問わず語り
菫は顔を巡らせ、興吾の霊刀に咲く、ヒメジョオンの白い花を見る。別荘に入るまでに摘んでおいたのか。
「隙だらけだぜ、菫」
「何の悪ふざけだ」
興吾がにっ、と笑う。
「鍛錬しようぜ。折角、こんな山奥まで来てんだ。思う存分、霊刀を奮えるだろ」
菫は驚かされた分の苛立ちも込めて、荒っぽい溜息を吐いた。
「荷物の整理が済んでからな」
「おっせーの。これだから女は」
「女性蔑視発言」
黙々とボストンバッグから衣類などを取り出し、ハンガーに掛けるべき服は備えつけのクローゼットにあるハンガーに掛ける。二人部屋ということもあって、用意された部屋は広々として、調度品も過不足なく整い、且つ気品があった。山だからか、蜩の声がいつもより大きく聴こえる。昼食を全員、『パブーワ』で摂ってからこの別荘に来たが、夕刻までまだ間がある。菫は若草色の八百緑斬を今か今かと弄んでいる興吾を見て、やれやれと思った。
「余り山奥までは行かないぞ。危険だからな」
「解ってるって!」
華絵には散歩してくると言って二人は外に出た。尤も、興吾の手に八百緑斬があるので、何をしに行くのか、華絵には一目瞭然だっただろう。着替えたサマードレスから覗く肩を竦めて微苦笑していた。
清流の聴こえる、適度に開けた土地に来たところで、菫は足を止めた。ここなら良いだろう。蜩と野鳥の声が良い効果音だ。
周囲は楡の樹に囲まれている。神韻とした厳かな雰囲気が漂う。楡の若木の低位置にある一枝に菫は手を掛けた。若木を枯らすのは忍びないが、丁度、菫の手の届く位置に枝があるのだから仕方ない。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
菫の折り取った枝の先から銀の光がこぼれ刀身が現れ出る。
興吾の目が好戦的に輝く。まるで新しい玩具を前にした子供だ。だがこの子供が舐めてかかれない虎であることくらい、姉である菫には先刻承知だった。
蜩と野鳥、それから清流の音を耳にしながら、姉弟は対峙した。
興吾は天の構えを取った。火の構えとも呼ばれる上段の構えである。攻撃に適し、防御には向いていない。興吾がよく取る構えだ。
対する菫は、無形の構え。両手を脇に垂らし、足を肩幅に開く。この姿勢からは如何なる攻撃も可能であり、また、無防備であることから、余程、腕に覚えがなければ取れない構えでもある。
普段の菫は正眼の構え、人の構え、水の構えとも呼ぶ構えを取る。
菫はこの機会に、新しい境地へと進もうとしているようであった。
姉の背後に巨大な龍を見た、と興吾は思った。
大瀑布を背後に巨躯を悠然とうねらせる龍。
躊躇いは瞬時、興吾は上段からそのまま菫に向かい突進し、八百緑斬を振り下ろした。ゆらり、と寸ででその刃をかわした菫は、仄かに微笑してかわした流れに身を任せたまま、銀月を興吾の肩目掛け袈裟懸けに斬った。斬ったのはほんの皮一枚。熱く滾る血を寧ろ歓迎するかのように、興吾もまた返す刃で銀月そのものに打ち込む。
若草と銀色の交錯。
菫はこれを摺り流し、興吾に足払いを掛ける。つんのめった興吾の無防備な背中に銀月の白刃が迫る。興吾は寸毫も間を置かず刃を避けながら身を斜め上に起こした。とん、と地面を蹴ると、後方宙返りし、菫から距離を取る。
菫はまたもや、無形の構えで弟を待つ。
襲い来る八百緑斬。迎え撃つ銀月。
刀に気を取られる菫の首横に、興吾の回し蹴りが入る。咄嗟に身を引いて打撃の勢いを菫は殺し、逆に回し蹴りの後、まだ体勢が整わない興吾に銀月で斬り掛かる。辛うじて受ける興吾。受けて後、退いて間合いを取る。
場違いなように蜩の声が響く。近くではない。どこか遠くで鳴いているようだ。
野鳥の囀りは途絶えている。殺気に怯えたか。
八百緑斬が溶け込むような、緑と茶の空間の中、白い靄も湧き、神仙郷さながらである。
(お前はその刃を母さんにも向けたのかよ)
とても口に出しては訊けない問いを、興吾は菫の姿に心中で問い掛ける。
うそなしのはなしの人外の台詞は、興吾の理解を超えていた。苦しそうだった菫。皮肉なことにふざけて否定して見せた駿の言動が、その台詞の真偽を興吾に判じさせていた。
八百緑斬の柄を強く握り直す。
菫は相変わらず無形の構え。
下段から斬り上げる。防がれ、刃を弾かれる。
(こんな風に)
弾かれた刃を回転させ、菫の胴を狙う。同時に、中段回し蹴りを放つ。
ことごとく防がれ、逆に深く攻撃し過ぎた興吾の開いた胴を狙われる。
(刃のように、お前は訊いても弾くんだろう)
興吾が詰問しても、菫はきっと悲しそうな顔で首を横に振る。
そうなるともう、興吾にはそれ以上は問えない。柔らかな、そして切迫した悲哀の色に、興吾の疑念は弾かれて。きっと全てが判るのは全てが終わった時で。
菫を悲しませると解っていて、問い質すことなど出来ない。
弾かれると解っていて、問い質すことなど出来ない。
澄んだ金属音を響かせて、興吾の八百緑斬が折れる。霊刀の強弱は霊力の強弱に直結する。今はまだ、菫のほうが興吾より分があるのだ。二つに折れ、無に帰した八百緑斬の名残りの朽ちたヒメジョオンを興吾がじっと見る。背中に流れる汗は滝のようだ。
潮時と見て、菫も銀月を無に帰す。残った楡の枝をそっと地面に置く。菫の額にも、汗は浮かんでいた。
日が傾いてきた。
「別荘に戻ろう、興吾。この涼しさだ。汗を流さないと、風邪をひくかもしれない」
菫の労わるような声に、興吾は黙ったまま頷いた。菫の力を凌駕すれば、自分はもっと頼られるだろうか。秘されている事実も教えてもらえるぐらいに。そんなことを、考えていた。
「やーっぱり、あんたたち、やんちゃしてきたのね」
別荘に戻るなり、待ち構えていたように華絵に捕まった。菫はうやむやに答え、興吾ははっきり鍛錬だ、と明言した。
「汗掻いたでしょ。お風呂に入りましょ、菫。ジャグジーバス。興吾は部屋のバスルーム使いなさい」
このあたりの男女差別は、まあ仕方ないものと興吾も考える。別段、広い風呂に執着もない。一人部屋の風呂の蛇口をひねり、湯が溜まるのを待った。
菫は興吾に申し訳なく思いながら、華絵と木が周囲にふんだんに使われたジャグジーバスに浸かった。華絵は鼻歌混じりに身体を洗っている。見事なプロポーションだな、と菫は惚れ惚れしてそれを眺めた。華絵は強い、と菫は思う。戦力的な意味ではなく、精神的な意味で。初恋相手の翔を亡くし、菫についても思うところは色々とあるだろうに、それを面に出さない。ざっくばらんに明るく振る舞う。
「あの子に何か訊かれた?」
鼻歌のあと、華絵が身体を洗う手を止めることなく菫に尋ねた。
「――――いいえ。何も」
「そうでしょうね。ああ見えて、気遣いが出来る子みたいだから」
身体を洗い終わった華絵がジャグジーバスに浸かる。菫は先に洗わせてもらった。
緑がかった瞳の、妙齢の美女に見つめられると、菫でも何だかどぎまぎしてしまう。
「それで、良いのよ」
「え?」
「菫はそれで良いの。言いたくないことは言わなければ良い。貴方はたくさんのものを抱えているようだから、時々、心配になるけれど。口を閉ざしたほうが救われることもあるわ」
「…………」
蜩の声が浴室にまで聴こえる。
なぜ鳴いているのだろう。
何かが悲しくて泣いているのだとしたら、こんなに切ない音色はない。