愛に狂わば
ふらり火は、顔の箇所はよく解らないが、鳥の姿をしていた。それが過たず神楽家を目指して下降してきている。一刻の猶予もない。
菫は内心で母に謝罪しながら、庭に咲いていた竜胆を手折る。幾ら相性が良いとは言え、桜を枯らすのは忍びない。興吾もそれに倣い、二人は寝間着姿のまま、外に出た。火勢が増して轟轟とした火を纏うあれが、民家に落下したらどうなるか。菫も興吾もその可能性に思いを馳せ、戦慄した。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。銀月」
「飛翔する影は陽の鉄槌を受け足下に座す。八百緑斬」
現れる、それぞれの霊刀。人目につかないよう、簡易結界を張る。
「ふらり火はあんな業火じゃない筈だ」
「ああ。おかしい。前回の元興寺の時といい、人為的な力が作用している」
興吾の呟きに菫が応じる。
「待て。あの鳥の顔……。女性に見えないか?」
菫は目を凝らして、ふらり火の鳥の頭にあたる部分を見た。
それは嫋やかにして落涙する白い面の美女。
「事情を聴いてみる必要がありそうですねえ」
「暁斎おじ様!」
常人では入れぬ空間にいとも容易く侵入してみせたのは、安野暁斎だった。手には白菊の花。
「いやあ、遅れてしまいましてん。けどお蔭で、この場に居合わせることが出来ました」
照れたように白髪を掻く暁斎の、しかし盲目の双眼は鋭い。
「極北の王、清かなる龍影、召しませ夢を、銀滴主」
暁斎は銀滴主で、ふらり火の炎の部分だけを切るという離れ業をやってのけた。
菫と興吾はその剣の冴えに瞠目するばかりである。そんな二人の様子を介さず暁斎は言った。
「話を聴きましょ。神楽家では差し障りがありますよって、うちの寺で。二人共、遅うなるいう電話をお宅に掛けなさい」
否も応もなかった。寝間着姿で裸足のまま、菫と興吾は暁斎の、闇に溶け込むような単衣のあとをついて歩いた。ふらり火もまた、従順についてくる。菫たちと同じく、暁斎の背を追っているようだ。暁斎の単衣はともかく、白髪が闇夜では目につき、菫たちが彼を見失うこともなかった。不思議と人とすれ違うこともない。暁斎の簡略結界が作用しているのだ。
夜の龍切寺は昼間以上に森閑としていた。
暁斎は菫と興吾に足の汚れを絞ったタオルで拭わせた。
方丈ではなく暁斎が起居しているという離れに案内される。整頓された部屋には和綴じの書物から最近のハードカバーまで、あらゆる書籍があった。物書きという肩書は、伊達ではないらしい。中には当世流行りの漫画本まであって、菫を驚かせた。誰かに点字に翻訳してもらっているのだろうか。八畳程の離れに、菫、興吾、ふらり火が正座して畏まる様はどこか滑稽味があって、本人たちが真剣なだけに、よりその滑稽味は助長された。しかし暁斎は指差して笑うこともせず、緑茶を淹れて持ってきてくれた。
ふらり火の顔は改めて見ると美しい造りで、菫は、これを斬るのは至難だと判断した。しかもその美女は儚い白露のような涙を浮かべているのだ。彼女は緑茶に手をつけず、まず一礼してから身の上を語り出した。
天正年間(1573~1592)の頃、富山城主の佐々(さっさ)成政には、小百合という愛妾がいた。小百合は格別な寵愛を成政から受けていたので、他の奥女中から妬まれていた。ある時のこと成政が、出陣していた留守中に、小百合が小姓と密通していたという嘘の告げ口があった。噂を信じてしまった成政は、愛欲に迷って激しく怒り、小百合を庭先に出して一突きに殺し、更にその死体にも無惨な仕打ちを加えた。成政は小百合の一族まで処刑してしまった。小百合の一族は無実の罪に成政を恨み罵って死んだという。それ以来、夜な夜なふらふらと鬼火が彷徨い出るようになった。
「聴いたことあるなあ。鮟鱇切りですやろ」
陰鬱な口調で暁斎が言う。小百合が頷く。頷いた拍子にはらはらと露の涙がまた散った。
小百合の死体の受けた仕打ちである。樹に逆さ吊りにして、見るも無残に肉を削ぎ切る。
「信じられない」
茫然とした顔で菫が言う。こんなに綺麗でか弱そうな人を、そんな惨い方法で死んだ後まで貶めることが出来るとは。
興吾は黙って腕を組んで聴いていたが、菫と違いもう少し冷静だった。
「けどその不幸な境遇が、あんたが火事をばら撒こうとした理由にはならないぜ。そもそもふらり火は、そんなに力のある妖怪じゃない。どうしてあんなことになった?」
小百合はしめやかに語る。
ただ、自分が宙を浮遊していたら、膨大な負の霊力が注ぎ込まれたのだと。
昔の恨みもあり、つい暴走してしまった。今ではそのことを恥じている。
願わくば。
「引導を私たちに渡して欲しい?」
菫の声に小百合は頷く。
もう、浄土に参りたいのでございます、と。
その言葉に、菫には響くものがあった。美津枝の面影が小百合に重なる。
菫と興吾は目を見合わせ、それから暁斎を見た。
「よう解りました。ほなら、送ってさしあげましょか」
飄々として言うように見える暁斎に、菫はまだ気持ちがついて行かない。だが興吾は黙ってそれを見守る構えだった。
小百合は両翼を拝むように合わせる。
「銀滴主」
これを見越して新たに用意したのであろう白菊から現れた、世にも稀なる銀の宝刀。やはり雫が滴って見える。菫にはそれが小百合の涙とも見えた。
暁斎の剣に躊躇いはなかった。
一息に、小百合の首を刎ねる。
塵と化す寸前、小百合は生きていた頃の美しい総身を取戻し、満足そうに微笑して消えた。
最後に聴こえた言葉に、菫も興吾も信じ難い思いだった。
彼女は確かに言ったのだ。
これで成政様に逢いにゆけます、と。
「……あんな惨い仕打ちを受けてもまだ、好きだったのか」
「男女の心の機微ばかりは、永遠の謎ですよって」
「理解出来ねえ」
ひょっとしたら小百合は従容として死を受け容れたのではあるまいか。
例えそれが理不尽でも、愛しい人の刃に掛かるのならと思い。
悲しみ、怒り、恨み、……そして愛。
人の心は未曽有の坩堝だと菫は感じた。
「そう言えば暁斎おじ様、もっと早い時間に、うちの裏手にいらっしゃいましたよね?」
「僕がですか?」
「はい」
「いいえ。雑務と夕食でさっきまでそれどころやありませんでした」
「あれ?」
それならあれは見間違いだったのだろうか。しかし、こんなに特徴的な人を見間違うだろうか。菫は納得の行かない疑問を感じた。
サンダルを借り、暁斎に送られて家に帰ると、もう遅い時間なのに京史郎は起きていた。菫に事情を説明するように、と命じる。自分もと申し出た興吾を、お前は寝なさいと一蹴して京史郎は菫を書斎に招いた。
菫は見たこと、聴いたことの一部始終を語った。
「……そうか。御苦労だったな」
恬淡とした京史郎の反応に、菫は拍子抜けする思いだった。
肘掛け椅子に座り、向こうを向く京史郎の表情は解らない。
「さっき、母さんが倒れた」
「え……っ」
菫の顔から血の気が引く。冷水を浴びせられた心地だった。
「問題ない。私が補充しておいた。今はもう寝ている」
ひとまずはほっとする。――――ほっとすることの、罪深さ。
「……父さん。父さんは」
「何だ」
「ご自分を狂っていると思うことはおありですか」
ふ、と吐息のような笑みが聴こえた。笑みは嘲りの色を孕んでいた。菫へのではなく、自らに対するそれだ。
「何を今更」
菫は初めて見る人のように、京史郎の背中を眺めた。
翌日、夕方におがらを焚いて、京史郎と笑顔の美津枝に見送られながら、菫と興吾は実家をあとにした。降るような蝉時雨が未だ盛んな時刻だった。
菫の脳裏には小百合のこぼした白露と、京史郎の言葉があった。
何を今更、と。
暮れてゆく夕景を眺める。青く青く赤く。
何を今更。
自分もとうの昔に、あちら側の人間ではないか。
愛に狂った。