僕の可愛いお姫様
菫は水を掻き、脚を上下に動かして五十メートルを一直線に泳ぐ。
水の中は静かで、塵が光を帯びてきらきらと煌めき、光の大きな網目模様が映されている。青と透明の支配する空間に、このままどこまでもどこまでも沈んで行きたくなる。過去の手が届かないところまで。
沈んで、そのまま浮かび上がらなくても構わないなどと、埒もないことを考える。
所詮は呼吸を求め、酸素を求め水上に出るのに。今を生きる為に。
五十メートルを何回かクロールで往復した菫はプールサイドに立つ駿の姿を認めて泳ぐのを止め、水の感触を名残惜しく思いながら、水から上がった。重力がずしりとのしかかり、身体が重く感じる。ゴーグルを外すと、視界がクリアーになった。身体から雫を滴らせながら重い足取りで歩む。一歩、一歩。人生のようだ。水中では自由に飛翔する心地を味わえたのに。
大学に併設されたプールには、日曜の今日、菫の他には水泳部員がいるだけだった。人が少ない中、思う存分に泳げるのは良いストレス発散になる。
首にバスタオルを掛けた駿はハーフパンツにサーモンピンクのシャツを着て、パンツのポケットに両手を入れて菫の水着姿を余すところなく見つめていた。無論、胸の内で何度もシャッターを切っている。
形こそシンプルだが黒地に紫、ピンク、蛍光イエローの花が咲き乱れる菫の水着姿は眼福だった。
「竹下さんと話がついた。今晩、九時に来て良いってよ」
「了解。手頃な時間帯だろうな」
「だな」
プールの南方は硝子張りで、駿は光を背負って見える。その後ろに飛ぶ鳩が数羽。雲の動きまでよく見える。
今朝、菫は華絵と駿と共に、靴泥棒が発生するという私立病院を訪ねた。
そこで詳しい話を聴き、それから、最も近い内に靴泥棒に遭い、退院した患者の名前と連絡先まで訊き出した。
無論、それらは患者のプライバシーであり、例え警察であっても捜査令状なしには知ることの出来ない範疇である。
しかし霊能特務課から連絡を受けた院長の鶴の一声で、菫たちはその出来ない範疇を可能とした。因みに菫も駿も華絵も、警察手帳を所持している。正真正銘、本物である。これは霊能特務課から配布された、指令を円滑に遂行する為のアイテムの一つだった。
「禊の積り?」
駿がバスタオルを菫に差し出しながら尋ねる。
菫は礼を言って受け取り、軽く笑った。
「お前は過去が押し寄せることはないか。忘れ難い過去が」
「ないね。俺の過去は施設に始まってずっと独りだ。別段、思い出したいことも忘れ難いこともない」
「そうだったな。済まない」
気にするなと言うように駿が肩を竦める。
飄々としたこの男は、両親を早くに亡くし児童養護施設で育った。菫と違い、兄弟も両親もいない。
身軽だろうか、とふと思い、菫はそんなことを考えた自分を軽蔑した。
孤独の辛さが心を蝕む日が全くなかった筈がない。
「水が洗い流してくれる気がしてな。溢れ、膨張する昔の記憶を」
〝菫。良いかい。このことは、君と僕だけの秘密だ〟
菫はぎゅっと目を瞑る。忘れようにも忘れられない記憶に、プールの水に濡れた指先がかじかむようだ。
「まあ、解らないでもないし、俺は目の保養が出来るから良いけど。お前、あんまり思い詰め過ぎんなよ」
駿はぽん、と菫の水泳帽を叩くと、先に出てると言って立ち去った。
菫もあとに続こうとして、駿の他に立っていた男性にようやく気付く。
淡いミントグリーンのボタンダウンシャツにグレーのパンツ。
漆黒の髪の、駿とはまた異なる美丈夫という言葉が似合う男性だった。構内では見掛けたことのない顔だ。異彩を放つ男性に、なぜ今まで気付かなかったのだろうと疑問が湧く。菫の勘は鋭い。異分子に限らず接近すれば察知するアンテナが常に張り巡らされている。それを潜り抜けた存在。意図しなければ出来ない行為だ。
警戒しろと意識が囁き掛ける。
唇が、男性にしてはやけに艶めいて、見ているほうがどきりとする色気がある。
警戒を怠らず、菫が軽く会釈してバスタオルを纏い、彼の横を通り過ぎようとした時。
「バイオレット……。僕の可愛いお姫様」
唇と同じく低く艶めいた声に、菫は硬直した。一瞬、今いる場所がプールサイドではなく、紫色の花畑と錯覚した。すぐに振り返る。赤。紫。その色彩を思わず探す。
今の言葉は。
しかし、男性は素早くその場を立ち去った。まるで菫の追及を避けるかのように。
(今の言葉は……)
亡き兄が、菫によく語り掛けた言葉だ。死ぬその直前にまで。
〝バイオレット。僕の可愛いお姫様〟
身内しか知らない筈の兄の口癖を、なぜ彼が。
プールサイドのベンチに置いていたスマートフォンが鳴る。
着信元は母からだった。
菫は一瞬、切なそうな顔になると、通話状態にした。
『もしもし、菫?』
「うん、母さん、何?」
『今度のね、土日、うちに帰ってこられない? 貴方、中々、顔を見せないから。それはもう、うちも昔みたいなお屋敷ではないけれど』
「建売住宅だって悪くないよ。そう……だね。考えておく」
『きっとよ?』
「うん。じゃあね。……お母さん……」
痛みを堪えるように、菫は通話を切った。
陽光が水で冷えた菫の身体を温める。それでもまだ菫の心は冷え切って、未だ冷たい水の中にあるようだった。
靴泥棒に遭った竹下敬三の住まいは、央南大学に近い住宅街にあり、取り立てて特筆すべきところもない二階建ての、和風の一軒家だった。ついでに言うと菫の住むアパートにも近い。
敬三と約束した通り、夜九時、菫たちは竹下家を訪れた。
「こんばんは。お邪魔します」
「はい。あの、本当に靴泥棒がうちを襲撃する可能性があるんですか?」
「ええ。靴を盗む、という行為でその家に言わばマーキングして、強盗に入る手口のグループがいるようで」
真っ赤な嘘である。
真っ赤な嘘を、華絵は警察手帳をちらつかせながら、実に尤もらしく語った。もとより艶やかな美女に相好を崩している敬三は、すっかり華絵を信用し切っている。その娘夫婦も華絵を信用していた。警察手帳の効能は大きい。信用が失墜する不祥事も多々、明るみになっている警察だが、まだ公的な権威というものを致命的な程には損なっていないらしい。
「それよりお願いしていた物は準備して頂けましたか?」
「あ、はい。活け花ですよね。こちらに」
竹下家玄関の靴箱の上に、紫陽花とアガパンサス、別名・紫君子蘭が活けてある。紫、ピンク、青と彩り華やかだ。
華絵が菫と駿を振り向く。目線で〝使えそうか〟と訊いているのだ。
二人はそれぞれ紫陽花とアガパンサスを見遣り、頷いた。菫と駿、華絵の異能には植物が欠かせない。
「けれど、活け花が何かの役に立つんですか?」
敬三の娘の妥当な、しかし余り追及されたくなかった質問に、華絵は答えず、ただにっこりと笑って見せた。笑顔一つで、相手が都合の良い解釈をするように図った。敬三の娘は何がしか自分で納得する理由を思いついたのだろう、頷くと、それ以上は何も言わなかった。異国の血が混じる、押しが強く迫力ある美貌は重宝である。相手に有無を言わせない。
「ではご家族の皆さんはいつも通り、寝室で寝ている風を装ってください。良いですね。どんな物音が聴こえても、私たちが良いと言うまでは決して部屋から出ないこと」
まるで鶴の恩返しだが、下手に戦闘現場を目撃されたり、あまつさえ巻き添えで負傷されたりしては困るのだ。家人らが部屋に引き揚げたあと、華絵たちはリビングで待機した。
リビングは敬三たちに強盗逮捕の口実を使った手前、電気を消し、光るのはスマホの画面だけである。華絵が楽しげに、そして幾分、戦闘的な声音で言う。
「さあ、靴を食べるワンちゃんは来るかしら?」