ハッピーホリデイ
頑なに閉ざした、または閉ざされた思い出の向こうに、揺れる紫の花畑がある。蜜蜂が歌い、天にある陽は世界を祝福するようだった。その思い出はステンドグラスのように色彩鮮やかで、頬に受ける陽射しまで鮮明で。
幸福と災禍が同時に在る記憶にどう処すれば良いのだろう?
さよならと言った兄に問いたい。一体どれだけの覚悟を以てして、あの花園に臨んだのか。妹に永訣の別れをせんと、先を急いでいたのか。自らの死を予期していたと?
甘く甘く優しい砂糖と苦く苦く厳しい香辛料の併存に、困惑せざるを得ない。世界は輝き、その為に尚残酷さは浮き彫りとなった。
赤い血。
赤い血が流れたあと、父と母は深く嘆いた。嘆きは汚濁を呼び、父は失意の内にも霊刀を奮うこととなった。その負荷は如何ばかりのものであったろう。
夢のように幸せで安穏とした日々が、ある日、突然、足元から崩れた。人の幸いは砂上の楼閣に似ている。
「だからさあ、海に行こうって。海!」
「この時期だと、もう海月が出てるでしょ。嫌よ」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ、まだ海月が出てないスポットもあるって」
「うちのプライベートビーチにはもう出てるのよ。そこらの海水浴場で芋洗いなんてい・や」
研究室で問答しているのは駿と華絵だ。
菫の深淵なる思考も賑やかな遣り取りによって頓挫した。正直、助けられたと思う。考えても答えのない思考は、何の実も結ばない。せめて暁斎に尋ねることが出来れば多少、思考の迷路が開けるのだろうが、彼に語る気がないのは明らかだ。
「ウィスキーボンボン……」
「ん?何、菫。食べたいの?」
「あ。いえ、そういう訳では」
「ウィスキーボンボンならあるぞ」
在室だった持永が、花柄の丸い缶を出してくる。勧められ、断るのも気が引けて、菫は缶に行儀よく収まっていたウィスキーボンボンの、ピンク色の包みを取り、中身を口に放った。甘さと、洋酒の風味。暁斎に貰った物もこのような味だっただろうか。よく思い出せない。ただ、兄の喪失を思い出し、悲しさと遣る瀬無さが菫の胸を占めた。
思わず涙ぐむ菫に、持永が慌てたように的外れのことを言う。
「辛子は入ってない筈じゃがのう」
「いえ、美味しいです。ありがとうございます」
駿が斜めに傾がせた椅子を絶妙なバランスで前後に揺らしながら、菫に声を掛ける。
「なあなあ、菫も行きたいだろ? 海」
「水着ウォッチングなら一人で行け」
「そうそう、駿は下心が見え見えなのよ」
「だって最近さあ、色々あったじゃん? ここらでぱーと憂さ晴らしにさあ」
「山ならうちの別荘を貸すわよ? 近くに川も流れてて、泳ぐことも出来るわ」
「お。豪気。それも良いねえ」
「教授もご一緒にどうですか?」
「うーむ。魅力的なお誘いじゃな。学会や講演とのスケジュールの都合がつけば、お邪魔させてもらおうかのう」
そう言えば御倉財閥は海辺にも山にも別荘を持っていた、と菫は思い出す。まだ神楽家が隆盛を誇っていた頃、互いの別荘を行き来したものだ。御倉家の別荘も神楽家の別荘のように洋風で、しかし規模はあちらのほうが大きく、華やかだったと記憶している。
修士論文の執筆にも、山荘は良い環境かもしれない。
「菫もどう? 一緒しましょうよ」
誘ってくれる華絵が、ここのところ、菫に心労の翳りがあるのを見越して心配してくれているのだと判る。
「はい。是非、お邪魔させていただきます」
「俺も行くぞ」
黒い革張りのソファーに座り、知恵の輪で遊んでいた興吾が、顔を上げずに当然のように名乗りを上げた。
「中ヶ谷遙……」
歌を諳んじるように、暁斎は京史郎から聴かされた名を呟いた。
「それが汚濁を増幅させている張本人の名前ですか」
「はい。しかし、彼一人だけではなく、どうやら徒党を組んでいるようです」
「ほう」
一言、暁斎が答える。その答える刹那、黒い単衣が敵意に膨張したように京史郎には見えた。細められた薄紫の双眸は、紛れもなく殺意の煌めきをこぼし。
「まだ若いですが腕は確か。二刀流を使います」
「面白い話ですなあ」
淡々とした遣り取りだが、主に会話の受けてとなる暁斎の声には刃めいた鋭さが秘められていた。方丈の間には今日も蝉の合唱が聴こえる。
自分よりも大きく、その声を捉えているのだろうなと京史郎は思う。
見えずの暁斎、されど視えたる。
まことしやかに囁かれた、畏怖すべき存在は失った視覚を他のあらゆる感覚で補っている。
「そう言えば今日は購読してる少年誌の発売日でしたわ」
殺気が綺麗さっぱりと消え、暁斎がそんなことを言ってくる。
京史郎は言葉を探しあぐねた。
「読まれるのですか」
「音読してもらいましてん。上手な人がいて助かりますわ」
京史郎は、少年漫画の朗読を聴く暁斎を想像して、何とも言えない妙な気分になった。
「殺しても構いませんね」
不意に、暁斎の声が刃を取り戻す。その振幅に京史郎は目眩がする。
「中ヶ谷とやらをですか」
「言うまでもありません」
「それこそ、答えるまでもありません」
暁斎が薄く微笑む。
この時ばかりは、京史郎の声にも刃が混じり、暁斎と意を同じくしていた。
鳴き止んでいた蝉が、二人の様子を窺うように、そろそろと再び鳴き始めたのは、それから少し経ってからのことだった。
御倉家の別荘に泊まりに行くと美津枝に伝えると、案の定、美津枝は、持参すべき土産の心配をあれこれとし始めた。電話での通話越しでも、美津枝が頬に手を添えて考え込んでいるのが判る。
『デパートの、老舗の和菓子屋さんのお菓子を準備しておくわ。ええと、瀬秀庵さんので良いわね。お邪魔する前に取りにいらっしゃいね、菫』
「うん」
『それから興吾に、くれぐれも失礼がないように目を配って。あの子、年上を年上とも思わないところがあるから』
「解った」
笑いを噛み殺しながら菫は頷く。キッチンに立つ興吾は、真剣な顔で味見をしている。
「母さん、身体の調子はどう?」
『元気よ? 父さんにも訊かれたわ。貴方たち、ちょっと心配し過ぎ。倒れたのはもう何年も前で、それも一度っきりなんですから』
「そうだね」
菫の笑みに哀の色が宿る。決して美津枝に悟らせはしないけれど。
通話を切った菫は、しばらくスマートフォンを眺めていた。
大好きなお母さん。
大好きだから、刃を向けた。
貴方は私を恨むでしょうか。
翌々日。持永が運転する大型のレンタカーに乗って、一行は御倉家の別荘に向かった。九重連山。大分県玖珠郡九重町から竹田市久住町北部にかけて連なる火山群の総称である。御倉家の別荘は山の中腹にあり、舗装された道路も通っている。深山幽谷の風情とまでは行かないが、それでも山の空気は十分に澄んで、野鳥の囀りが耳に楽しい。
本当であれば華絵は家のお抱え運転手に別荘への送迎をさせる積りだったらしいが、持永が、それでは心苦しいからと運転手役を買って出たのだ。こういう、権威に驕らない持永の人柄は、学生のみならず広く人望を集めていた。
洋館と言って差し支えない別荘には管理人がいて、日頃から別荘の手入れに余念がないそうだ。ガーデニングにも凝っているとかで、洋館の庭には夏を盛りとする向日葵を中心に、花々が咲き乱れていた。当たり前だが菫の花はない。しかし菫はその当たり前のことを確認せずにはいられず、確認した後にはほっとした。紫の花畑は慕わしくも忌まわしい。
菫と興吾は同じ部屋を割り当てられた。これは部屋数の節約と言うより、菫を気遣う華絵の差配であろうと推測出来た。
美津枝に渡された菓子折りは、既に華絵に献上してある。華絵は気を遣わせたわね、と苦笑しながらそれを受け取っていた。部屋の窓からは、華絵が言っていた清流が見えた。ちら、と視界の隅に映ったのが翡翠だったように思えて、菫はもっとよく見ようと窓に顔を近づけた。翡翠に気を取られている菫は気付かなかった。気付いたのは首にひやりと冷たいものが触れた時。――――刃の感触。
興吾が、八百緑斬の切っ先を菫の首筋に当てていた。
ご感想など頂けますと、今後の励みになります。