ビールとショータイム
吹き荒れ荘まで帰り着き、ドアを開けると、八畳一間の部屋には誰の姿もなかった。
「……あれ?」
瞬時、ドア裏から襲ってきた果物ナイフを首に当てられるが、当てられた先から、襲撃者の咽喉をお返しとばかりに拳で突いていた。咄嗟のことで手加減出来なかった。しまった、と思う。自業自得だが相手は苦しそうに咽喉を押さえて蹲っている。筋肉質な身体が蹲ると、こんもりとした小山が出来たような眺めになる。
「病み上がりに無理しちゃ駄目じゃん~」
駿は虎鉄の行動は気に掛けず、とっととドアを閉め、鍵を掛けると買ってきた豚肉のタレ浸け込みの入ったパックを流しに置いた。煎餅布団はきちんと敷かれたままだ。虎鉄の存外な折り目正しさが窺える。――――命の恩人を殺しかけたが。霊刀を使わないあたり、まだまだ本調子ではないのだ。隠師は基本、武術にも秀でている。徒手空拳とてそう易々とやられはしない。虎鉄もそれは解っている筈だが、苦肉の策と言ったところだったのだろう。実際、静馬などの言動を鑑みれば、虎鉄が目撃者の口を封じようとしても無理ない状況ではあるのだ。
まだげほげほ言っている虎鉄に声を掛ける。げほげほ言う度に首のチェーンがじゃらじゃら一緒に鳴っている。
「ほら、気が済んだらさっさと寝て。今から良いもん、喰わしてやっから」
「……酔狂だな」
「自覚あるよ」
虎鉄はゆっくり立ち上がると、果物ナイフを食器戸棚の抽斗に仕舞い、駿の手元を覗き込んだ。女性にされるなら嬉しい仕草だが、筋肉質の図体がでかい男にされても駿は嬉しくない。
「肉か」
言った声は嬉しそうに弾んでいた。殺さなくて良かったぜ、などという余計な言葉がそれに続いたものだから、駿は豚肉を焼くフライパンを出す手を止めかけた。
この、霊力を寄越せと言って一方的に駿から搾取した癖に、事の経緯を一切喋らない虎鉄という男に、多少、苛立ってもいた。恐らく暁斎と闘り合ったのだろうと目算はつく。虎鉄の受けた毒からは暁斎の、銀滴主の気配がした。指紋の照合が出来たようなもので、暁斎が幾らはぐらかそうと、事実は明白だった。ただ。
〝村崎はんもですか〟
暁斎は確かにそう言った。つまり、駿の他に、暁斎にそれを問い質した人間がいることになる。誰が、何の目的で?
ジュー、ジュー、と豚肉を焼くと香辛料の香りと相まって何とも言えない食欲をそそる匂いが狭い部屋に満ちる。換気扇を回しているが、キムチを使っていることもあり、この匂いは当分、残りそうだなと駿は思う。
「なあ。何で汚濁を増やすの」
ジュー、ジュー。
沈黙。肉の焼ける匂い。焼き過ぎると焦げる。駿は火を止める。
火を止める。
災いを止める。
その為の隠師だ。だが虎鉄は汚濁を増やす側の人間だ。駿たちとは対岸に立つ者。
「何で解った」
「自分で気づいてないの、あんた。染み付いてんよ、汚濁の臭い。滅したらつかないもんね」
「……えらく鼻が利く隠師がいると聴いた。お前のことか」
「人を犬みたいに言わないで欲しいね。ビール飲む? 病み上がりだし止めとく? そんで、質問の答えは? あ、全部のね」
「浄化作用だ。飲む。止めない。全部の質問の答えだ」
「おっけ。教授へのお中元、くすねといて良かったぜ。くっくっく、プレミアム……」
悪い笑いを洩らしながら駿が冷蔵庫を開ける。焼いた豚肉は大皿に移してある。
八畳に敷かれた布団の横に、ちゃぶ台を置き、豚肉の皿、ビール缶を載せる。
プシュッとビール缶のプルトップを開け、ごくごくごく、と一気に呑み、「ぷっはーーーーーーーーーーー」と駿はお定まりの感嘆詞を言った。それ以外に言葉が出ない時が人にはある。虎鉄も飲んでいる。こちらは静かなものだ。
「で、浄化作用って何。漠然としてて解らん」
「汚濁は人の負の念の塊だ。それを全て、解放することで、人から膿を出し切る」
「迷惑蒙る人がいるんですけど? 主に俺たち隠師とか、あ、こっちサイドのね」
そう苦情を申し立ててまたぐびぐび。虎鉄は豚肉を食べ始めた。旺盛な食欲である。昨晩からレトルト粥しか口にしていないのだから、無理もないのかもしれない。
「お前たちの苦労は知らん。好きにすると良い。生み出す者、滅する者、それぞれが存在するのもパワーバランスと言うものだろう」
「しゃらくさい理屈こねるなよな。何がパワーバランスだ。汚濁は放っといても自然発生するんだ。それを助長されちゃこっちは身体が幾つあっても足りねえんだよ」
駿の声が真剣味を帯びる。まだ病人のような状態であると知るからこそ、殺気だけに留めているものの。
「万全な状態で、次に俺の前に姿を見せてみろ。殺してやるから」
虎鉄は嗤う。嘲笑だった。
「あの、半端な霊刀しか使えないお前が俺の赤秀峰と闘り合うと?」
「――――あんた」
「ああ、瀕死の状態でも判ったさ。お前の霊刀は紛い物だ。どうして真の霊刀を顕現させない?出来ない理由があるからだ。即ち俺が考えるに――――」
「なあ。豚肉のお代わりはどうだ?ついでやろうか?」
駿は笑顔でそう尋ねた。草原にそよぐ風のような優しい声音で。虎鉄を労わるように、手を差し出した。だが次の瞬間、虎鉄は八畳間の端の端へと飛びずさった。
部屋には辛うじて冷房が効いている。
しかし虎鉄の額に流れるのは冷や汗。
尋常でない殺気を感じたからだ。
「お前……、やっぱりただの隠師じゃないな」
駿は虎鉄の感じた戦慄など感知しないようにビールを呑む。
へらり、と笑う。虎鉄はもう騙されない。猫の振りをした虎には。駿こそ、自分よりも余程、虎の名を冠するに相応しい。
するとそのまま駿はぐびぐびぐびとビールを一缶飲み切ってしまった。
そしておもむろに額に右手を当て、虎鉄を左手人差し指で指差す。
「そう、その反応っ!」
「あ?」
「俺が求めてるのは、そういう、『お前、ただもんじゃないな』的な反応なの! でも研究室の誰も、俺を軽さの代名詞扱いするんだ! せめて菫には、『やるな村崎、愛してる』、くらい言われたいっ、言われたいっ」
色褪せた畳の上を転がり始めた。ある意味、虎になったと言える。
「菫……。バイオレットか、惚れてるのか。しかしいきなり愛してる、はないんじゃないか」
虎鉄が常識的な見解を述べる。がばり、と起き直る駿。目は、据わっている。
「愛にいきなりも稲荷寿司もねえよ。共有時間ならとっくに許容オーバー。 こっちは小学生から知ってんだぜ? なのに未だに駿とさえ呼んでもらえない」
壁に向かっていじけて見せる。ああこいつ、酔うと面倒臭いのかと虎鉄が察した時にはもう遅い。
「バイオレット。あああああ、愛しのバイオレット」
「…………」
午後の日も傾こうとしている。虎鉄は高校までしか出ていない。大学や、その先の大学院となると想像すら難しい。だが、大学院生というものは、少なくとも駿を基準として考える限り、昼間から飲酒し、好きな女に対する愚痴なぞを並べ立てて良い大層なご身分らしい。この虎鉄の見解を、世の真面目な大学院生が知ったら憤りの声を上げること必至である。それにしても、先程の駿の殺気。背筋が凍りついた。遙に対してさえ、あんな殺気を感じたことはない。親しいかどうかの違いに依らず。駿は軽く見られることを嘆いて見せるが、それはただの虎鉄に対するポーズだ。誰より、軽く見られたいと望んでいるのは駿自身だ。でなければ爪を出せば良いのだ。牙を露わにすれば良いのだ。野獣じみた能力を持ちながら、心は誰より人であるゆえに、それが出来ないでいる。
ふと、虎鉄は駿を哀れと感じた。菫への恋情も含めて。
駿が虎なら菫は獅子だ。可憐な容貌の裏に秘めた恐るべきもの。
そう言えば遙もバイオレットに惚れていたかと今更のように思い出す。魅力がないとは言わないが、あんな抜き身の刃のような女、自分ならおっかなくて近寄らないと虎鉄は思う。
バイオレットを崇めよ。
あの人はそう言った。邪教だと、自分は思う。
バイオレットを崇めよ。彼の聖女を讃えよ。
駿の背中に声を掛ける。
「なあ、お前。そっちが息苦しくなったら、いつでもこっちに来いよ。汚濁を解き放つ瞬間の爽快感ったらないぜ。そう、丁度こんな風にな」
パチン、と虎鉄が指を鳴らす。
駿は、慣れ親しんだ吹き荒れ荘のあばら家から、一転して雲の上にいた。
どこまでも広がる雲、雲、雲。
色とりどりの風船が、その間を飛んでいる。
駿も飛んでいた。横を飛ぶユリカモメが、駿にウィンクする。