ラブ マザー
駿は上も下も解らない空間にいた。周囲には自分の映る鏡、鏡、鏡。
鏡面結界に囚われたのだと悟る。やがて鏡面結界は重々しい音を立て、開かれる。開いた先は研究室ではなく、駿のいた養護施設を映し出していた。間違えようもない。赤いペンキ塗りの屋根、黄色い菜の花。形ばかりの小さなブランコが二つ。
ぶかり、と水中に没したような違和感が過ぎたあと、駿の前に両親に手を引かれてくる少女の姿が浮かんだ。さらさらの長い髪。いつ見ても、大体、ワンピース姿の、絵に描いたような女の子。駿は我知らず笑みを口元に刻んだ。
「あれは私が十二歳の春だった。両親と兄さん、暁斎おじ様と興吾と一緒に、家の別荘に出かけた。春の……、」
そこで菫は震える息を吸い込む。華絵の心配そうな視線を感じる。
「春の、晴天の日だった。兄さんに、菫の花畑を見に行こうと誘われた。兄さんはどこか、焦っている風にも見えた。バイオレット。僕の可愛いお姫様。やがて花畑に着いた兄さんそう言った。それから、それから、」
酷い頭痛がする。ズキズキとこめかみが痛む。思い出すなという警鐘か。
だが少女は先を要求する。無情にも。
「それから?」
「さよならと……、兄さんはそう言った。さよならと言ったあと……、気付いた時には、もう、兄さんは血塗れで、」
耐え難い頭痛と、菫は必死で戦った。
「このことは自分たちだけの秘密だと言った。秘密だと言って、死んだ」
死んだ、のフレーズで、室内に影が射したようだった。
女子高生は思案するように、吟味するように菫を凝視した。
「憶えているのはそれだけみたいね。残念。惜しいけど、貴方も失格だわ。バイオレット。期待していたのに」
菫は水の中にいた。温かな水だった。
涙の凝りのように、悲しみと、それを慰撫する優しさの溶けた水だった。
何もかもを放置して、忘れてしまいたかった。
忘却への誘惑は、抗い難い甘さだった。
だが菫の前に倒れた母が映し出される。
(ああ……)
これは、あの時の。これもまた、菫の意識の深層。
あの少女に、高慢にも人の傷を抉るような行為を求める少女に、こちらを話していれば良かったとでも言うのか。
夏だった。暑い。菫は高校生だった。
もう隠師としての能力も、霊力の扱い方も心得ていた。それが災いとなり、幸いとなった。
倒れていた母。父は不在。
救急車のサイレンの音。病院で母に付き添っていた菫が真っ先にそれに気付いた。
菫に出来たことは、いや、やろうとしたことは一つしかなかった。
駆けつけた父にそれが知れた時、父は菫を叱責せず、ただ抱き締めた。
肯定されたと思い、安堵して菫は泣いた。
そして同時に、重い十字架を背負ってしまったことを自覚した。
さらさらの、長い髪の少女は、駿を見ると笑い掛け、手を振ってくれた。
駿は気恥ずかしい思いをしながらも、そのことが嬉しく、手を振り返した。
その少女たちが施設を訪れなくなった。駿は施設の職員にそれとなく理由を尋ねた。職員は駿の問い掛けに少し表情を暗くして、ああ、あそこのご一家には不幸があってね、とだけ返した。不幸の内容までは解らなかった。
駿が隠師として独立して動けるようになるまでには時間を要した。静馬の祖父たちが徹底して駿に霊刀の処し方を叩き込み、物になると判断された頃、汚濁討伐の指令も受けるようになった。だが上も、駿の真の霊刀の在り様は知らない。知ればたちまちにして、隠師の業界から締め出されただろう。静馬とその祖父たちは、巧みに駿の真の霊刀の一件を隠蔽した。
ようやく、駿が隠師として独り立ちした際、神楽家を襲った不幸を耳にした。あの少女は心を痛めているだろうと思い、次に逢う時は自分のことなど忘れているだろうと思った。
大学で菫と再会した時、様変わりした様子に、一瞬、驚いた。だが、彼女の心に遺された爪痕を見るようで、そしてどうやら、やはり駿のことなど忘れているらしい菫相手に、すぐにいつもの仮面を被った。人間が一番作りやすい仮面は笑顔だ。嘘が吐きやすいのだ。落胆も哀れみも誤魔化せる。
また、駿の周囲が鏡面だらけになった。
〝母さんっ、お母さんっ〟
菫の悲鳴がどこからか聴こえる。
傍に行ってやりたいのに出口も何も解らない。
駿の視線の先に、項垂れた菫の姿が映し出される。
黒い闇の中、そこだけがスポットライトを浴びたようだった。
菫の細い、白い手がゆっくりと動く。
眩くも美しい白銀の光が溢れる。
(銀月……)
菫はゆっくりとそれを横たわる母に向けて振りかざした。
駿と菫の覚醒、そして両人の現への帰還は同時だった。
二人共、顔から血の気が引いていた。
異空間に飛ばされる前に、応接セットのソファーに座っていた体勢に戻っている。あたりが薄暗い。窓の外を見れば既に日が落ちようとしていた。現と異空間との、時間差が為せる業だ。
華絵と興吾がひとまずは安堵した顔で二人を見ている。
女子高生はと見ると、まだ彼女はちょこんと向かいに座ったままだった。
菫たちと目が合うと、満足そうに笑う。ぺろ、と唇を舐めた舌は赤く、食事を済ませた猫のようだった。
「美味しかったわ。貴方たちの記憶。残念ながら、封じられたものにまでは私も手が出せなかったけれど」
「これで満足して帰ってくれるかい」
駿がどこか物憂い口調で少女に尋ねる。
「ええ。お付き合いくださってありがとう。ああ、そうそう、お姉さん。お母様をお大事にね。間違っても、もう、刃を向けたりしちゃ駄目よ?」
「早く帰れっ!」
駿が彼にしては珍しく声を荒げ、女子高生はそれに対してころころと笑いながら研究室から去った。
研究室に静寂が満ちる。
「おい。母さんに刃を向けるって……」
「冗談でしょ? あの子の」
「何言ってんの、華絵さん。冗談に決まってんじゃん!」
「…………」
駿の陽気な声、菫の苦しそうな様子に、興吾も華絵も何も言えない。
駿には事情をきっと知られてしまった。
菫がそっと彼に視線を遣ると、思い遣るような微笑が返ってきた。
それが答えの全てだった。