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ムーンシャイン

挿絵(By みてみん)





挿絵(By みてみん)






 十歳の駿は、学校から駆け足で静馬のうちに向かっていた。秋で民家の庭から道に張り出した柿がたわわに実っていた。熟せばさぞ美味しいだろう。田の稲穂は黄金に輝いていた。良い日和だった。最近は施設にいるより静馬の家にいることのほうが心地好くなっていた。静馬は駿に剣術も勉強も教えてくれる。静馬の母は手作りの焼き菓子を駿に振る舞ってくれる。うちにも駿ちゃんみたいな子がもう一人いたらねえ。そう言ってくれる。静馬には兄や姉もいるが、それぞれもう独立して、静馬の母は少し寂しいようだった。駿も内心、こんな家で育っていたらと思った。


 駿は社会が苦手だった。人間社会も、学問としての社会も。自分を置いて逝ってしまった父と母。遺された子供に親戚は冷淡だった。静馬たちは違う。社会の冷やかさとは一線を画した陽だまりのようなあの家。優しく勉強を教えてくれる静馬。そのお蔭で、苦手な社会でも百点をとれた。


 駿は早くその答案用紙を静馬に見せたくて、チャイムも鳴らさずに静馬の家の戸を開けた。田舎の長閑さで、静馬の家は、日中は鍵を掛けないことが多かった。廊下を進み、静馬の部屋に向かう途中、襖の向こうから声が聴こえた。静馬の祖父と、その友人たちが集まっているようだった。

 

 何か大切な話をしているのかもしれない。そっと駿が通り過ぎようとした時、その声が鼓膜を打った。

 あの鬼子はいつ処分する積りか。

 知らない声だった。鬼子、の意味はよく解らなかったけど、良い意味ではなく、そして自分のことを指しているのだろうと駿は察した。

 静馬の祖父が答える。

 まだ待て。あれは使いでがある。

 冷たい声だった。駿が手に持っていた答案用紙がひらりと落ちた。静馬の祖父は人の好い温和な老人で、駿にも優しく接してくれた。お茶目な面もある、朗らかに笑う老人だと。駿は自分の祖父のようにも感じていたのだ。

 硬直した駿の横、静馬が歩み寄り、答案用紙を拾った。

 大人の話を盗み聞きしてはいけないよ。駿。

 その時の静馬の声と顔。

 静馬は自分を「鬼子」と知っているのだと思った。

 鬼子だから、優しくしてくれたの?

 ガラリガラリと、世界が音を立てて崩れた。



 プール施設の影から一歩、静馬は踏み出そうとした。

 しかし止める声があった。


「止めときなはれ」

「安野暁斎……」

「直に片はつきますよって」


 見えない筈の薄紫の瞳が、確信の色を以て瞬いた。

 まるでその台詞が聴こえていたかのように、煌々とした眩い光が菫たちを飲み込んだ汚濁を内部から貫いた。


〝ソンナ莫迦ナ〟


汚濁は飛び散り、塵と化す。じっとりとした湿り気を残して。菫たちはごほごほと咳をして、飲んだ水を吐き出した。菫が興吾は、と姿を探すと同じく水を吐いている。華絵も、駿も、どうにか健在なようだ。


「誰か、汚濁を滅したのか?」


 菫の問いに答える者はいない。誰もが首を横に振った。

 悪夢と言える夢の名残りに引き摺られそうな己を叱咤しながら、菫は全員の無事と、汚濁の謎の消滅を確認した。

 ――――あのまま夢に微睡み続ければ一体どうなっていたことか。

 亜種と呼べる汚濁の存在と、それが及ぼした効果に菫は戦慄した。


 兄の口から咲いた赤い花の残像が消えない。


 皆も心の深奥を見せられたのだろうかと、それぞれの顔色を窺う。駿を始めとしてやはり皆、考え深げな表情になっている。何を見たのか。それは各人が胸にそっと秘めておくべきもののように菫には思えた。

 それにしても濡れ鼠になってしまった。

 

「一度、研究室に戻ってから、元興寺のほうに行こう」


 菫の提案に否やを唱える者はなかった。


 菫たちが去ってから、静馬は改めて暁斎と対峙した。夜鳴く蝉の、声を聴きながら。


「貴方は何を知っているんですか」

「バイオレット……」

「その全てを?」

「あの子の兄の、死の真相やったらほぼ推測がついてます」


 ぴり、と静馬の身を包む空気が張り詰めた。今、とても重要なことを暁斎は言った。

 踏み込む。


「なぜ神楽翔は死んだのですか」

「それより、なんで村崎駿を菫はんにつけてますのや。あれは、今の汚濁と同じ、隠師の亜種ですやろ。それも危険性のある」

「相殺を」

「あきません。君も御師としては亜種ですね」


 暁斎の言は間違っていない。静馬は御師だ。御師は何の能力も持たず、ただ信仰普及と参拝勧誘に勤めるのが習わし。なのに霊刀を顕現させる能力を持つ。異例のことだった。御師と隠師の長老たちはこれを特筆すべき問題事項とは判断しなかった。隠師としての力があるのなら、その力を発揮すれば良い。極めてシンプルな結論に達した。偏見の目はあったが、静馬は祖父らの庇護のもと、守られて育った。


「なぜ、翔は死んだのですか」


 同じ問いを、繰り返す。これこそが肝要であるからだ。嘗て友人でもあった者として。


「……良い天気の日いでした。僕は当時、翔はんが早まるんやないか思うて、気が気やなかった。手持ちのウィスキーボンボンに、記憶に蓋をする霊薬を混ぜ込みました。せやかて、遅かった。菫はんが頬に赤い花咲かせて、水色のワンピースに赤い花咲かせて別荘に戻ってきた時、僕は遅きに失したと知りました。翔はんに渡す筈やったウィスキーボンボンはそのまんま菫はんに……」

「思い出話が聴きたいんじゃない。僕が知りたいのは真実だ」


 些少の苛立ちを含み、語りを中断させた静馬はぎくりとした。

 暁斎の身体が紫色の燐光を帯び、殺気に満ちていたからだ。


「知らんほうがええこともこの世にはあります。僕は菫はんを守らなあかん。京史郎はんかてせや。秘密は秘密のままに。それで納得してもらえませんやろか」


 静馬としては、到底、納得出来るものではなかった。だが、これ以上を知ろうとするなら、今ここで、暁斎を相手取ることになるのだろう。彼我の実力の程くらい、静馬とて弁えている。

 静馬は細い吐息を一つ落とした。了承の意を持つそれに、暁斎の燐光と殺気が消える。

 暁斎はそれまでの緊迫感が嘘であるかのように、無防備に月を仰いだ。静馬も釣られて見上げる。皓々とした月が、人の思惑など知らぬげに照り輝いていた。



 研究室に戻った菫たちは、バスタオルで身体を拭き、替えのある者は濡れていない衣服に着替えた。ない者は濡れたままだが、この気候だ。風邪はひくまい、と、若者ならではの高を括っていた。元興寺を滅して、家に戻ってからシャワーを浴びるなり風呂に入るなりして、あとは寝間着に着替えて眠れば良い。


「実加さんが撮ったのは文学部棟だったな。よし、一階の左右から手分けして元興寺を捜そう」


 菫の言に皆が頷く。菫にはこうした時の判断力、統率力が備わっていた。

 か細い背中に、それでも駿は内心で声を掛ける。


(気張り過ぎんなよ)


 自身、悪夢の残滓に影響された身であるからこそ、菫の現在の心中が推し量れるのだ。


 菫と興吾、華絵と駿で文学部棟の一階の南端と北端から講義室を見て回る。夜の講義室は廊下と異なり電灯とてなく、真っ暗で陰気だった。木で出来た椅子の列の影に、今にも何か潜んでいそうに見える。改めて手にした曼珠沙華を心強く思う。


 巡回する内、元興寺に突き当たったのは駿たちだった。

 第四講義室の窓際にわだかまる闇。白い闇。

 よく目を凝らせば、白い襤褸(ぼろ)を纏った、鉤爪の老人に見える――――鬼。

 耳まで裂けた口には鋭い牙が覗く。


 さて件の元興寺と闘った童子だが、闘えど互いに勝負がつかない。そうこうしている内に夜が明け始め、鬼の髪を童子が強く引っ張ると髪は抜け落ちて、鬼の姿は消え失せた。夜が明けて、鬼が残した血の跡を辿ると、寺の後ろの墓に辿り着いた。血の跡はそこで消え、この墓はもと寺に住んでいた心の悪い奴だと判る。正体の知れた以後は鬼も現れなくなったという。


「……って、昔話みたいにはいかねえよな。わだかまれ宝珠、滞れ悪鬼」

「飛翔する影は陽の鉄槌を受け足下に座す。八百緑斬」


 顕現する二振りの霊刀。駿は青紫の燐光を、興吾は紫の燐光を帯びる。霊刀は、現れた直後、申し合わせたように上と下から元興寺を挟撃して斬って捨てた。


「……拍子抜けだな」


 興吾が八百緑斬を無に帰そうとした時、駿がそれに気付き声を上げた。


「興吾!」


 興吾の背後から今にも襲いかかろうとしていたもう一体の元興寺を、駿が斬る。

 元興寺はあとからあとからわらわらと湧いて出る。悪夢のような光景。どこに潜んでいたのかと思う数だった。おまけに、鬼の臭気と、濡れて皮膚に張り付く衣服の感触が相乗効果で気持ち悪い。ともすれば恐慌状態に陥りそうになる自分に喝を入れ、駿は霊刀を振るった。自分は一人ではない。興吾がいるのだ。年長者である自分が取り乱したら彼はどうなる。

 菫と華絵も異変を察知して駆けつけ、総出で元興寺の群れを狩ることとなった。

 乱戦かつ混戦だった。しかし室内における戦闘の場合、多勢より無勢が有利。飛び散る血と肉塊は全て元興寺のもので、飛散すると同時にさらりと消える。

 全てが終わる頃にはもう、午前をはるかに回り、全員が肩で息をしていた。


「元興寺に遺体がなくて不幸中の幸いね。清掃の人が腰を抜かさずに済むわ」

「余裕あるね、華絵さん」

「そうでもないわよ。湯船に浸かって安眠したい切実にっ」

「しかし、これだけの元興寺。自然に発生するものか?」

「人為的な力が働いてる。そう考えるのが妥当だろうな」


 冷静に推理するのは神楽姉弟。ともかく今日は解散、各自、帰宅して休むこととなった。華絵の家人は心配しているだろう。この面々の内、興吾は少し例外として、実家から院に通っているのは華絵だけだった。

 当面の課題が終息し、菫は興吾と帰路に就きながら空の月を眺めた。


 あの時、兄は確かに言ったのだ。

 さよなら、と。

 なぜ。


 別れの言葉を遺して死んだ。これは翔の想定内だったのか。それとも。

 月に手を伸ばす。届く筈もない。

 つまりはこのようなものだ、と菫は思った。

 死者の思惑に手を伸ばすということは。興吾が姉の行為を訝しむ顔で見ている。菫は微笑み、月に伸ばした手をそのまま、興吾の白髪に遣った。白髪は夜にぼうと光り、柔らかな手触りはざわつく菫の心を優しく慰撫した。

                        

                        <第二章・完>



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