表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/104

ゴッドハンズ

挿絵(By みてみん)




挿絵(By みてみん)





 華絵に続き菫もシャワーを浴びて汗を流した。その際、ちょっとした騒動があった。駿が、大胆にも菫のシャワーシーンを覗こうとしたのだ。その気配を察知した興吾により、犯行は未然に防がれ、姉に不埒な行為を働こうとした門で駿は興吾から渾身の一撃を腹に貰い、華絵からは平手打ちされた。研究室に戻ってからというもの、どうも駿の様子はいつも以上に、度が過ぎて軽かった。その理由など推し量るべくもないが、菫は当然のことながら不愉快だった。乾きかけの髪を触りながら、頬に赤い手形をつけた駿を睨む。


「お前、ちょっとおかしいぞ村崎。普段に輪をかけて」

「減るもんじゃなし」

「私からも殴られたいか」

「嘘嘘、ごめんなさい。もうしません」

「何かあったのか」

「ん? 何も?」


 しかし菫は駿のその笑顔に見覚えがあった。全力で何かを隠そうとする時の、力みが入った笑顔だ。やはり何かあったのだろう。だがそれ以上の追及は憚られた。駿自身が追及を拒絶していると知れるからだ。


「殴られたいならいつでも言いなさい、手を貸すわ」

「華絵さん、そんな手要らない」


 華絵にも駿は無駄に笑顔を振り撒く。恐らく華絵も気付いている、と菫は思う。駿の異変に。

 遠い神の手を菫は連想する。神の手は気紛れに駒を振り分け、自由気儘に惑わせる。神に罪はない。なぜなら神は知らないからだ。駒にも心があるのだということを。そうでなければ、巷間で、または遠い異国で起こる悲劇を、惨劇を、見過ごせる訳がない。神の手は常に慈悲深くあらねばならないからだ。

 兄の死を掬い取れなかった神を、だから菫は責めることを自らに禁じた。駿といった駒もまた、翻弄されているのだろうか。

 地図があるのなら、と菫は思う。

 それぞれの思惑を露わにした地図があるのなら、自分は、駿は、どんな位置にあるのだろうか。近いだろうか、それともはるか遠い位置にあるのだろうか。


 夕飯は研究室に中華料理の出前を取った。チャーシューメン、海老チャーハン、餃子、担担麺、冷やし中華。応接セットのテーブルに料理が出揃うと、その匂いで一気に研究室内が中華の空気を帯びる。暑い中、熱々の料理を平らげる面々を、菫は感心しながら見ていた。自分は冷やし中華をちゅるちゅると食べている。餃子の香ばしい匂いが食欲を誘うというより、げんなりと感じてしまうあたり、夏バテ気味なのかもしれない。目敏い興吾が菫の皿を見て釘を刺す。


「おい、菫。ちゃんと全部喰えよ。餃子も喰え。鬼退治にエネルギー不足は厳禁だぞ」

「あら、鬼退治なら黍団子じゃなあい?」


 長い髪を結び、担担麺を食べていた華絵が顔を上げ、茶々を入れる。


「犬、猿、雉、桃太郎、頭数は揃ってるな」

「村崎。一応訊いておくが配役はどうなってるんだ」

「任務上の極秘事項だ」

「ああそう」


 他に秘密を抱えている癖に、と呆れた菫は、自分自身、人のことは言えないのだと気付いた。

 トリガー。ウィスキーボンボン。語らぬ暁斎。

 立派に隠し事満載ではないかと自身に突っ込む羽目になった。とりわけ、暁斎に全幅の信頼が寄せられないことは、菫にとって痛かった。それが菫の為なのだったとしても。


(暁斎おじ様が何かしたのは確実で、それを隠しているのも確実なんだ)


 興吾に言われたからではないが餃子に箸を伸ばしながら菫は考える。辛子入りのたれにつけ、口に運ぶと独特の匂いと、皮のパリッとした歯応えがあった。肉汁が口中に広がる。


(でも直截に尋ねても、暁斎おじ様はきっと答えてくれない)


 では、父・京史郎はどうだろうかと考えて、やはり駄目だと菫は項垂れる。


〝バイオレット……、it`s so secret〟


 暁斎が何かを隠している、その事実さえ秘しているとしたら、父は矛盾した言い方だが堂々と何事かを隠している。それを菫に伝えて憚らない。なぜだろう。事情を知る大人たちは一斉に口を噤む。駿でさえ謎を秘めている。いや、一番の謎は……、と菫は思う。冷水を浴びたように。

 一番の謎は、自分自身ではないか。

 自分のことなのに、菫は自分を知らないのだ、と痛切に思い知る。暁斎や京史郎、駿のほうがきっと余程に知っている。

 と、すれば。

 あらゆる謎の渦中にあるのは、自分ということになる……。


「おい、箸が止まってる」


 興吾の声が、菫を思考の渦から引き戻した。

 顔を上げると、紫の瞳が案じる色を宿して菫を見ていた。菫に悩みがあることを、この鋭い弟はとうに察している。その上で何も言わず、姉を見守るスタンスにいる。

出来た弟だと思いながら菫は冷やし中華を食べ終えた。


 しっとりと露含むかのような夜だった。

 即ち、汚濁の好んで出没する条件下にある夜だった。空になった中華料理の皿を廊下に出したあとも、にんにくと胡麻油を使った料理の匂いは研究室内に満ちていた。それだけなら問題はない。問題は――――。


 汚濁の臭気に、一同は気付いていた。


「どうする。先に汚濁を滅するか、二手に分かれて元興寺にも備えるか」

「未知数の状況下で分散するのは怖いな。先に汚濁に行こう」


 駿の問いに、すぐに答えたのは菫だった。華絵にも興吾にも異論はない。


 臭気を追い文学部棟を出る。折よく、艶やかにも華のある曼珠沙華の群れ咲く一画があった。月の明るい晩である。月下の曼珠沙華は、人を異界に誘うような妖しさがあった。菫たちは赤、白、二色の曼珠沙華をそれぞれ手折り、臭気の源に足を進めた。

 月光が街灯では補えない闇を明るく照らしている。足下に不安はない。

 その汚濁は菫がよく行くプール施設の横手、丁度、硝子張りになった付近にいた。

 まず形が異様だった。水のように流動的で、汚濁には例外的に透き通っている。有り得ない、と菫たちは一様に思う。この臭気は間違いなく汚濁だ。なのにこの、清水のような澄明。醜悪であれば斬れるものも、これでは剣も鈍る。各自、曼珠沙華の柄を持つ霊刀を、それでも構え直した時だった。

 汚濁が急に膨張し、菫たちを残さず体内に取り込んだのだ。

 汚濁の中は羊水のように懐かしい温もりに満ち、菫たちの意識も呑み込まれた。


〝眠レ眠レ。良キ夢モ悪キ夢モ等シク喰ラッテヤルカラ〟


 そんな声を菫は聴いた気がした。あとはただ、胎内のような心地好さだけを感じて微睡むに任せた。


 夢の中で菫は十二歳になっていた。

 水色の、ベルベットのワンピースを着てお洒落しているのが嬉しかった。久し振りに来た別荘は、家族の団欒で明るい光に満ちているようだった。大好きな暁斎もいて、菫は上機嫌だった。時折、泣き声を上げる弟の興吾を、母の美津枝があやす。そんな母を父の京史郎が優しく見守る。普段は忙しい兄の翔も、この日は珍しく家族に合流し、菫の相手をしてくれた。暁斎も好きだったが、この兄もまた、菫にとっては特別だった。


 よく晴れた春の日だった。菫の花の群生を見つけたのだと翔が内緒話のように、菫の耳に口を寄せて囁いた。一緒に行ってみないかと誘われて、菫はうん、と頷いた。父にも、母にも、おじさんにも内緒だよ。もちろん、興吾にもだ。そう言われ、菫はくすくすと笑った。なぜなら父と母、暁斎はともかく、興吾はまだ一歳の赤ん坊だったからだ。菫の笑顔を見た翔が、少し切なそうに目を細めたのは、きっと気のせいだろう。


 そして菫は翔と共に、別荘を抜け出し、裏手の庭を兄と手を繋いで進んだ。蜜蜂が飛び交うのが見えた頃、もうすぐだと翔が言った。菫はそれが、もうすぐで菫の群生に到着するという意味だと思った。けれど翔は繰り返した。もうすぐだ、と。先程よりも切羽詰まった声で。菫はその理由が解らず、ただ繋いだ手に力を籠めた。すると翔が言った。花畑に着いたその時。バイオレット。僕の可愛いお姫様。

 笑った。悲しそうに。

 どうして? 菫は尋ねようとした。

 蜜蜂はますます盛んに飛び交っていた。

 菫の群生は翔の言った通りで、あんな小花が群れるとこうも華やかになるのかと感心した。濃い紫の絨毯。嬉しくもあった。自分と同じ名の、花畑。

 そこに翔と一緒にいることが。

 大好きな兄。

 形の良い唇が、ある言葉に動くのがスローモーションで見えた。


〝サ〟、〝ヨ〟、〝ナ〟、〝ラ〟。


 大好きな兄の、口から真っ赤な花が咲いた。


 真っ赤な花が、咲いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ