ウィスキーボンボン
水色のベルベットのワンピース。所々赤に染まったそれを着て、菫はふらつく足取りで別荘に戻ろうとしていた。灌木の向こうに人影が見えた。
〝どないしはりました、菫はん〟
〝暁斎おじ様。お兄様が、お兄様が〟
それ以上はとても言葉にならなかった。天は相変わらず麗らかで、菫の気持ちとは真反対で。菫はこの時、幼心に薄情な天を憎く思った。いつも穏やかな暁斎の表情も、この時ばかりは険しかった。
〝間に合わんかったか……〟
〝え?〟
〝菫はん〟
暁斎は黒い単衣が汚れるのも構わず、膝を折り、菫を抱き締めた。
〝忘れるんや。君が見たのは悪いもんが見せた悪夢や〟
〝悪いもん……?〟
〝せや。決して君のせいやない。せやから、忘れり。……京史郎はんの、お父はんのところに戻りなさい。ええね?〟
暁斎は菫の手にウィスキーボンボンを落とした。なぜ、こんな時にこんな物を、と菫は思った。
そのあと、暁斎は一人で花園に向かった。血塗れの、惨劇の舞台となった花園へ。
そこで菫は目が覚めた。
研究室の黒い革張りのソファーで微睡んでいたのだ。
心臓が、常より速くリズムを刻んでいる。額には軽い汗。
(そうだ。暁斎おじ様も、あの時、別荘にいた……)
気の置けない親戚として、招待されていた。コテージ風の別荘は管理人の手によって花々がよく手入れされ、母のお気に入りだった。見えないのにこの別荘の醍醐味が楽しめるのだろうかと菫は子供ながら暁斎を気遣ったが、そんな菫に暁斎は笑って答えた。
〝匂いが僕に教えてくれます〟
だから菫が翔の遺体から別荘に戻った時も、暁斎はその嗅覚でいち早く異変に気付いたのだ。
――――――どんな花でも打ち消せない、血の臭いに。
「あら、起きた?菫」
「はい」
「修士論文もそんなに根を詰めなくて良いのよ? 私たちの本職は隠師なんだから」
菫は起き上がり、ソファーから立ち上がって軽く首を振る。
「持永教授の体面もあるでしょうし」
「真面目ね」
そう言う華絵も、修士論文はきちんと書き上げ、高い評価を得たことを菫は知っている。彼女は今現在、博士課程の身だ。
「華絵さんの論文のテーマは何でしたっけ」
「農耕の神と山の神の信仰について」
「そう言えば一時期、フィールドワークに行かれてましたね」
「途中で汚濁と遭ったり、妖怪と遭ったり大変だったわ……」
遠い目をする華絵に菫は同情した。それでも独力で無事に帰り着くあたり、華絵の隠師としての能力の高さをも証明している。
「菫の論文のテーマは御師だったわね」
「はい。杵築大社の御師の中世の動きを辿っています」
「うちの蔵書、少ないから史料集めが大変でしょ」
「閲覧許可書を申請してあちこちの大学図書館に行ってますよ……」
「御師ねえ……。隠師は非公式に続いてるけど、あっちは言わば公式の制度としては御師職そのものが明治に廃止されてるからね」
「現存する御師に話が聞ければ良いんですけどね……」
「難しいでしょうね。お疲れ様。コーヒー飲む?」
「ありがとうございます。頂きます」
ブラインドシャッターを上げて、外を眺める。
背後からガリガリという豆を挽くミルの音が聴こえてくる。持永教授に影響されて、この研究室の院生、助手は皆、コーヒーを豆を挽くことから淹れることに慣れ切ってしまっている。
青く澄んだ空には綿菓子のような雲が一つ二つ浮かび、今日も蝉が元気一杯に鳴いている。銀杏の樹はいつもと変わらず屹立し、青い葉で季節を知らしめる。
バン、とドアが開き、駿が入ってきた。青いシャツにジーンズ。その青もただの青ではなく、恐らく手作業により染料で染められた奥深い青だ。拘りある爽やかな出で立ちは駿のお家芸であり、菫には真似出来ないところであった。
「はい、皆、席に着いてー」
「先生ごっこは良いから本題を言え」
菫の席に着き、黙々と夏休みの宿題を片付けていた興吾が、ノートから顔を上げずに言う。漂ってくるコーヒーの匂いには手を止め、持っていたシャーペンを机上に置いた。
「興吾はもう少し年上を敬っても良いと思うんだがなあ」
「暁斎おじ、父さん、ちゃんと敬ってるぞ」
「いやいやいや」
「それで?どうしたの、駿」
放っておけばどんどん話の趣旨が忘れられそうな気配に、アラビアの白黒のコーヒーカップを人数分、お盆に載せて運んできた華絵が尋ねる。
駿が指をパチンと鳴らし、華絵を指差した。
「華絵さん、ナイス。元興寺が出た!」
「うわ……。お前、そんなバッドニュースを嬉々として言うなよ」
菫が駿の報せに嫌な顔をする。
「出没先はここ、央南大学。目撃者のオカルトサークルの写真もあるぞー」
駿は菫の声を無視してホワイトボードに数枚の写真を張った。
襤褸を纏った鉤爪の老人が、暗いどこかの講義室と思しき室内に立っている。
「やっと国産の妖怪だぞ、嬉しいだろう」
「腕が鳴るな」
駿の発言に嬉しそうに同調したのは興吾だけだった。菫と華絵は嫌そうな顔を隠さない。そしてそのまま駿は回想モードに入る。
「この写真を偶然に撮った実加ちゃんは、大学入学してからの、俺の十番目の相手でちょっとツンデレなところが可愛らしいツインテールで」
「おい、十番目の相手って何だ」
「駿。小学生もいるんだから発言に気を付けなさいよ」
「何言ってんの、華絵さん。十番目に告白された相手って意味だよ。嫌だな~。意味深に取っちゃって」
駿がにやにやする。菫は写真を見た時から固い表情を崩さない。
元興寺。
それは奈良時代に出没した伝説の鬼の名である。平安初期成立の『日本霊異記』には、毎夜のように元興寺の鐘楼に鬼が現れて、鐘突きの者が殺害されたとある。この鬼を、雷神の申し子の童子が退治しようとしたが、中々勝負がつかなかった。そうこうする内に夜が明け始め――――――。
元興寺に出没した鬼、というところから名前がつき、それが訛って〝がごぜ〟となった。
ぺろり、と興吾が唇を舐める。紫の瞳が爛々と光っている。まさに獲物を前にした狩人だ。
「滅して良いんだな?」
「オフコース。放置したらその内、死人が出かねない」
「うちの大学って多いわよね。うんざりしちゃう。夜更かしは美容の大敵なのに」
何の気なしに華絵は言ったのだろうが、菫は自分を責められている気持ちになった。
〝お姉さんがいなかったら、あの、黒い影たちも、怖い人たちも、そして私も、ここに現れなかったの〟
智恵子の言葉が蘇る。
もしも自分の存在が、元興寺をも引き寄せたのだとしたら?
始まりであり終わり。トリガー。
先刻見た夢を思い出す。暁斎はきっと何か知っている。会わなくてはならない。
コーヒーを飲み終えると、菫は立ち上がった。
暁斎が身を寄せているという寺は、菫の実家の近所にあった。
龍切寺という名で、その昔、悪行を働く龍を調伏した高僧が、その龍を弔う為に開いたとされている。
緑陰に囲まれた石段を登ると、黒い瓦葺の屋根が見えてくる。梵鐘の音が鳴り、午後一時を知らせた。蝉時雨が一段と姦しい。
通された方丈に現れた暁斎は、にこやかに菫を歓迎した。
茶室ではないが、菫の為に茶を点ててくれる。方丈の畳の一部が、剥がせば湯釜を置ける造りになっているのだ。
「こんなもんしかあらしませんけど」
そう言って暁斎が出したのは、何の偶然かあの日と同じ、ウィスキーボンボンだった。茶菓子としては相応しくない。そして菫は思い出した。あの日、兄の遺体から逃げるようにして暁斎に会ったあと、何かに操られるように、菫は貰ったウィスキーボンボンを食べた。甘い酩酊をもたらすそれを舌で溶かす内、菫は翔の身に起こった出来事、核となるその詳細を完全に忘却したのだ。
震える手でウィスキーボンボンを摘まむ。カサリ、と金の包み紙の音がする。開けることはない。
菫には解ってしまった。暁斎に今の自分の疑問をぶつけても、確たる答えは帰らない。なぜなら、暁斎自身がそれを望んでいないからだ。ふつふつ、と夏なのに鳥肌が腕に立つ。
「暁斎おじ様……」
「何ですやろ」
「元興寺が出たようです」
「そうですか」
「帰ります」
「はい。気いつけて」
菫が去った後、暁斎はぽつんと残されたウィスキーボンボンを見えぬ目で眺めた。
これは鍵の一つ。
「せやかて、もう気付かれてしもたようですよ」
さらり、と方丈の襖を開ける。
「京史郎はん」
端座した京史郎は、無言で浅く顎を引いた。