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マドモアゼルの憂鬱

挿絵(By みてみん)





挿絵(By みてみん)






 御倉財閥の令嬢・華絵の朝は王侯貴族のように優雅だ。

 枕元の金細工の目覚まし時計は飾りで、前日に起こして欲しい時間があれば、その旨を使用人に伝える。伝えないということは、要するに起こすなという意思表示であり、使用人たちは従順にその意志に従う。

 前日に何も言わなかったその日も華絵の意志は徹底され、使用人に行き渡っている筈だった。

 しかし。


「失礼します。お嬢様。奥様が、食堂でご朝食を是非ご一緒にと仰っておられます」


 華絵は絹のパジャマに包んだ身を、天蓋つきベッドの上でしどけなく彷徨わせながら、うーん、と伸びをする。

 すっかり寝とぼけていると思われた華絵の、緑がかった瞳が自分を向いた時、まだ少女の面影を残す使用人はどきりとした。その緑の双眸は既に華絵が覚醒していることを物語っていた。


「い、如何なさいましょう?」

「食堂ね。解ったわ」


 使用人が去ったあと、華絵はサイドテーブルに置いた写真立てを眺める。


「おはよう、翔さん」


 初恋の相手である神楽翔を、華絵はいじらしく今でもまだ想っている。彼の年齢を自分が通り過ぎても尚。

 切ないように目を細めて、写真の翔に笑ってみせてから、華絵は身支度を始めた。部屋に幾つもある長方形の硝子窓は上方がアーチ型に湾曲していて、青空を緩やかに切り取って見せる。

 カツカツ、と室内履き用の靴で長い長い廊下を進む。


 華絵とその母である匡子(きょうこ)は総じて、正反対の母娘だった。

 華絵が洋風の衣服を当たり前のように着こなす一方、匡子は毎日、着物を身に纏う。

 華絵が洋食を好めば匡子は和食を好む。

 華絵が赤を好めば匡子は青を好む。


 そして華絵が隠師を続けようとすれば、元・隠師であった匡子はそれに難色を示した。

 今日もきっとその話か、または見合いの話になるのだろう。古風かもしれないが華絵は翔を忘れさせてくれる男以外に自分を委ねる積りはなかった。

 食堂で食べるのは、母である匡子の譲歩だ。彼女の好む和食であれば、朝食は座敷で摂ることになったであろうから。

 華絵は深い青のキャミソールにアイスピンクのパンツを合わせて食堂に向かった。

 ――――この色合わせはせめてもの母への気遣いである。


 食堂に着くと匡子は既にロイヤルミルクティーを飲んでいた。カップはマイセン。青い花柄が美しい、華奢なカップを、同じく華奢な手が扱う。アラビア文様の絨毯は、華絵の靴の音を吸収し、音を響かせない。その事実が匡子の心を平らかにすると、華絵は知っていた。

 長いクロスが掛かった十二人掛けのテーブルの端と端に着いた母娘の距離感が、そのままこの二人の心理的距離を表わしている。使用人が華絵にもロイヤルミルクティーを運んでくる。

 それからベーコンエッグ、各種ソーセージ、ヨーグルト風味のドレッシングがけのサラダ、ブロッコリーのマヨネーズ焼き、バターたっぷりのクロワッサン、果物等々のカロリーも栄養価も高そうな品が並ぶ。

 匡子は、今日は大島の紬だ。明るく青味がかった美しい色だ。


「それで、華絵さんはいつ、隠師を辞めるお積りかしら?」


 おっとりと、しかし直截に切り出す。これもいつものことだ。食後のコーヒーが運ばれてからだから、頃合いを見計らっていたのだろう。


「辞める積りはありません。お母様」


 華絵がこう返すのもいつものことだった。


「まあまあ、この子は」


 にこにことやんちゃな娘を窘めるような母の周囲の体感温度は下がっているだろう。要するにご不興なのだ。


「お母様も昔は隠師でいらしたのでしょう。颯爽と薙刀の霊刀を奮う様は凛然として、それはお美しかったと聞き及んでおります」

「昔の話ですよ」


 匡子は軽くいなしてコーヒーカップに口をつける。こちらはジノリだ。白一色だが波紋のような柄が美しい。

 匡子が気を取り直したように、にっこりとする。


「ではお見合いはいかが?親の欲目を引いても、華絵さんのお顔立ちですもの。お望みになられる方は多くいらっしゃるわ」


 既に華絵が大学生の頃から、見合いの打診は止まない。


「私には私の王子様がおりますの」


 食堂の空気が、しんと静寂の音を立てたようだった。


「――――神楽翔さんですか」

「はい」

「まだ……忘れられませんか」

「はい」

「このままでは悲しい恋と心中することになりますよ」


 匡子にしては思い切った言い様だった。だが華絵は大した問題ではないと、堂々と頷いて見せた。


「はい」


 匡子が大きな溜息を洩らす。空になった華絵と匡子のコーヒーカップを、影のように現れた使用人が下げた。


「忘れられない初恋ならわたくしにもあるわ」


 匡子が眩しいシャンデリアを見上げる。まるでそこに星を探すかのように。

 華絵には初耳だった。


「お相手はどなたですか?」

「あれはわたくしがまだ現役の隠師として活動していた頃――――」


 当時の匡子は、御倉財閥の末娘として箱入りで育てられた。隠師の家柄として汚濁を滅することさえ容認されたものの、匡子の両親、つまり華絵の祖父母は、匡子を物騒な世界に置くことに抵抗感を持っていた。ある日、匡子が霊刀で汚濁をあと一歩というところまで追い詰めた時だった。

 結界は袋小路に張られ、逃げ場などない。慢心していたのだろう。思わぬ汚濁の反撃に、匡子は咄嗟に反応出来なかった。そのまま汚濁に殺されると覚悟した時、キインという清涼な音が響いた。突然、現れた男は、黒い柄の素槍の霊刀を以て匡子を守り、汚濁を滅した。匡子が高校生の時の出来事である。相手の男は名前も言わずに立ち去った。緑の瞳が、とても印象的だった。

 匡子が大学生となり、今の華絵のように見合い攻めにされている最中、思い切って匡子は母に相談した。思う方がいる。きっと隠師なのだが、その姓名までは解らない、と。母は父を説得してくれた。親として、娘の命の恩人だと感じるところもあったのだろう。父は隠師の伝手を辿り、匡子の想い人を捜し当てた。肝心なのはここからで、幾ら匡子が彼を慕っていても、彼にその気がなければ話は成立しない。匡子の父はフェアプレイを旨とし、前途ある青年に御倉の権威を以てして無理強いする積りはなかった。


 ところが、話をするだに青年の様子が落ち着かなくなっていく。挙句には匡子さんは今でもお元気ですかと訊き出す始末。詰まる所、彼も匡子を忘れ難く思っていたのだった。二人は大学卒業を機に結婚した。


「……ねえ? お母様」

「何ですか。華絵さん」

「それってお父様とお母様のお話よね? のろけてらっしゃるの?」

「いいえ。わたくしにも貴方のお気持ちが解らないでもないと、そう言いたいだけです」


 解るものかと華絵は思う。

 自分と匡子では物語の結末がまるで違う。赤と青、白と黒のように。

 二人はそこで黙り込む。広い食堂を二人の為だけに空調が効いていると考えれば、それも贅沢だ。

 華絵は匡子を羨んだ。初恋の相手と添い遂げることが出来た母を。自分には永遠に許されない幸せだ。華絵の御倉家と菫の神楽家は古くから親交があった。当時、妹の菫を「僕の可愛いお姫様」と呼ぶ翔を見て、菫をどれだけ羨しく思ったか解らない。


「それで、華絵さんはいつ、隠師を辞めるお積りかしら?」


 話が一巡して、きりがないと思った華絵は、断りを入れてから食堂を退室した。

 部屋に戻った華絵は、机の上に置いた宝石箱を開ける。御倉財閥の令嬢が〝宝石箱〟とするにはありふれた、市販品の、けれど可愛らしい箱だった。蓋には菫の絵が描いてある。金の縁取りが、紫の花弁によく映えていた。中にはカサカサに干からびた、菫で出来た小さな指輪。


 あの惨劇が起きる前、神楽家の別荘で御倉家との親睦会が開かれた。

 あれは月夜の晩だった。

 コンコン、と華絵に割り振られた部屋のドアをノックする音。恐る恐る開けると、柔和な笑顔の翔がいた。


〝今夜は月が明るい。菫の群生を見に行かない?月下の紫は綺麗だよ〟


 とくん、と胸が一つ鳴った。ネグリジェの上にスプリングコートを羽織り、華絵は翔に導かれ、別荘を抜け出した。胸の高鳴りはいや増すばかり。

 夜に二人きり、という背徳感にまだ少女だった華絵は酔った。


 菫の花畑は思った以上の壮麗さだった。


〝ほら、華絵ちゃん。菫の指輪だ〟


 そう言って翔は、華絵の指に菫で作った指輪を嵌めてくれた。

 今、華絵の手元に残る、唯一の翔の形見だ。


〝今度また、菫とここに来るんだ〟


 珍しく感じたのを憶えている。翔は隠師としても大学生としても忙しく、そうそう別荘には来られない身の上と知っていたからだ。


〝その時、僕にはどうしてもしなければならないことがある〟

〝何をですか?〟


 翔は笑って答えなかった。笑顔はどこか決意に満ちていて、月光を受けた頬の白さが際立った。


〝上手く行くように祈っていて〟


 ただそれだけを言って、菫の指輪を嵌めた華絵の指にそっと口づけした。


 そして翔はあの花畑で死んだ。

 しなければならないこととは何だったのだろう。

 それに失敗したから翔が死んだのだとしたら。

 やはり翔の死には、菫が関与しているのだろうか。

 ……今まで何度これらの問いをくりかえしたことか。

 ただ華絵は菫を守りたいと思った。きっとそれが翔の遺志だから。

 妹のように想うあの子を、遠くに感じることもあるのだけれど。


(ねえ、菫。貴方は何かを知ってるの?)


 今まで何度も尋ねようとしては呑み込んだ台詞。兄の死に、彼女が衝撃を受けなかった筈はないから。見守ることしか華絵には出来なかった。赤いクッションが敷かれた宝石箱の中のように、この世は優しいばかりの世界ではない。そっと宝石箱の金色の縁を撫でる。


 カサカサに干からびた菫の残骸が哀れで。

 報われなかった自分の想いが哀れで。


 小さな雨粒が、小さな宝石箱に降った。



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