天が地
翌日、菫は白いセパレーツタイプの水着に着替えた。胸元に紐リボンがついている以外は装飾のないシンプルさだが、いつもの水泳だけを目的にした水着と違い、遊興であることを考えてのセレクトである。着替えながら昨日の山童の声が頭に蘇る。怯えたような目で自分を見ていた、興吾の紫の瞳も。
まだ、彼に知られる訳には行かない。そのほうが興吾の為だと自分に言い聞かせて、偽りを続ける。父・京史郎程に自分は強くない。興吾の直截な性格に、いつまで抗し切れるものかは、怪しいものがあった。
渓流は別荘の裏手を少し行ったところにあり、白っぽい岩々が水の流れを挟み龍のように魅せている。常緑樹と針葉樹林が更にその脇に聳え、如何にも野趣溢れる趣だった。
華絵も水着に着替えている。桜ん坊柄の、紛う方なきビキニだ。胸元には菫のような控え目のリボンではなく、金色に光る輪っかがついている。駿は黒の、興吾は青の海パンを履いていた。一人、持永だけがゆったりした私服で、岩の一つに腰掛け、のほほんと文庫本を開いている。
水は恐ろしく澄んでいて、触れれば切れるように冷たかった。最初の内はおずおずと水に触れていた菫や華絵も、その内に段々と大胆になってきて、中に入り、泳ぎ始めた。因みにこの時点で、駿はスマホで二人の水着姿を余すところなく収めている。若干、興吾に引かれていたのは仕方がない。菫の写真を撮り過ぎるなと注意もされた。しかしそこはまだ小学生、普段は来ることの出来ない自然の水辺にテンションも上がり、水遊び、泳ぎにすぐに夢中になった。駿は彼らを見守りながら、自分ものんびり泳いだ。魚影が目の前を過ぎ、ここが自然の真ん中なのだと思わせられる。鮎らしき魚もいて、水中で目を凝らして見てしまった。それより尚、目を凝らしたのは菫たちの水着姿に対してだが。
(昨日、何かあったか?)
菫と興吾の間に流れる空気が、どこかぎくしゃくしていることに駿は気付いていた。昨日は晩餐で菫が笑い上戸になった以外、取り立てて変わったことはなかったと思うのだが。楡の林で鍛錬したようだが、それは双方納得づくで、問題にはならないだろう。興吾が些か、プライドが傷ついたかもしれないくらいが。それとない目で姉弟を見ながら、川遊びを駿自身も楽しんでいた。だいぶ泳いで、一休みしようと岩の一つに腰を下ろした時。
樹影に、白髪、黒い着流しを見た気がした。
(暁斎さん?)
暁斎らしき姿を見たのはほんの一瞬で、すぐにそれらの色彩は緑に紛れた。暁斎がこんなところにいる筈がない。何かの見間違いだろうと思う一方、引っ掛かるものがあり、駿は水から顔を出した菫に声を掛けた。
「なあ、菫」
「何だ?」
「暁斎さんってこっちに来てないよな」
菫が怪訝な顔になる。
「暁斎おじ様が? まさか。この場所だって、知らないのに」
「暁斎おじなら今、物書きの仕事に追われてるって言ってたぞ」
「そっか……」
菫と興吾の言葉に頷く。それでは到底、こんな場所に来る余裕などないだろう。だが。駿の感覚は、隠師の中でも抜きん出て鋭い。その感覚が、ほんの一瞬であっても、先程の影を暁斎だと認識した。これはどういうことだろう。駿は自分の感覚にそれなりの自負がある。博多にいる筈の暁斎が、大分の九重にいた。これではまるで、暁斎が二人いるようだ。駿はしばらく思考の渦に囚われたが、やがてこれを放棄した。不可思議な現象が起きるのがこの世だ。特に自分たちのような生業の者たちの間では。いずれこの事象にも、何等かの説明づけが為されるだろうと楽観視し、駿は再び水に潜った。折角の自然だ。楽しまなければ損である。
(暁斎おじ様がいる訳がない)
菫は沢蟹の歩くのを見ながらそう思う。粒粒と、細かな泡が立ち上っては消える。泡は太陽の光を受けて金にも銀にも輝いた。
けれどそう言えば菫も、暁斎を見たと思ったことがあったと思い出す。
暁斎はそれを否定した。
小さな小骨が咽喉に刺さったかのような、違和感と不快感がある。暁斎は嘘を吐いていない。それならあれは、何だったのだろう。
白髪、薄紫の双眸、黒い単衣の着流し。
暁斎本人としか見えなかったのに。
考えながら小魚の群れに戯れに手を入れると、驚いた魚たちが千々に散る。水中の岩の雲母が綺羅と光って、魚たちに逃げろと言っているようだ。
「菫―、そろそろ上がりましょう。身体冷えたでしょう」
華絵の声に水中から脱し、息を大きく吸う。用意されていたバスタオルで身体を拭き上げると、華絵が大きな水筒から紅茶を紙コップに注いで渡してくれた。持永が文庫本を閉じ、バスケットを開けて中身を取り出している。分厚いカツレツの挟んだサンドウィッチが出てきた時は、皆で歓声を上げた。
「あー。うめえ。けど酒も飲みたくなるな」
「ふっふっふ。あるわよ~。サングリアも」
「マジか! 華絵さん、天使!」
サングリアとはフレーバードワインの一種で赤ワインに果物や甘味料、香辛料を入れた物である。桃や梨、桜ん坊、アセロラ、オレンジなどの果物の、甘く、苦味や酸味も伴う独特の風味がある。
「っか~。うめえ」
「うん。美味い」
「一泳ぎしたあとの一杯はまた格別よねえ」
持永もちゃっかり呑んでいる。
一人、興吾だけが物欲しそうな顔で大人たちを見ながら、紅茶をちびちび飲んでいた。
「あははははは」
「ちょっと菫。もう酔ったの?」
「いえ、華絵さん。今のは私じゃないです」
皆があたりを見回せば樹影の向こうに、走って行く山童がいた。
「やだ、山童じゃない」
「――――追います」
「ちょっと、菫!?」
菫が沢に生えていた犬胡麻の花を手折り、駆けてゆく。その姿は見る間に樹影に溶けた。間髪追わず、駿があとを追う。興吾も走りかけたが、華絵にその手を掴まれ阻まれる。
「何だよ、邪魔すんな!」
「駿に任せときなさい。あんたたちに何があったか知らないけど」
菫と興吾の違和感に気付いていたのは駿だけではなかった。華絵もまた勘付いて、素知らぬ顔を通していただけだった。
目一つの妖怪を、菫は追った。手には銀月を呼び出している。駿が追う気配を背中で感じたが、構っていられない。この調子で、あの山童に好きなことを喋られては都合が悪いのだ。自分の背よりはるかに高い樹々の間を、縫うように追っていく。山童はそんな菫を嘲笑うように姿を見せては消し、見せては消していた。事実、嘲笑っているのだろう。人間を莫迦にすることを好む妖怪は多い。
「銀月。銀連鎖」
菫が呪言を唱えると、銀光が鎖の形状を成し、するすると素早い速度で伸びて山童の足に絡みついた。山童が派手にこける。菫は走るのを止め、静かな歩みで山童に近づいた。その歩みは仕留めた獲物に近づく狩人にも似ていた。菫の瞳は無として、何の感情も浮かんでいない。それが却って、山童を怯えさせた。
「もう笑わないのか」
「人殺し」
「お前は人ではないだろう」
「俺のことではない。お前は人を殺しただろう」
「何を莫迦な」
「弟に聴かせたくなかったのはなぜだ」
「…………」
「お前は殺した。俺は知ってる。お前は、」
ぶつり、と。CDプレーヤーの電源が切れたかのように山童の声が止んだ。山童の咽喉には横から刃が生えていた。駿が、霊刀を手に立っていた。山童が塵と化す。
「村崎」
「菫は人殺しじゃない。戯言を言う奴を野放しには出来ねえ」
「――――お前は信じるのか。私を」
「信じるよ。お前に人は殺せない。とても無理だよ。天が地になっても」
常緑樹、広葉樹の間から、光が射し込む。小さな天使の階梯。その真ん中に立つ菫はまだ白い水着姿で、露出した肌の面積も多いのに、神々しさがあった。だが駿は、菫に神々しさより痛ましさを感じた。彼女の抱える闇の一端に彼は確かに触れたからだ。
<第三章・完>