃねえよ」
「バイオレットを崇めよ!!」
白髪の、司祭服の男が光背負い、大声で叫んでいる。その声は教会に集う聴衆らに遍く響き渡り、その心の内奥にまで届かんとした。
「虚栄の世を浄化せよ、混沌で押し流せ、然る後に清浄の世界到来せり!」
ステンドグラスにはキリスト像。しかし彼らが信仰する対象ではない。
ただ一人の女性にその狂信は向けられる。
司祭は、再度、声を張り上げる。
「バイオレットを、彼の聖女を崇め讃えよ!! 浄化の為に顕現したメシアを!」
聴衆が未だ熱狂覚めやらぬ中、黒服の男が司祭を呼ぶ。
「司祭様。警視正からお電話が」
「待たせておきなさい」
「は、しかし……」
「解らんのかね」
底光りする瞳で司祭は男に告げる。
「私は今、迷える子羊たちを導いているのだよ。それこそが急務。全ては」
全てはバイオレットの為に。
余分な食材があって良かった。興吾は暁斎の為に夕飯のおかずを作り足した。
リビングのテーブルには、ゴーヤチャンプルー、絹厚揚げの生姜乗せ、鰹のたたき、ツナマヨ入り卵焼き、ささみの胡麻酢和え、ホワイトシチューの鍋が所狭しと並んでいる。ちょっと作り過ぎたかもしれない、と興吾は反省した。京史郎はああ見えてよく食べる。健啖家である。暁斎相手にそこを基準にしてしまって良かったかと思う。後の祭りである。だが暁斎は、興吾が言い上げた献立と、香りを嗅いで、相好を崩した。薄紫の瞳が嬉しそうに湾曲を描く。
「ああ、これは、泡盛を持ってきて正解でしたねえ」
そう、のたまう始末。彼が持参したエコバッグから、泡盛の古酒が出てくる。菫の瞳が輝く。呑兵衛共……、と興吾が顔をしかめた。ゴーヤチャンプルーに泡盛。合い過ぎだろう。ホワイトシチューとのコンビネーションは謎として。
自分に回されたオレンジジュースと、泡盛で乾杯し合う姉たちを見ながら、どことなく疎外感を感じて、興吾は拗ねた気分になった。料理を作ったのは自分なのに。
菫取って置きの切子硝子の盃に口をつけながら、暁斎がのんびりと言う。
「実は汚濁を生み出す隠師崩れの行方を追ってましてん」
ゴク、と興吾がオレンジジュースを一口飲む。大きく、がぶりと。
「興吾はん、知りませんか?」