ポイズン
一刻の猶予もならない。
菫はそう判断した。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
流しにあった小松菜の一枚を引っ掴み、顕現した姉の霊刀に、興吾が驚きの声を上げる。
「何やってんだよ、菫っ」
「興吾、黙っていろ」
有無を言わせぬ迫力で言われ、興吾が思わず気圧され口籠る。
煉瓦の壁に仕切られた玄関とキッチンは、嵌め殺しの窓の色彩と、銀月から溢れる白銀の光に満ち、神々しいばかりだ。菫の身体が紫色の燐光を纏う。
菫は銀月を振りかざし――――。
今度こそ、興吾は目を剥いた。
菫は霊刀の切っ先を遙の胸深くに埋めたのである。
「殺す気かよ!」
「黙っていろと言った……」
菫は興吾の悲鳴とも怒声ともつかない叫びに、苦しそうに答える。白銀の光が銀月からこぼれ出て、刀身を伝い遙の体内へと注がれる。その様を目視してから、興吾もようやく得心が行った思いで、口を閉ざした。
これは菫の救命措置だ。
即ち、海で溺れた者に口移しで酸素を与えるように。
本来なら、霊力の譲渡にはもっと穏便なやり方があるだろう。しかし今の遙には、悠長なことをしている時間がなかった。霊刀は霊力の顕現である。乱暴な解釈をすれば荒っぽい点滴に等しい行為を、菫はしているのだ。銀月を介して、自身の霊力を遙に分け与えるという――――。霊刀の扱いに長けていれば、相手を傷つけずにこうした治癒目的の入刀も可能となるのだ。
興吾の脳裏に、うそなしのはなしの人外と、山童の言葉が蘇る。
〝間違っても、もう、刃を向けたりしちゃ駄目よ?〟
〝お前の姉は、母を刺したぞ、刺したぞ〟
ほろり、と、疑惑と疑念の塊がほぐれたような気がした。
母・美津枝はまだ興吾が幼い時に狭心症の発作で倒れた。その場に居合わせたのは菫だった。生死の境にいる母に向け、非常時として霊刀を用い、霊力を注ぎ込み、美津枝の命を留めたのではないか。霊力とは生命力にもなり得る。
傍目では殺傷の意図を疑う菫の行為は、その正反対の生命維持を望む行為なのだ。生真面目な菫は、それでも母親に刃を向け、刺したことを後ろめたく思っていたのだろう。興吾は切実に、早く大人になりたいと思った。恐らく父・京史郎は知っていたのだ。興吾だけが蚊帳の外だった。
(まだ子供だから)
ぎり、と拳を握り締める。
こう考えてみると銀月が遙にもたらす白銀色が、慈愛の色に見えてくるから人間とは単純なものだ。菫の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
遙の頬には血の気が戻りつつあった。
「……もう良いな」
菫が銀月を遙から抜く。
これ以上は菫の霊力が保たない。興吾から見てもそれはよく解った。遙は依然として気を失ったままだ。
「ベッドに運ぼう。手伝ってくれ、興吾」
「おう」
意識の無い人間の、それも大の男の身体は重かった。遙は細身なほうだが、それでも菫が上半身を抱え、興吾が脚を抱え上げるのに相当な力を要した。
(解らないことが多い)
なぜ、遙は菫の住まいを知っていたのか。霊力を操ると知っていたのか。
興吾は誤解したかもしれない、とも思う。
自分が美津枝に遙に施したような治癒を霊刀で行ったと。
そう考えれば苦い味が口の中に広がるようで、折角の夕食もよく味わえなかった。
(遙君は隠師なのだろうか……)
眠り続ける遙の顔を見遣る。
日本各地にいる隠師だが、その全員が霊能特務課や長老たちの下についているとは限らない。それなりにネットワークはあるが、霊能の世界とは無関係に暮らしたいと願い、それらの繋がりに属さない隠師もいる。遙がそうした考えを持つ親のもと、育ったと言うのであれば納得が行く。遙は菫が隠師であることを知っていて、たまたま何等かのトラブルに巻き込まれ、止むを得ず菫を頼った。そういうことだろうか。
しかし。
(あの毒素には霊力の気配がした)
しかもどこか懐かしい、近しい人の気配が。
これは一体どういうことだと、考え込まずにはいられなかった。
沈黙に包まれた夕食を終え、食器を洗い片付けた興吾がミキサーを取り出してきた。
キッチンの流しの上に人参、法蓮草、ピーマン、にんにく、等々、うちにある野菜類を並べ、洗い、皮を剥くと次々にミキサーに放り込んでいく。
「うわ……。興吾、もしかしてあれ作るのか」
「弱った奴には滋養強壮だろ」
ガ―――――、と響くミキサーの音に菫は戦々恐々とした。興吾が作っているのは興吾特性スタミナスペシャルドリンクだ。多少、語呂が悪いが、本人による命名である。
そのミキサーの音がうるさかったのか、遙がぼんやりと目を開けた。
「遙君、大丈夫か」
「うん。もう平気。ありがとう、菫ちゃん」
美麗な面差しの遙が、儚く微笑むと、佳人薄命という縁起でもない言葉を思い浮かべてしまう。
「鉄は逃げ切れたかな……」
「友達? 誰かに追われてたのか」
「凄く強い人だった。僕は鉄と……、そう、友達と、二手に別れてここまで逃げてきた。でも、鉄も毒を受けたんだ。誰かが助けないと」
そう言って身を起こし、今にも出て行こうとする気配を見せる遙を、菫は慌てて押し留めた。
「今は無理だよ。霊刀で相当な荒療治をやったんだ。しばらくは寝ていないと」
「おい、これを飲め」
いつの間にか菫の隣に立っていた興吾が、遙に硝子コップを差し出した。その中に入っているどろりとした液体は濁った沼のような緑色だった。遙の返答は簡潔だった。
「やだ」
「好き嫌い言ってっとまた倒れるぞ。飲め」
「……何でそんな、濁った博多湾みたいな色してるの」
「博多湾に謝れ。この色は色んな栄養素が混じってる証拠だ」
「君、目が紫なんだ。白髪は地毛?」
「おい。話の路線変更しようと人のナイーブな点突いてんじゃねえぞ」
あ、やばい、興吾が切れそう、と見守っていた菫は固唾を呑んだが、遙は楽しそうな笑い声を上げると、飲むよと言い、コップに口をつけた。臭いに一瞬、怯んだ様子を見せたが、両目を固く瞑り、ごくごくごく、と勢いよく飲んだ。菫にはどこかその姿が、潔く切腹する武士を思わせ、何だか涙ぐましい気持ちになった。そして飲み終えた遙は一言。
「不味い」
「もう一杯?」
「お決まりの台詞は要らないよ。君、関西人?」
「生まれも育ちも博多っ子だ」
「どうして博多弁じゃないの」
「現代っ子だからだ」
「今のジュース」
「もう一杯?」
「不味かった……。劇的に。不味さと不味さが奏でる崇高なシンフォニーを僕は聴いた気がした。そのくらい、不味かった」
「おい菫。こいつ放り出して良いか」
「駄目だよ! 興吾のスタミナスペシャルドリンクを」
「を?」
「……詩的に。そう、あんなにも詩的に褒めてくれたじゃないか! そう言えば遙君はポエムを書くのが趣味だったよね」
「うん。閃いたらスマホにメモするようにしてる」
はにかむように笑う遙。男の癖にポエマーかよ、と男女差別に繋がる発言をする興吾。その間を取り持つように菫は、わあ、今度読ませてよとわざとらしく声を張り上げた。
駿の下宿先は菫のアパートとは違い、建築家志望の学生の手が入ることなどなく、正真正銘、単純に安普請のアパートだった。その名も「吹き荒れ荘」。冬になると文字通り、隙間風が吹き荒れる。いつもにこにこと家賃を受け取る老婦人の大家の、どこにそんな洒落にならないユーモアのセンスがあったのかは駿にも解らない。
スーパーやコンビニなどに寄り道して、さて吹き荒れ荘に帰るかと思っていたところ、妙な気配が感覚に引っ掛かり、足を止めた。妙な気配は商店と住宅が混在する一画の、建物と建物の間の狭くて薄暗い路地からだった。隠師にも感覚の鋭敏の優劣はあり、駿は実は相当に鋭敏なほうだった。だからこそ引っ掛かってしまう霊能トラブルが多いのも確かだったが。もう日も暮れた。視界の利かない闇に、一応、駿は目を向けてみる。面倒そうなものであれば即、回れ右する積りで。
そして見たそれは、実際、面倒そうなものだった。
屈強な男が、息も荒く倒れている。これは回れ右だな、と駿は瞬時に判断し、救急車くらいは呼んでやろうかとスマートフォンを取り出したところで声を掛けられた。
「……おい」
「あー、はいはい、救急車なら呼んでやるからちっと待ってな」
「そうじゃない。お前、隠師だろう」
スマホを持つ手が止まり、駿はそれまでとは打って変わった鋭い視線を男に向けた。成る程、この気配。同業者か。相当に弱っているのは何等かの毒物による影響、と、そこまで駿の感覚は分析する。感覚の鋭敏の差異により、気付く者は気付く。
「汚濁を滅するのに失敗したか? 末期の水くらいは取ってやるよ」
そう言うと男はなぜか嗤った。
「お前の霊力を寄越せ」
「見返りは」
「ない」
「バイバイ」
「借り一つを憶えておこう」
「うーん、もう一声、って言いたいとこだけど、あんた実際に死にそうだしなあ」
駿はスーパーのビニール袋を覗き込み、大の男の食糧として耐え得るかを検討した。
「よし、貸し一つだ。忘れんなよ? 俺の貸しは高くつくぜ」
そう言ってにっ、と笑うと、狭い暗闇に歩を進めた。
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