末期の虫
「それじゃあ皆さん、また明日」
「もう帰るのか、村崎」
意外そうな声を菫が掛ける。駿の住む吹き荒れ荘が、快適な住まいではなく、冷房の効きも弱い為、極力、研究室にいたがるのが常の駿が、午後過ぎたあたりでもう帰宅しようとすることに少し驚いている。吹き荒れ荘に行ったことのある菫ならではの驚きだった。華絵も行ったことがあるが、いつもは賑やかな彼女が、その時は終始無言で、帰り際、駿の両手をしっかと握り、強く生きるのよ、要る物があればいつでも言いなさいね、と力んで言ったことは鮮明な記憶だ。財閥令嬢には感じるところ多かったと見える。
「うん。昨日、拾った仔猫ちゃんの様子が気になってね。菫、妬く? 寂しい?」
「妬かないし寂しさは欠片もないが無暗に弱った女性に手を出すなよ軽蔑する」
「俺の信用度がようく解ったよ……」
悄然と肩を落とし、研究室を出て行く駿の背を見ながら、菫は朝方の会話を思い出していた。
研究室に来て早々、暁斎の連絡先を菫に尋ねた駿は、部屋の隅で電話を掛け、何やら低い声で話をしていた。菫たちに聴き取れないようにしようという意図が明白だったので、周囲も遠慮して近づかないようにした。ただ、興吾だけが、自由研究を書く手を止め、大きな紫色の目で、そんな駿を見ていた。
通話を終えた駿に、菫がそれとなく訊いてみる。
〝暁斎おじ様に、何の用事だったんだ?〟
〝ん? 暁斎さんの霊刀についてちょっと〟
〝銀滴主?〟
〝そう、それ〟
〝それが?〟
〝別に。性質を知りたかっただけだよ〟
はぐらかされた気がした。尤も、霊刀の性質とは戦闘能力と不可分の事柄であり、例え駿に尋ねられたところで、気安く暁斎が答えるとは菫には思えなかった。
「迷子の仔猫ちゃんと暁斎さんが、どう関係するのかしらね」
菫の回想を読んだかのように、華絵が言う。彼女もまた、駿の態度に違和感を感じているのだ。緑がかった双眸が探るように光る。暁斎に、事の詳細を訊いてみる、という手もあるが、暁斎は守秘義務と称して喋るまい。結局、何かすっきりとしないまま、菫と華絵は駿に関する思案を打ち切った。黙って会話に加わらなかった、紫の目の少年こそが、彼女たちの疑問に最も近しいところにいるとは知らずに。
駿は基本的に、自炊をしない。レトルト、インスタント食品が無ければ餓死すると豪語して、菫たちを呆れさせたことがある。するとそれを真に受けた華絵が、翌日、段ボール箱に一杯のレトルト粥を使用人に研究室まで運ばせて、こんなことしか出来ないけれど、と申し訳なさそうにされたので、以来、食事に関する話題を華絵の前ですることは自粛している。なぜレトルト粥一択、という疑問と共に、大量のレトルト粥は、自室の押し入れの中にひっそりと仕舞い込まれている。
スーパーをぶらつきながら、肉の文字が躍る場所に足を向ける。
昨日拾った〝仔猫ちゃん〟はがたいが良い。傍目にすらりとして見える駿もこれで意外に筋肉のあるほうだが、あちらはもっとがっつり筋肉質だ。死にかけたあとだ、精のつくものを喰わせてやらねばなるまい、と、鶏肉、豚肉、調理済み、の文字に目を走らせる。牛肉は高いので論外だ。結局、豚肉をキムチやら何やら多彩な香辛料に浸け込んだ物を買い物籠に入れた。自分がそこまでの親切心を持ち合わせていることに、少々新鮮な驚きを感じながら。
四王寺虎鉄と名乗った男からは、安野暁斎の気配がした。銀滴の毒、と彼は口走った。
銀滴。銀滴主。暁斎の霊刀の名がそうだった筈だ。本人にも確認した。
虎鉄はそれ以上を語らなかったが、恐らく暁斎と一戦交えたのであろうとの予測はついた。同じ隠師同士で戦い合う理由は何か。
駿には一つしか答えを見出せなかった。
だからこそ思うのだ。これから殺すかもしれない相手に、わざわざ力を取り戻させようとする自分は、親切な上に酔狂だ、と。
〝銀滴主の能力? そら、教えられませんなあ。なんや、村崎はんもですか〟
暁斎は駿の問いをあっさり一蹴した。
〝さいですなあ。村崎はんの、ほんまもんの霊刀を顕現してくれはったら、教えんこともないですけど〟
到底、成立しない交換条件に、駿はそれ以上の追及を諦めた。暁斎はそれを見越して言ったのだろう。
スーパーから出るとうだるような暑さに辟易する。
じーわじーわと蝉が鳴くのも憎々しい。ドラッグストア、コンビニなどを通り過ぎ、アパートまで歩いていると、向かいから駈けてきた小学生にぶつかりそうになる。おっと、と言ってその腕を掴み、危うく衝突するところだった身体を横に向けさせてやる。早く来いよー、と先に行って声を掛ける子に、その子供は今行くー、と答え、駿にぺこりと頭を下げて駆け去っていった。日に焼けた首の後ろが健康と主張するようだ。昨今、家に籠り、ゲーム三昧の子供が多い中で、今見たような子たちは希少なのだろう。自分の過去を振り返ると、静馬との思い出が記憶に蘇り、駿は苦虫を噛み潰したような顔になる。
一軒の閉店してシャッターが下りた店の前に、涼やかに立つ黒髪の美丈夫の姿を見出した時には、ますます渋面になった。
なぜ今、このタイミングで静馬と会うのか。
果たして異端の御師は駿に向けて艶やかに笑い掛ける。
「そういう顔は、女にとっとけ」
「暑いね」
「汗の一つも浮かべてみせてから言えよ。神楽京史郎といい、静馬、お前といい、隠師の能力を持ってたら発汗作用までいかれちまうのか?」
駿の軽口はいつものことだが、今日はやや棘がある。静馬は柳眉を軽くひそめ、駿が手にしたスーパーのビニール袋を見た。袋の形状からして、何かパック物を買ったらしいと推測する。
「珍しいね。君が、まともな料理だなんて」
「まともじゃねえよ。すぐに焼いて喰えるやつだ。お前も見習えよ。喰える奴になんなよ」
「生憎、自虐的な趣味はないんでね。――――何かあったのか、パープル」
わざわざ駿をパープルと呼ぶことで、報告の義務を知らしめようとする。見えない鎖に縛られているような閉塞感が、駿を陰鬱な気分にさせた。
「何もないさ。久し振りに肉でも喰おうかって気分に、お前の顔を見て水を差された以外はな」
「心外だな」
ジ、ジ、と、蝉が鳴いて飛び立つ。
生きろ生きろ、末期の虫よ。
蝉は地中から出たその瞬間から既に末期なのだ。
蝉はだが人に救いを求めない。
人に救いを求めるのは人だ。
だから駿は静馬に嘘を吐く。平然として。この暑い中、丁々発止の遣り取りを続ける気も毛頭なかった。吹き荒れ荘の微弱な冷風が恋しい。
「差し入れだ」
静馬が差し出したのは、滋養強壮で名高い栄養ドリンクだった。ほんの一瞬、駿は息を詰める。虎鉄のことなどお見通しだと、そう言われたようで。静馬の感覚もまた、駿程ではないが、かなり鋭敏なものだった。嗅ぎつけられれば殺せの一言で無情な命令が下るだろう。
「今度はビール缶くらい持ってこいよ、プレミアムな奴な」
表向きはポーカーフェイスを装って、駿が栄養ドリンクを受け取り、静馬にさっさと行けと言わんばかりにし、し、と手を振る。何とかこのまま切り抜けられそうだ。
だが。
「大家さんに久し振りにご挨拶したよ。お客人が来ているようだね、パープル」
冷蔵庫に入れたビール缶より冷えた声。
「今、殺せない。それならば未来での始末を確約しろ」
「……何の話だかさっぱりだ」
「駿」
「弱った相手をなぶるのは主義に反する。口出しするなよ、静馬。お前相手に黒白を出す訳にも行かない」
黒白は駿の秘事であり、切り札だった。
静馬の微笑はどこか悲しそうだった。
「君は生きるのに器用そうで不器用だ。命取りになるよ」
「お前に心配してもらう道理がねえよ」
突き放す。一時は完全に心許し、兄とさえ慕った相手を。その慕情を全て殺してしまえと駿は自分に言い聞かせる。殺してしまえ。
(裏切り者)
気付けば駿は、両手を静馬の首に掛けていた。静馬は驚くこともなく、されるがままになっている。双眸に宿る哀しみが、色濃くなった。
この、手に。
力を籠め続ければ裏切られた過去は解消するだろうか。軋む胸の痛みは消えるだろうか。本物の明るい陽だまりに行けるだろうか。
〝静馬兄ちゃん〟
そんな筈がないことを、誰より駿自身が知っていた。静馬の首から手を離す。汗を掻かない首は、それでも血の通う温もりがあって、目の前の青年が確かに生きているのだと伝えた。
駿はスーパーのビニール袋を持ち直して、足早にその場を去った。
振り返り、静馬がどんな表情をしているかなど、見たくもなかった。