忘れないよ
人は死に瀕すると、何を思い浮かべるか。遙の場合はバイオレット、菫だった。霊力を分け与えられたいという願望以前に、彼女の顔が眼裏に浮かんだ。短い髪を風になびかせ、微笑んで。少し憂いがちだと思えたのは、兄の一件の為だろう。あの事件は菫の心に根深く棲みついて、彼女から真の笑顔を喰らっているように見えた。
この部屋に辿り着き、ドアが開かれた時、菫は鮮やかな光を背負っているように見えた。それが熱による錯覚ではなく、嵌め殺しの窓硝子と陽光の為せる業だったと知っても尚、光背負う菫は遙の心に焼きついた。それは汚濁とは正反対の清浄さで、遙は菫に助けを求めた自分を恥じ入らずにはいられなかった。立つ瀬が違う人。高潔の人に、見苦しくも浅ましい姿を晒した。
興吾との遣り取りを見て、姉弟の絆の深さ、仲の睦まじさに微笑ましくも羨ましい思いがした。ああ、この子なら彼女を守ってくれるだろう。そういう、安堵感もあったように思える。紫水晶のような深い色合いの強い目。長じて今よりはるかに強くなるだろう、そう確信出来る輝きがあった。神童という言葉が頭をよぎった。神の童。どうか彼女を守って欲しい。対岸に立つ、自分には出来ないから。
遙の意識は微睡み、揺蕩い、回り灯籠のように思いと光景は変遷した。
風を感じ、水に親しみ、光の恩恵に浴した。
ああ、懐かしく優しい。
緑がさやと鳴る。
遙の双眼から涙が溢れた。それはぽろぽろとこぼれ落ち、やがて真珠に変じたかと思うと消えた。
人の抱える重荷を、解き放てば、それは世の浄化に繋がらないか?
滅しても滅しても、汚濁は湧いて出る。人が在る限り、消えることはない。
それならばいっそ、肯定してやっても良いのではないか。
遙はそう考える。そしてその信念のもとに行動する。
右手に蒼穹天女、左手に火炎天女を持ち。
本来ならば同胞である隠師と対峙する。
(君になら殺されても良いよ)
バイオレット。優しい君に、耐え得ることが出来るなら。
初めから遙には菫の悲しさと優しさにつけ込んでいる自覚があった。
いずれが愚者かと問われれば、それは畢竟、自分なのだろう。
遙は青い林間に立っていた。
真っ直ぐな白樺が白い樹皮を晒し、屹立としていた。
その白樺の化身のような白鹿が、立派な角を携え遙を見ている。
紫水晶のような瞳で。
紫水晶に、遙は吸い込まれた。強い輝きに抗えず、一枚の薄布のようにその身体は吸収された。あたりは一面の紫。
濃い紫。
まるで菫の花畑のような。
(バイオレットの惨劇の端緒……)
当時、スキャンダラスに報道された事件は、子供の耳にも入ってきた。菫の花畑に若い命を散らした名家の子息。そんな風に。
突然、ごうと風が吹いて、いつの間にやら花畑に変じていた濃い紫の花弁が、華麗に舞い上がった。命を散らす。惜しげもなく。遙がそれに手を伸ばすと、紫の花弁は忽然と消え、あとには何もない真っ白な空間が残った。あの鹿は興吾の守護獣かもしれないと漠然と思う。神獣が守護獣。くく、と遙は笑う。成る程、神の童だと。
笑いに細めた目を開けると、そこは遙が通っていた小学校のグラウンドだった。
クラスの男子に馴染めず、空色のジャングルジムの天辺で、子供なりに詩らしきものを書いていた遙に、小石をぶつける者があった。下を見下ろせば如何にも悪童めいた笑いを顔一杯にした四王寺虎鉄。クラスでもガキ大将的存在で、どちらかと言えば遙の苦手なタイプだった。しかし虎鉄はただ乱暴なだけでなく、無為に遙を苛める子供を邪険にするなど、彼なりに一本芯の通ったところのある子供だった。
降りて来い、一緒に遊ぼう、そう言われるのを遙は恐れた。体術は両親に学んで会得している。けれど遙は身体を使っての遊戯より、夢想や思索に耽ることを好んだ。虎鉄が言ったのは、思いもかけない言葉だった。
〝俺も登るから、そこから動くなよ〟
ぽん、と背中を親しく叩かれた気がした。虎鉄は、自分の遊戯に遙を引き入れるのではなく、遙の行為に、歩み寄ろうとしていた。
天頂に座す太陽が、急に温もりを増して感じられた。遙はそのことを、急いでメモ帳に走り書きした。言葉は生き物だ。一度逃せば、同じものは二度と戻ってこない。秋の涼風さえ心地好く、それもまた記述した。ジャングルジムを登ってきた虎鉄が、メモ帳を覗き込み、興味深そうな顔をした。そのくっきりした両目ははっきり、遙の行為を面白がっていた。
〝ポエマーな隠師か〟
その言葉にシャーペンの動きが止まる。思わず虎鉄の顔を見ると、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
〝知ってるさ。うちも隠師だ〟
〝……うちははぐれ隠師だって聴いた〟
〝うちもだよ〟
答えた虎鉄の目には、子供ながら慈愛の光のようなものが宿っていた。
たったそれだけの遣り取りで、遙は虎鉄をひどく身近に感じた。
(あの時からの付き合いか……)
朝。雀の鳴き声を聞きながら、遙はぼんやりと考える。身体の調子はだいぶ良い。菫には大きな恩が出来た。ベッドの隣の床。敷かれた布団に興吾と隣り合って眠る菫の寝顔を眺める。
「ありがとう」
起こさないよう、小さな声で呟く。そのまま玄関に向かおうとすると声を掛けられた。
「もう良いのか」
興吾だ。霊力を遙に分け与え、消耗した菫に代わり、感覚を研ぎ澄ませて寝ていたのだ。
興吾の台詞は色んな意味に取れた。
「うん。君にも世話になったね」
「スタミナスペシャルドリンクを持って行くか」
「ええと。厚意だけ受け取っておく」
あの飲み物にはまだストックがあるのかと思い、遙はぞっとした。
「暁斎おじの、霊力を感じた」
その言葉に遙が息を呑む。――――感覚の鋭敏の差異により、気付く者は気付く。
「隠師が一枚岩じゃないことぐらい、俺だって知ってる。けど、菫を泣かす真似したら許さねえ」
凛として光る紫の双眸。その背後に、白鹿を見た気がした。
「忘れないよ」
遙は真摯に答え、玄関のドアを開け、出て行った。
虎鉄の無事を早急に確認する必要がある。
見送った興吾は鍵を閉めてチェーンを掛け、未だ眠る姉を見る。瀕死の人間に霊力を大盤振る舞いしたのだ。目覚めはいつもより遅いだろう。菫は遙を友人と考えている。遙もまた。もし、遙の毒が暁斎によるものであれば、二人は単純な好悪の感情で付き合えないことになる。キッチンの、小鍋の蓋を開ける。昆布と椎茸が沈んでいる。味噌汁の前段階だ。これに焼き物、和え物でも作れば立派な朝食になるだろう。菫には、いつもより多く食べさせる必要がある。リビングの振り子時計を見て、まだ早朝という時間であると認識する。空気がまだ涼しいことが、それを裏付ける。これが八時も過ぎると温度がぐんと上がるのだ。博多は海風の恩恵を受け、多少はしのぎやすいが、やはり夏は暑い。早朝ではあるが、恐らく相手はもう起きているだろうと早々に結論付け、スマートフォンを取る。
「もしもし暁斎おじ? 俺。興吾だけど」
訊きたいことがある、と興吾は続けた。
「ふあ~あ」
期せずして研究室に響いた菫と駿の欠伸の二重奏に、華絵が首を傾げた。
「なあに、二人共。夜更かしでもしたの?」
「いや……、ちょっと色々あって」
「俺も」
「何よ、二人して。――――やだまさか、そんなのお姉さんが許さないわよっ」
ひしと菫を抱き締める華絵。付き合いよく駿が照れたような笑みを浮かべて頭を掻く。
「いやあ、昨日は菫が中々、俺を眠らせてくれなくて」
「眠らせて、やろうか。銀月で」
「遠慮しときまーす。ちょっと珍客があったもんでね」
「お前のとこもか」
「え?菫も?」
「ああ」
「まさか、男?」
「まあな」
「まさか、男?」
「まあな」
同じ応答が二度繰り返された。
「菫の貞操を、俺は信じていたのに……っ」
机に突っ伏す駿。
「万年発情期男が言えた台詞か」
そもそも、興吾が一緒なのだ。いかがわしい行為になど及ぶべくもない。駿もそれは承知している。
「あ、そうそう、菫。暁斎さんの連絡先知ってる?」
けろりと立ち直った駿の問い掛けに、菫の机で原稿用紙に向かい合っていた興吾がちらりと目を遣る。今日は例の自由研究の課題を仕上げるそうだ。勤勉で結構なことである。
「もちろん、知ってるがどうしてだ?」
「ちょっと訊きたいことがあってね」
そう答えた駿の、作ったような笑顔を、興吾はじっと凝視していた。