笑ってバイオレット
「興吾、忘れ物はないか?」
「ない。菫こそ」
「よし。じゃあ、行くぞ」
ガスの元栓を閉め、蔦植物の鉢植えにはいつもより余分に水を遣り、冷蔵庫にある賞味期限が危ない物は消化し、菫は嵌め殺しの窓硝子の色をそれぞれ確認するように見つめると、部屋を出て鍵を閉めた。
盆の季節だ。神道寄りの隠師の家系ではあるが、神楽家は建前上、浄土真宗ということになっている。盆暮れ正月と言うが、菫も盆の間は実家で過ごすことにしている。もちろん、興吾も一緒である。八月十三日から十六日の間、おがらを焚いて白い提灯を垂らし、檀家となっている寺の僧侶に読経を上げてもらったり、訪ねてくる親族の相手をしたりして、それなりに忙しい。訪ねてくる親族とは隠師が多く、自然、食事の席での話題も汚濁だの何だのということになる。
仏間に座卓、座布団を並べ、京史郎と菫たちを囲み、昨今の隠師事情や汚濁の出没に関する話が飛び交うのだ。今年の話題は何と言っても興吾の隠師就任だった。
「いやあ、まだ小さいのに大したもんだ」
「流石は京史郎さんのお子さんだな」
寿司を摘まみながらビールを飲み、畏まる興吾の頭を撫でる。興吾は大人しくされるがままになっているが、凄まじい渋面だ。
この席で、翔の話題を持ち出す人間はいない。翔は隠師として京史郎の跡を継ぐ者と親族からも将来を嘱望されていた。そこにあの悲劇である。そしてその場に居合わせた菫。
皆が気を遣い、翔というワードに触れぬよう、他の話で場を賑わせた。
しかし。
「最近、菫ちゃんもご活躍だそうじゃないか」
「そうだそうだ。元興寺を滅したって?これは京史郎さんの跡を継ぐのは姉弟争いになりそうだなあ」
「汚濁のほうも相当、やってるそうだし」
蛇の道は蛇で、こうした話もどこからか知られてしまう。
菫は薄い笑みを浮かべる。
十年前には菫たちの場所には兄・翔がいたのだ。この場は翔を悼む場でもある筈だった。菫たちを持て囃すのではなく。気遣いは解るが、そう考えてしまう。
そこに京史郎の静かな声が介入する。
「二人共まだ、未熟ですから」
しん、と場が静まり返る。京史郎は声を大にした訳でも荒げた訳でもない。
だが彼の声には酔客の口を噤ませる静かな圧力が確かにあった。
やがて気を取り直した一人が愛想笑いを浮かべる。
「そりゃあそうだ。二人共まだ若い。京史郎さんに比べればひよっこのようなもんだろう」
「じゃあ私共はこれで……」
酔った夫をどうしたものかと見ていた妻たちが退去の挨拶をする。
玄関先で、美津枝に労わる声を掛けた。
「美津枝さん、身体のほうはもう、大丈夫? ごめんなさいね。翔君たちを悼む席で主人が羽目を外しちゃって」
「いいえ。お蔭様で身体のほうはあれから、何ともありません。翔も賑やかだと喜んでいることでしょう」
物柔らかに返す美津枝の腕を婦人はさすって、夫の腕を取り帰って行った。
もう一組の夫婦も似たりよったりだった。そしてこれを潮時に他の客も帰途に就いた。
白い提灯がステンドグラスとは不似合いに光っている。
「こればっかりはしょうがないわね」
菫の視線を追った美津枝が、考えたところを察したように微笑む。
その、微笑み。
喪われてはならぬと思い、そして喪われなかったもの。
翔に次いで母まで、とは菫には耐えられなかった。
「洗い物、手伝うよ」
「ありがとう」
仏間に戻ると興吾が大の字になって寝ていて、京史郎が一人、ビールを呑んでいた。ワイン党の京史郎にしては珍しい。そこに哀愁めいたものを見た気がして、そしてそれは見てはいけないもののような気がして、菫は寿司の皿などを盆に載せて回収して回った。
仏壇に置かれた写真の翔は屈託なく笑っている。酒や料理の匂いに混じって香る線香の匂いが悲しい。
「……」
菫は翔の笑みを確認するように見てから、台所に空になった皿を運んだ。たまに帰ると実家の流しには見慣れない洗い物用品が増えていたり、逆に見慣れた物が姿を消していたりと、戸惑うことになる。
「母さん。このスポンジは油物用?」
「あ、それはね、水洗い用」
「このたわしは?」
「そっちの柄のついたのが中華鍋を洗う用で、柄のないほうが、野菜の泥落とし用よ」
万事、こんな調子であった。美津枝は便利グッズをすぐ通販で取り寄せる癖がある。菫は新しい戦利品を見る度、こっそり今までの物でも十分に用を成したと思うのだった。
洗い物をしている時、窓硝子の向こうに、暁斎の姿を見た気がした。
(暁斎おじ様?)
なぜ玄関ではなく裏に回っているのだろうか。菫はその後、暁斎が訪問するとばかり考えて待っていたが、彼は来なかった。
風呂に入り、夕涼みにリビングから庭に続く縁側に座っていると、星々の合間に赤い火が見えた。
(あ……)
「ふらり火だな」
「興吾。起きたのか」
「おう。風呂ももう済ませた。親戚連中の与太話なんか聴いてられっかよ」
二人が見上げる先には当てどなく空中を彷徨う鬼火が見える。
格別、害をなすものではない。
夜に鳴く蝉に混じり、リーリーという音がする。季節は確実に巡っている。
「……兄さんだったりしてな」
「冗談でも言うな」
「ごめん」
(私がいるからお前も来たの?)
菫は胸中でふらり火に問い掛ける。自分が人外のものを引き寄せる磁場のようになっているとしたら。自分はいつか上層部の粛清対象になるのかもしれない。その時、興吾はどうするだろうか。諾々と従う弟ではないと、菫は知っている。しかしもし上に逆らえば、興吾まで凶刃に巻き込みかねない。それを言うなら華絵や駿もそうだ。
(摂理に逆らうと知る上で、それでも動く時が人にはある)
思えば翔も、そのようにして動いたのではなかろうか。
そんな漠然とした思考が菫の頭をよぎった。翔は何に逆らおうとしたのだろう。自分のこの、人外を引き寄せる磁場のような現象に気付いていたとしたら。
考えたくない可能性がそこで生じる。
即ち、翔は上に菫の抹殺を命じられ、それに逆らった為に死んだという可能性だ。
しかしそうであれば、翔の死後もなぜ菫は生かされ続けているのだろう。翔の妹を想う強さに免じて、などという温い情理が通じる相手ではない。
一つ確実なことは、菫の為に翔が死んだという事実だ。それがどのように菫の為であったかは解らない。けれど……。
〝さよなら〟
翔はきっと最期まで菫のことを想っていた。それだけは確実なことのように、菫には思えるのだ。
(でも、お前からは兄を奪ってしまったな。興吾)
菫の横で、アイスを齧る興吾を見遣る。慙愧の念はそれだけではない。
〝美津枝さん、身体のほうはもう、大丈夫?〟
菫は固く目を閉じる。酸素をそうして取り込むように。
本来であれば美津枝も盆に迎え入れられる立場だったのだ。
ひやり、と頬に冷たいものを感じて、驚いた菫は目を開ける。そこには仏頂面した興吾がいた。頬に押し付けられたのは食べ掛けのアイスだった。
「しけた面してんなよ」
それから深い紫の瞳で菫を射抜く。
「兄貴が悲しむ」
その言葉を聴いて菫は悟った。聡い弟だ。興吾も姉の異変と兄の死とを結びつけて考えている。そして、その上で姉を守るスタンスに立ち続けようと、彼は覚悟しているのだ。
溶けかけたアイスはしゃくりと口に含むとソーダ味で、懐かしい昔を思い出した。二度と戻らぬ昔日であればこそ、今は今を全力で生き切るしかないのだ。
「……なあ、あのふらり火、何かこっちに来てないか」
興吾の声に顔を上げると、赤い鬼火が確かに菫たちの家の方向を目指して浮遊してきていた。