赤と黒
菫がロシア料理を好むことから、晩餐はロシア料理となった。
御倉家本邸の食堂より長い十四人掛けのテーブルには中央に、管理人が丹精した向日葵や百合、時計草、芙蓉などが華やかに活けられている。花瓶はアール・ヌーヴォーを代表するエミール・ガレの、植物文様の円筒形エナメル花瓶である。
長い長方形の端の席は使わず、テーブルの中央部分に集まるように、興吾、菫、駿、そして対面する形で華絵、持永が並んだ。会話が円滑に進むようにという配慮からだ。
頭上にはお決まりのように燦然たるシャンデリア。誰もが思い浮かぶ海月が、逆さになったような形で、足に当たる部分は天井に近づくにつれ、すぼめられている。
「村崎、ナイフとフォークは外側から使うんだ」
「菫、幾ら俺でもそのくらい知ってる」
くすくすと華絵が笑う。入浴前とはまた違うサマードレスは紅からピンクのグラデーションで、身体のラインに添うような布地が、華絵のスタイルの良さを強調していた。菫もドレスコードに則って、珍しくワンピースを着ていた。華絵とは色気にだいぶ差が出る、ウェストでラインを絞っただけの、淡い青のワンピースだ。男性陣はと言えば、持永はスーツを着込んでいたが、駿と興吾はジーンズこそ穿かないものの、ほぼ普段着と変わらない。
「解らないわよ、駿だったらフィンガーボウルのお水も飲んじゃいそうだもの」
「フィンガーボウルって何」
「ほらね」
「指を洗う水を張ったボウルだ。主に手で扱う具材がコースに出る時に出される」
駿に説明したのは興吾だ。すらすらとした口調に、駿が感嘆の眼差しを送る。
「興吾、よく知ってんな」
「このあたりは父さんから叩き込まれた」
「んじゃ、菫も?」
「そうだな」
京史郎は行儀作法に厳格で、料理の食べ方についても、菫も興吾も幼い頃から細かく躾けられた。
華絵が今日の晩餐をロシア料理にしたのも、フランス料理などと比べると片肘張らないあたりが、駿に合っているだろうとの配慮からだと考えられた。
ロシア産の赤ワインが興吾を除く全員に行き渡ったところで持永が乾杯の音頭を取り、気の置けない晩餐会は始まった。
前菜のザクースカは楕円形の白い皿に載って運ばれてきた。
スモークサーモン、キャベツの甘酢浸け、マッシュルームのフライ、チーズ、サラミ、オイルサーディン、胡瓜のピクルス、骨付き肉などでワインの口慣らしをする。
興吾が物欲しそうな顔でグラスを見る視線に気付いたが、菫は小学五年の視線を受け流した。
(大人になったら良い呑み仲間になれそうなんだがな)
こっそり胸の内だけで微笑んで。
次にピロシキが運ばれてきた。菫は前菜のザクースカとピロシキだけで胃もワインの肴としても十分だったのだが、にこやかな華絵の笑顔が菫に全部食べなさいね? という無言の重圧を掛けており、続くボルシチと牛肉の串焼き、シャシリクが目の前に出されても、ひたすらスプーン、ナイフとフォークを動かし続けた。華絵は普段から菫の華奢であることを心配し、そんなことでは汚濁を滅するにも支障が出ると言って、何かにつけ高カロリーな物を食べさせたがった。
「赤と黒……」
酔眼になった駿が洩らした呟きに、打てば響くように菫が応じる。
「スタンダールがどうかしたか」
『赤と黒』は貴族体制、富裕者層の腐敗を描いた、フランスの作家・スタンダールによる著作だ。赤ワインを呑み、何か思うところがあったのかなどと一同が推し量っていると。
「華絵さんの下着の色を予想してみた」
予想外に破廉恥な駿の言葉に、一瞬、凍るような沈黙が降りた。
「良い度胸だな、村崎。相当に、酔ったらしい」
「いや。じゃなくてさ、身に着けてる物の色と、それぞれが戦闘時に纏う燐光の色と、霊刀の色ってどう関連性があるのかと思ってさ。俺の考察」
「セクハラには変わりないわね」
今にもワインを駿に掛けかねない氷の眼差しで、華絵が言った。その手はグラスの柄を掴んでいる。
「ふうむ。身に着ける物が身体に及ぼす影響か。興味深いテーマではあるが、ここには女性陣の耳目があることだし、村崎君は少々、呑み過ぎのようじゃな。子供の情操教育にも良くなかろうて」
咳払いしながら駿に忠告する持永の、サンタのような頬は、ワインの為だけでなく、ほんのり赤く染まっている。年齢の割に初心なのだ。
「あはははははははっ」
突然、笑い出した菫に全員がぎょっとした。折しも駿の公開処刑が行われようとしていた矢先である。硬直する一同だったが、やがて思い出す。
「そうだったわ。菫って、笑い上戸だったわね……」
日頃は静かに呑んでいるのだが、酒量が一定を過ぎると笑い出す。
「給仕係が呑ませ過ぎだ。この呑兵衛相手に景気よくカパカパと」
「いんじゃね? 日頃、眉間に皺寄せてる奴には弾ける時間も必要だよ」
それぞれに評されながら菫は尚も笑い続けている。行儀悪くも真っ白なテーブルクロスをバンバンと両手で叩いて、実に幸福そうに。京史郎が見たら眉をひそめること請け合いの光景だろう。
「ほら、菫。まだあと、食後のアイスクリームとロシアンティーが来るから。ロシアンティー好きでしょ。……お酒入ってるけど」
主にベリー系のジャムが入った紅茶をロシアンティーと呼ぶ。菫が好む飲み物の一つだ。
「あははは、ロシアンティー、あははははは、村崎の助平」
「おい、さりげに悪口言ってんじゃねえよ」
「どうして。妥当な評価じゃない」
「そんで華絵さん、赤? 黒?」
「ああ、解った。つまりあんたは冷えたワインじゃなく、熱々のロシアンティーをぶっかけられたいのね? それならそうと早く言いなさいよ」
「わー、ちょっと待った、ちょっと待った、洒落にならんっ」
「もちろん洒落じゃないわよ?」
優雅に笑む華絵の顔は食事と適度なアルコールを摂ったことで、実に血色よく、美しい。しかしこの美しさは駿には悪魔の美と思えた。
そしてどうこの苦境を切り抜けようかと思案する駿の横でケタケタと菫は笑い続け、これが大人の実態かよ、阿呆らしい、と興吾を呆れさせた。持永はいきり立つ華絵を止めることもせず、のんびりとアイスクリームを食べ、ロシアンティーを飲んでいる。
このようにてんでばらばらで、且つ賑やかな晩餐会が終わり、めいめいが食事を終え、私室に引き揚げた。
「あはははは」
「まだ笑ってんのかよ、よく飽きねえな」
寝間着に着替えても幸せそうに笑い続ける菫に、銀月を手にした時の闘志や怜悧さなど欠片もない。正真正銘、ただの酔っ払いである。しかし実に幸せそうだ、と興吾は姉をつくづくと見た。
(いっそ、始終酔っ払ってるほうが良いんじゃないか。こいつ)
実の弟にそんな危険な発想までさせる張本人は今、至って呑気にベッドの上をごろんごろんと転がっている。
子供か、と胸中で突っ込む興吾の耳に、また笑い声が聴こえた。
外からだ。菫ではない。
張り出し窓を開け、外気に耳を澄ます。
「あははははは」
子供のように甲高い笑い声。
山の中腹である。早くもすだき始めた虫たちの音の凝る、暗闇の中。
その時、興吾は霊感と両の眼で視た。
上半身裸、腰には蓑のような物を巻き、何より異様なのは目が顔の中央に一つの子供を。
両手に樹の枝を持っている。
「……山童か?」
山童と書いて「ヤマワロ」と呼び、子供のように背丈が低く、毛深い猿人のような妖怪で、九州地方を中心とした西日本の山間部に棲むと言われる。地方によって様々な呼び方があり、沖縄のキジムナ―なども、この山童の系統の妖怪と思われる。
沢蟹を好んで食べると言うから、近くの川近辺に生息しているのか。
山童は笑いを止めると真っ直ぐにその一つ目で興吾を見た。
「お前の姉からは、秘密の匂いがする。ぷんぷんと、匂うてきおるわ」
笑い声と姿からは予測出来ない、深い谷間から響くような声だった。
菫に秘密があることくらい、興吾とて承知している。夜闇の暗さに負けぬよう、紫色の眼光鋭く切り返した。
「だから何だ」
「その秘密、知りたくはないか」
「妖怪に貸す耳はない」
山童は小首を傾げた。仕草だけ見れば愛嬌があると言えないこともない。
「お前の姉は、母を刺したぞ、刺したぞ」
興吾が息を呑む。
「そしてお前の兄は、」
続きは聴こえなかった。窓がぴしゃりと閉められたからだ。
上を仰ぎ見れば酔いの名残りが一切消えた菫の顔。
唇はきつく結ばれ、冬の月のように冷徹な目をしていた。
興吾が初めて見る顔だった。