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ボーイ ミーツ ガール

挿絵(By みてみん)

 二級河川・那珂(なか)川が注ぐ博多湾。福岡国際センター、福岡コンベンションセンター福岡国際会議場などが建つ中、ベイサイドプレイス博多は博多港埠頭旅客ターミナルに隣接した複合商業施設だ。中には巨大な円柱形水槽のアクアリウムがあり、海亀やエイを始めとして数十種類の魚が泳ぐ様が見て楽しめる。


 悠然と泳ぐ亀の腹を見ながら、菫は呟く。


「魚は良いな」

「どうして」

「水という流動体の中、無心に泳いでいれば生を全う出来る。シンプルだ」

「隣の芝生だよ」

「うん。きっと、そうなんだろう。人間の身勝手な願望だ」


 照れたように笑う菫に、遙は優しく微笑する。

 差し出すように尋ねた。


「お兄さんのことで悩んでる?」

「……それだけじゃなく、母さんのこととか、色々とね」


 ことりと遙が首を傾げる。


「お母さんは、今はもうお元気なんだろう?」

「……うん」


 魚の一匹がすいとこちらに近づき、また向こうに戻った。

 菫は何もかもを、この幼馴染に打ち明けたい衝動に駆られた。遙にはそんなところがある。人の悩みを吸い取って、慰撫してくれるような何か。


「お兄さんを殺害した犯人、早く見つかると良いね」

「――――そうだな」

「菫ちゃん、あの事件からすっかり変わったもんな」

「そうか?」

「そうだよ。それまでは如何にも深窓のお嬢様、っていう風情で、僕らクラスメートは憧れの眼差しで見てたのに、長かった髪をいきなり短くして、言葉遣いまで男の子みたいになっちゃって」

「…………」

「憧れのバイオレットの様変わりは、ちょっとしたセンセーションだったんだよ」


 菫が苦笑する。他の人物から聴けば不快に感じたかもしれない事柄だが、遙の口から聴けば不思議とそうだったのかとすんなり抵抗感なく納得出来た。

 遙の中性的な容姿や、身に纏う、決して人をあげつらうことのない穏やかな空気がそうさせるのだろう。


「失望させたな」

「それが男子もそうだけど女子にも却って人気が上がったものだから、僕なんかはおろおろしたよ」


 アクアリウムの中、無数の泳ぐ魚たちを見ながら、遙はくすくす笑う。そうして笑うと中性的で美麗な容姿が一層、引き立つ。艶のある長めの黒髪が、うっすら青い光を受けて淑やかに光を放っている。

 短い言葉の遣り取りで、充足する何かがある。内容は些細なことで良かった。

 遙と言葉を交わすことが、遠泳をして生きているような菫に長い息継ぎと安らぎをもたらすようだった。今だけは汚濁のことも忘れて。


「菫ちゃん」


 遙の顔が間近に迫る。


「もしどうしても、今の居場所が居辛くなったら僕を頼って。僕らはいつでも君を迎え入れるから」


 その後、菫が去ってから、遙の背後にぬんと立ち、その頭を拳骨で殴った男がいた。


「くおら」

「痛いよ、鉄……」


 頭を押さえ、涙目で振り返る遙の眼前には、遙とは対照的に筋肉質の、一歩間違えばその筋の人と勘違いされそうに威圧感のある立ち姿。首に光る銀の太いチェーンが、その威圧感を増す小道具と化している。


挿絵(By みてみん)



「お前、バイオレットに気前よく、かっこよく、ぶりっ子してんじゃねえよ。何が迎え入れるから、だ。聴いてねえっつーの」

「聴いてるじゃないか……」


 そこで二度目の拳骨。


「減らず口を叩くな」

「鉄。昨今では体罰は厳しく問題視されてるんだよ」

「お前のほうが問題視だ。――――惚れてんのか、バイオレットに」


 遙の白皙の頬が薄く染まる。はあ、と男が溜息を吐く。


「そういうのとは違うよ……」

「ロミオとジュリエットかよ。笑えねえぜ」

「違うってば!」


 男――――()王寺(おうじ)()(てつ)は遙の否定を一顧だにせず、円筒形の水槽を眺めて、煙草を取り出すと銀のライターで火を点けた。


「ここ禁煙だよ、鉄……」

「うるせえ」


 ぼそりと注意した遙の声は一蹴され、紫煙が魚たちを背景に立ち上った。


 研究室に戻った菫は、ゆっくり、丁寧な動作で緑茶を淹れた。持永の貰い物の最中があることを考慮に入れての飲み物の選択だ。持永の食べ物は皆の物、という不文律が持永研究室にはあった。今日は日曜日で、持永自身は講演の為に不在である。おっとりのんびりしている持永だが、研究者としての実績は高く評価され、全国津々浦々、講演に出向き、また、学会にも出席する多忙な身の上である。講演で出向いた先で、大体、甘味の土産を買ってくることが多いのも、院生たちへの労いであろうと、菫たちは好意的且つ都合よく解釈している。


 在室の華絵や駿、興吾のぶんもお茶を淹れる。興吾は夏休みの宿題をほとんど消化して、あとは自由研究と読書感想文を残すだけだそうで、つまりは暇なのだろう、研究室に入り浸りである。家にいるより冷房費の節約にはなる。自由研究のテーマは「人の負の感情が生み出す事象例について」だそうで、本当にそれで良いのだろうかと、菫は疑問に思ったものだ。恐らく本人は汚濁そのものについて研究してみたいのだろう。

 そして読書感想文用に選んだのが夢野久作の『死後の恋』である。ロシア革命に纏わる複雑奇怪な作品で、早熟な興吾らしいと言えばらしいのだが、子供には刺激の強い描写も多々ある。違う作品にしてはどうか、と菫がそろりと言ってみると、もう決めたの一言で終わった。

 今、興吾が菫の机で読んでいるのがまさにその、『死後の恋』が所収された文庫本だった。『ドグラ・マグラ』に手を出すよりは良いかもしれないと菫は考えておくことにした。小学生が狂人も輩出すると名高い奇書の読書感想文を書いたら、先生たちも驚き、対処に困るだろう。夢野久作を選ぶ時点で、もう一般の小学生からは逸脱していると言える。尤も汚濁や妖怪との戦闘を経験している興吾だ。些少の過激描写は平静に読んでしまうだろう。


「お茶が入ったぞ」


 菫の声に、読書に集中していた興吾が顔を上げ、修士論文の仕上げに掛かっていた華絵と、ただただ無作為に黒い革張りのソファーに横になっていた駿も反応する。

 お茶という言葉には不思議な作用があり、その言葉が響くだけで緊張が弛緩する。


「嬉しい。ありがと、菫」

「最中喰おうぜ」

「俺、夢野久作が解らない」


 最後にぼそりと呟いた興吾に、菫はどこかしらほっとした。幾ら早熟とは言え小学生で、夢野久作を理解出来たらそのほうが恐ろしい。


「あー、エログロだよな」

「難解よね」


 駿と華絵、それぞれの反応に性格が出ている。最中は白い小判型をしたもので、中央に小花の焼き印が入れてある。口に含むと漉し餡の優しい甘さが広がり、緑茶との相性は抜群であろうと思わせられる。


「〝強制的の結婚〟はまだしも、処女の乳房ってどういうことだ? 見たら判別出来るのか?」


 探究心旺盛な興吾の爆弾発言に、お茶を飲んでいた大人たち三人がそれぞれ、お茶を噴き出し、ごほごほとむせた。


「興吾。やっぱり読書感想文は別の作品にしないか?」

「判別とか考えたこともないな、痛い痛い痛いっ」

「夏目漱石とかでも良いんじゃないかしらね」


 駿の悲鳴は華絵のハイヒールの踵に足の甲を思い切りぐりぐりと抉られた為のものである。

 やはり最初に聴いた時に姉の自分が責任を以て止めておくべきだったと、菫は痛感した。止めて聴く弟かどうかは別として。そのあたり、姉弟なだけあって、頑固な点は似ているのだ。


(暁斎おじ様か父さんに相談してみよう)


 菫はこっそり思う。

 困った時の先達頼みである。特に暁斎は文筆業もしているので、相談相手として適しているだろう。まかり間違っても興吾の将来が駿のようにちゃらいものになってしまってはいけない。




 潮風を受けながら遙は聴いていた。嘆きの声を。すだく負の、怨念の、その凝りを。

 眼下に広がる博多湾は濁った緑色で、目に美しくはない。汚濁もさしずめこのようなものであろうかと考える。

 醜いと、礫を投げるのは簡単だ。なぜ慈しむ眼差しを向けてやれないのか?

 同じ人間が生み出したものなのに。

 午後の光は強く、まるで人の振りかざす正義・正論のようだ。

 遙は反駁する。正義の鉄槌の脆さを糾弾する。

 だから唱えるのだ。


「踊れ踊れ、影たる者よ。影なくして光あらず。嘆きの涙を落とせよ黄昏の支配者」


 汚濁が嬉々として形をとる。見えざる人々に害を成すのだろう。しかしそれもまた摂理。

 ふと、昼間に逢った菫の面影が蘇る。


「君の手に、剣は相応しくない……」


 願わくば芳しい花を。霊刀を顕現させる為ではなく。菫の高潔であることに思いを馳せる。彼女は自分の行為に真っ向から異を唱えるだろう。

 それが、遙には少し悲しかった。


 はっ、と身構えた時にはその殺気は間近にあった。感傷に浸り過ぎた。


「こんにちは。潮風に、呼ばれたような気がしましてん」


 白髪、今は閉じられた双眸の色は薄紫、黒い単衣の。手にはいずこかの樹の枝。それが不自然でなくしっくりと馴染むのはいずれ得物と化すゆえか。


「中ヶ谷遙君、ですね」

「そうだ」

「何か言い残すことは」


 遙は近くに生えていた露草を、わざとゆっくりと摘んだ。

 この不意打ちの襲撃は暗殺の類だ。相手に合わせてやる道理はない。

 悠然と唱える。これくらいの恰好はつけさせてもらう。


「命短し恋せよ乙女、蒼穹天女」

「極北の王、清かなる龍影、召しませ夢を。銀滴主」


 遙が纏う青の燐光、暁斎が纏う紫の燐光。

 戦いが幕を開けた。




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