異分子の心知らず
思えば運命の悪戯だった。出会いは駿がまだほんの子供の頃。当時、もう静馬の背はすらりと高かった。
〝どうしたの?なぜ泣いてるの?〟
〝転んで……〟
〝ああ、すりむいたんだね。待って、うちが近くだから、手当をしてあげよう。僕は小池静馬。君、名前は?〟
〝駿……。村崎駿。村に、崎に、はやおとも読む駿〟
〝そうか。かっこいい名前だね〟
「バイオレットを崇めよ!」
「バイオレットを崇めよ!」
口々に言いながら駿たちに襲いかかる男たち。
(バイオレットを崇めよ?)
どういう意味だ、と思いながら駿も応戦する。
「俺らに警棒なんて温いもんで対処しようとか」
駿がパン、と襲撃者の一人に足払いを掛ける。霊刀の柄をその腹部に叩き込むと相手の唾液が散った。血を流すまでもない。全員、峰打ちで倒せる。住宅街で狙撃はしても、流石にこの場で拳銃は用いなかったかと、駿は相手の、正しくは相手を統率する存在の賢明さを内心で褒める。皮肉に。
静馬の霊刀・皓刃もまた、峰しか使われていなかった。少し惜しいなと駿は思う。静馬が本気で皓刃を奮う様は、菫とはまた別種の優美さがあり見応えがあるのだ。
最後の一人の首に、駿が霊刀ではなく手刀を叩き込むと戦闘は終結した。
「舐めてんだよ」
「そう言うな。お蔭で早く片付いたじゃないか」
「……奴らはバイオレットを崇めよと言った。意味が解るか」
「いや。警察の中に、バイオレットへの狂信を抱く輩がいるという憶測ぐらいしか」
「――――どうしてここにいる、静馬」
「それはこちらも訊きたいね。僕は、バイオレットのご機嫌伺いに」
「俺たちは接触しない決まりじゃなかったのか」
「仕方ないさ。僕も君までここに来るとは思わなかった。想定外のことは、起こり得るんだよ。例えば」
静馬は霊刀を無に帰す。雪が融けるように白い煌めきが消失する。
「君の本当の霊刀のように」
「そしてお前という存在が生まれたように、だろ?」
二人の視線が交錯する。嘗てはなかった互いの間に流れる緊張感に、駿は僅かばかり感傷的になった。
それだけ、静馬を兄のように慕った期間は長かったのだ。
「行けよ。俺はもう少し菫たちの様子を見る」
「ご執心だな」
静馬にしては珍しいからかいの言葉だった。
「パープルはバイオレットにつく。それが役目だろう」
「それ以上の感情を、彼女に抱いているようだから、言うんだよ」
駿の顔が完璧な無表情になる。凪いだ湖面以上に、そもそも感情という色が欠落したかのようだ。ただこめかみから滑り落ちる汗が、炎天下に立つ彼の人間らしさを辛うじて伝えていた。
「嘗ての兄代わりとして。また、剣術の師としての忠告だ。バイオレットに執心し過ぎるな」
駿の片眉が器用にひょいと上がる。
「なぜ」
「君も知る筈の理由を、今更言うまでもない」
怜悧に静馬は駿を突き離し、駐車場から歩み去った。
アスファルトに陽炎が揺らめいている。
こんなものだ、と陽炎を鈍い目で見ながら静馬は思う。こんなものだ、人の記憶、思いなど不確かで曖昧で不定形。いっかな制御が叶わずに人間は翻弄される。駿が菫に執心するなら、静馬もまた駿に執心していた。嘗て芽生えた弟に対するような思いは、未だ変わっていない。だからこそ言わずもがなの忠告もした。
(手遅れなようだが)
静馬兄ちゃん、と呼んで駿が纏わりついてきた昔日を思い出す。
初めて駿と出逢い、うちに連れ帰った日。祖父が言った言葉も。
〝静馬。お前、とんでもないもんを拾ってきたな〟
物腰穏やかな祖父。よく笑う祖父がその時ばかりは怖い顔で静馬に迫った。
御師としては異例だった静馬を何くれとなく庇い、優しく接してくれた人が言った言葉は衝撃だった。
〝あれをお前が責任を持って管理するか?出来ないなら〟
その続きを聴いた時、静馬は驚愕と嫌悪で身体が硬直した。聴いた台詞が信じられず、とても慕う祖父の口から出たものだとは思えなかった。
〝出来ないなら、殺してやるのがあの子の為だ〟
その日から〝パープル〟の世話と監視は静馬の役割となった。静馬は御師として異例であり、それ以上に駿は隠師として異例だった。静馬は駿の指導を誤る訳には行かなかった。大袈裟でなく駿を含む人命が掛かっていたからだ。
駿は菫に共鳴しているのかもしれない、と思う。
だがその共鳴は危険だ。何が引き金で暴走するか解らない菫の中の〝菫〟に、同じく危険因子である駿まで暴走したら、もう静馬の手に負える状況ではなくなる。最終的に、駿に引導を渡す役割は静馬に一任される。
(僕に君を殺させるな、駿)
そのような事態を招かない為にも、菫の行動は把握しておく必要があった。
ふ、と笑み、駐車場を出たところで煙草を取り出す。
一服して、紫煙を吐き出す。
静馬兄ちゃん、と言って追いかけてきた駿の姿が、今も静馬の眼裏から消えない。
人は過去に縛られるものだ、と静馬は思った。
(恐らくはバイオレット。君もそうなんだろう)
菫と華絵が、実加が満足するまで買い物に付き合って、解放されたのはもう夕方に近かった。実加は控えめに言ってパワフルで強引だった。悪い娘ではなかったが。
菫は研究室に戻る頃には疲労困憊していた。華絵はまだ余裕がありそうだった。思えば途中からは華絵も実加に乗っかり、菫を飾り立てることを楽しみ始めたのだから、それも当然かもしれない。着せ替え人形と化した菫こそが着たり脱いだりを繰り返し、最も負荷が大きかったのだ。
興吾は勝手に菫の机上のパソコンを起動させ、何やら作業していた。画面から目を離さず、菫たちを軽く労う。
「お疲れ」
「興吾。そのパソコン、使うにはパスワードが必要なんだが」
「楽勝だったぜ。菫、もうちょいひねったワード考えろよ」
「……お前も一緒に連れて行けば良かったよ」
途端に興吾が激しい渋面になる。
「女の買い物なんてご免だね。俺にとっちゃ鬼門に等しい」
「そうだろうな」
「鬼門と言えば元興寺に鬼が出没するようになったのも、寺が平城京の鬼門に位置してたからって説もあるな」
「詳しいな。ネットでそんなことを調べてたのか?」
興吾があっさり首を振る。
「いや。俺が調べてたのはツイッターとSNSでの元興寺の目撃情報。確かにここ、央南大学近辺に集中してるな。男の墓がある霊園からこの大学まで、距離的に近いとは言え、どうも妙な話だろう。霊園そのものに元興寺が出没するならともかく。解せねえ話だ」
「ねえ、そんなことより私、シャワー浴びるわよ~? 汗掻いちゃって。菫。お先に良いかしら?」
「あ、はい。どうぞ」
華絵の声に、正直救われた、と菫は思った。元興寺が央南大学に出るのは、自分がここにいるからかもしれない、などという疑惑を、興吾には持たれたくない。
(だって私は、人間なんだ。隠師だけれど、その点を除けば普通の人間だ)
そうでなければいけない。強迫的観念で、菫は人間であることに縋りついた。もしも兄が、兄の死が、自分の為に起きたことなら、などという考えは固く封印する。生きていく為には必要な自己防衛だった。
「お。菫、戻ってたのか~…、何、泣きそうな顔してんの?」
「何でもない。お前もどこか行ってたのか、村崎」
「野暮用」
「どうせどっかの学部の美人でも見に行ってたんだろ」
「鋭いね~、菫」
はあ、と菫は脱力する。
「お前ぐらい軽いと、生きるのに楽そうなのになんだがな」
「失礼しちゃうなあ。俺だって色々あんのよ?」
「はいはい」
適当な相槌を打ち、あしらっておく。謎が多いしちゃらいし軽い男だが。と、菫は駿を見遣る。
その軽さに、今は救われた気がした。