うそなしのはなし
都市伝説というものがある。
広く一般に流布し、まことしやかにその怪異を囁かれる。大半は噂で終わることが多い。そして央南大学のある町にも、今、ある一つの都市伝説が誕生しつつあった。
曰はく、おかっぱに髪を切り揃えた女子高生が、黄昏時から夜にかけて、「嘘なしの話を聴かせて」と通行人に迫る。これを邪険に振り払った者は三日三晩、高熱に喘ぎ床に臥すことになると言う。また、面白がって作り話をした場合も同様。唯一、難を逃れるには、正直な思い出話を語るしかない。そうすれば件の女子高生は、満足そうに笑い、姿を消す。また、そうして難を逃れた者には、幸いが訪れるのだそうだ。
央南大学文学部史学科持永研究室は、珍客を迎えていた。緑陰の慕わしい季節である。尤も室内には緑陰を恋うでもなく冷房が入っていたが。
悪寒がするのはその冷房の為だけではない、と菫は思い、応接セットのソファーの正面に座る女子高生を見る。前髪も後ろ髪も綺麗に真っ直ぐ切り揃えられ、色は黒々として艶やかだ。すっと通った鼻筋にアーモンド型の瞳。桃色の唇。総じて、少し古風な美少女の風情だった。唯一、瞳孔が猫のように縦長であることが特徴と言えば特徴か。
「貴方がその……うそなしのはなしの当事者と言うのか?」
「ええ」
菫は両脇に座る駿と華絵の顔をそれぞれに見遣る。両人共、首を横に振り、菫にこの場を一任するという姿勢を示した。興吾は菫の机から、こちらを遠巻きに眺め、最初から関与しようという気配がない。
そもそも菫がノックの音に研究室のドアを開けたのが運の尽きだった。実家から戻り、数日振りに研究室に顔を出すとこれである。籤運でも悪いのかと菫は己のつきの無さを恨みたくなった。
何せノックをした女子高生は、自分を都市伝説の当事者と語ったのである。
引き寄せられるままにこの研究室の戸を叩いたのだと。
張られた結界をいとも易々と越え。
「ここには、面白い嘘なしの話がありそうだから」
これが理由だった。女子高生はにこやかに菫たちに要求する。
〝うそなしのはなし〟を。
「君がその、都市伝説の主だという証拠はあるのかな」
駿が、フェミニストらしく丁重に訊く。因みに彼女が人外であった場合、無駄になるかもしれないが、一応は客として、冷蔵庫にあったオレンジジュースを出してある。
駿の言葉に女子高生が笑った。
「私に嘘なしの話を語らなければ、病魔に憑りつかれるわ。それが証拠になるかしら」
無邪気な顔で物騒なことを言う。しかも台詞に合わせて、瞳孔をすう、と細めて見せた。それこそが証左だとでも言うように。感じる悪寒からしても、彼女が人外であることは確かだろう。この研究室に導かれたのは不思議な引力、と言うより、菫の存在ゆえだろうと菫自身は見当をつけている。少女は笑顔を崩さない。まるでこれから遊戯が始まるのを待つ子供だ。
「どんな話でも良いのか?」
観念したように菫が問うと、彼女は否、と答えた。
「貴方たちの記憶の深層にある思い出話が良いわ。じゃなきゃ嫌よ。帰らないから」
口振りばかりは童女のように、女子高生の形をした人外は可愛らしく拗ねた。
居合わせた顔触れが黙り込む。記憶の深層にある思い出とは、迂闊に、軽々しく語れるものではない。言わば秘した心の宝に等しい。それを女子高生は寄越せと言うのだ。無体な話だった。しかし霊刀を持ち出す気にもなれない。女子高生からは汚濁の気配も禍々しい気配もしない。どちらかと言うとバンシ―のような、妖精のような存在に近いのではないかと思えた。
誰が語り部となるか。
譲り合うような、または押し付け合うような沈黙が数秒間、流れた。
女性陣を庇おうとしたのか、口を開いたのは駿だった。
「俺の親は事故で死んだが、両方共に隠師として活動していた。霊能特務課に勤務して。業績は良かったらしい。俺の親が生きてる内は、色んな親戚がすり寄ってきて、親を褒め称えた。中には借金を頼む奴もいた。けど、事故でいざ親が死ぬと、世話になった筈の親戚たちは、掌を返したような態度を取った。俺は児童養護施設に入れられ、そこで養育された。春になると菜の花畑が目に沁みるような、大きな花壇があった。その菜の花の黄色で埋め尽くされる花壇を見るのが、俺の密かな楽しみだった。……時々、施設を訪れる女の子がいた。菜の花じゃないが、春の花の名を持つ子だった。俺はその子に逢うのも楽しみだった。菜の花と、その子が……、施設にいる俺の大きな存在意義となっていた。だがある時。中学に俺が上がる頃から、その子は来なくなった。彼女の家が隠師で、身寄りのない俺を気に掛けて施設を訪れていたと知ったのは、だいぶあとになってからだ」
菫も、華絵も興吾も、女子高生と同様に駿を凝視している。
菫の記憶の底に、それは眠っていた。両親と訪れた児童養護施設。揺れていた菜の花。
愛おしそうにそれを見つめていた少年。あれが駿だったとしたら、自分と駿は随分、昔に出逢っていたことになる。大学入学時が初対面ではなかったのだ。
女子高生が楽しそうに足をぶらぶらさせる。見た目の年齢相応の、無邪気な動作だった。
「素敵素敵。でも違うわ」
「え?」
「貴方には、もっともっと深い思い出話がある。恐らく、淡い初恋話で私を満足させようとしたのでしょうけれど」
失格ね、と女子高生が呟くと、瞬時に駿の姿が消えた。まるで煙のように。
菫がテーブルの花瓶に挿してある百合の花を抜いた。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
眩い銀光が刀身を形作る。
もうこうなっては女子高生を妖精のように無害と判じることは出来なくなった。
「村崎を返してもらおう」
「綺麗な刀ね。でもそれで私を斬ると、さっきのお兄さんはずっと戻ってこられないわよ?」
「……どうすれば良い」
「話して」
あっさりと、少女がねだる。
「貴方の深層の、思い出話を」
猫のような目がゆっくりと瞬く。
「話して、バイオレット」
菫はしばらくの逡巡の末、銀月を無に帰した。あとに残るは枯れた笹百合。
華絵が菫の腕を引く。
「やめなさい、菫。……私が話すわ」
「いえ、良いんです、華絵さん。誰かが話す必要があるのなら、私がまず語るべきだった」
菫は女子高生の衣を被った人外を睨んだ。
「恐らく貴方は最初から、それが狙いだったのだろう」
我が意を得たりと頷く少女。ごく、楽しげに。
「貴方の深層が、一番美味しそうで、興味深かったから」
「解った。話そう。満足したら、村崎を返してくれるな?」
「ええ、約束するわ」
少女の確約を取り付けると、菫は頷いた。
「菫っ」
華絵が悲壮な声を上げる。興吾も椅子から立ち上がっていた。
菫は目を一旦閉じ、開くと語り始めた。
彼女はその瞬間、意識の上で水色のワンピースの少女に戻っていた。