パープル、パープル、シークレット
興吾が自分の帰りと夕食を待ち侘びているだろうと思い、菫が雨の中を駆け足でアパートまで帰ると、良い匂いがドアを開ける前に漂ってきた。
「ただいま」
「お帰り不良娘」
「興吾。それって、弟が言う台詞じゃないと思うんだ」
「細かいこと言うな。晩飯、出来てる」
見るとリビングのテーブルには鮭のバター焼き、法蓮草としめじのソテー、インスタントの冷製ビシソワーズが並んでいた。炊飯器からは細い湯気が立ち、ご飯が炊けたことを示している。
「スペックの高過ぎる小学生……。興吾、いつでも嫁にゆけるぞ」
「良いからシャワーでも風呂でもさっさと行ってこいよ。俺は腹が減った」
「先に食べてて良いよ。それから、母さんからドライフルーツ入りの羊羹を土産に持たされた」
興吾の目がきらりと光る。料理上手の彼は、美食にも目がない。
「待っててやるから早く浴びろ」
「はいはい」
日頃がしっかりしているだけに、弟の年相応な面を見ると、微笑ましくも安堵もする菫だった。着替えを持って浴室に向かう菫の後ろで、レースと白銀色のカーテンを興吾が閉めている。雨天の暮色が幕を閉じた。
「なあ。あの、村崎駿の霊刀ってどんなんだ?」
食事中、興吾が鮭をぱくつきながら菫に尋ねる。華絵より先に駿の霊刀に興味を示すあたり、同じ男としての彼の矜持を垣間見る。
「どうって……。取り立てて言うような物でもないよ。興吾の八百緑斬みたいに派手じゃないことは確かだな」
「腕は?」
「それも確かだ」
「ふーん。霊刀が平凡で腕が非凡? おかしな話だな」
菫がビシソワーズを掬うスプーンを止める。冷製のスープは連日の蒸し暑さに疲弊している身体に、咽喉に心地好く、しかし興吾の疑念がその冷たさとは別種の冷たさを菫の背筋にもたらした。駿について感じていた違和感。なぜ彼は真の霊刀を隠すのか。自分と華絵が抱く疑問を早くも興吾は嗅ぎつけている。この勘の良さ。霊刀を操る能力と合わせて、興吾が将来、隠師として大成するであろう要素は十二分に出揃っている。
「村崎には村崎の事情があるんだろうな」
「男の事情か。なら簡単には突けねえな。でももし、村崎駿の事情が菫を危険に近づける類のものなら、見過ごせないぜ、俺としては」
「村崎と闘うとでも?」
「場合によっては」
「止めておけ」
「どうして。惚れてんのか?」
「お前が負けるからだ。少なくとも今はまだ」
「平凡な霊刀が俺の八百緑斬にか」
「そうだ」
断言すると興吾はむっとした顔をしたが、反論はしなかった。霊力、能力の見極めは彼にもついているのだ。だからこそ非凡であるとも言えるのだが。確かに駿は得体の知れないところがあるが、彼が自分を害する局面になるとは、菫には考えられないのであった。詰まるところ菫は、不審な点も含めて、駿を信頼していた。今回の一件でも、駿は重要な戦力であると思う。
〝汚濁が生じた、その瞬間を叩く〟
京史郎の言葉を思い出す。
(やはりそれしかないのか)
明日から板倉家に張り付くことになりそうな展開に、菫はやや気が重くなった。
食事を食べさせてもらった立場として、食器洗いをしている菫に、興吾が喜色めいた声を掛けた。
「菫。そこが片付いたらさっき言ってた羊羹を出せよ」
丁度、片付けの終わった菫が、タオルで手を拭きながら答える。
「ああ。紅茶を淹れよう。カフェインで眠れなくならないように、ルイボス系の」
「俺は別に白ワインでも良いんだぜ?」
菫が冷蔵庫から白ワインを取り出すのを目敏く目撃した興吾が、声を掛ける。イタリアはヴェネト産のロミオ&ジュリエット。比較的、値段も手頃で呑みやすい。ラベルにはロミオとジュリエットが口づけして重なり合う影が象徴的に描かれている。ステムの長いワイングラスを一つだけ持つ菫を見て、興吾が不満そうな顔になる。
「莫迦。お前にはまだ早い」
甘口とは言え流石に小学生に飲酒を許す訳には行かず、興吾は更にぶすくれた顔で紅茶を渋々と飲んだ。菫はそれを横目で見つつ、ドライフルーツ入りの羊羹を白ワインで堪能した。そもそも羊羹自体にアルコールがしっかり効いており、興吾に食べさせて良かったものか、菫はあとから考えを巡らした。自分の酒量は、明日に響かない程度に抑えたが。
翌日は曇天だった。重く立ち込めた雲が、陰鬱に視界に広がる。
来る、と空を仰いで菫は感じた。
汚濁の気配が近い。
うぞうぞと蠢くそれら。微かな臭気。
板倉家の近所を駿、華絵、興吾らとパトロールしていた。こんな湿り気のある気候は、汚濁が発生するに向いている。板倉の老夫婦は、未だに智恵子の声を聴いているらしい。ハリネズミが戻る気配もない。嘆きと不安は凝りとなって、汚濁を誘発する。
警戒は夜まで続いた。汚濁の発生する割合は、夜のほうが高いのだ。
ふ、と菫の目の前の道を、セーラー服姿の少女が通り過ぎた。その面差しは、板倉家の仏壇に飾られていた写真のものと酷似していた。
菫は用意していた桜の枝に呪言を唱える。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え。来い、銀月」
桜の枝先に銀色の光が溢れ、輝く刀身を為す。湿気の多い熱帯夜だった。出現した昏い影は何体もあり、それぞれが汚濁特有の異臭を放っていた。いつになっても慣れない臭いに、鋭敏な嗅覚が悲鳴を上げる。
「乱朱!」
「わだかまれ宝珠、滞れ悪鬼」
華絵たちが駆け付けてくる。華絵は紅の、駿は青紫の燐光を纏い、夜闇と醜怪な汚濁の群れ集う中、鮮やかな色彩が目に沁みた。
「……興吾は?」
「多分、足止めされてるな」
「村崎、行ってくれ。ここは私と華絵さんで」
菫のこの言葉に、駿は一瞬、考える表情を見せ、それから頷くとすぐにその場から去った。わざと戦力を分断された可能性が高い。そこまで知恵の回る汚濁なのか、誰かが裏で糸を引いているのか。
乱戦が始まる。菫は華絵と背中合わせで汚濁と対峙した。影たちを、襲い来る者から斬って捨てる。華絵の剣捌きの型と菫の型が時にぶつかり合い、共闘の難しさを思わせる場面はあったものの、概ね、二人の働きによりその場の汚濁は滅されていった。
もうすぐ、ここの汚濁は全滅する。そうすれば興吾たちと合流して、と菫が考えていた矢先、弾丸が頬を掠めた。驚愕し、瞬時に結界を強化して備える。
「菫っ」
「掠っただけです。華絵さんも注意して」
汚濁は拳銃で狙撃などしない。明らかに人の、それも敵の手による攻撃に、菫たちの緊張は否応なしに高まった。正体の定かでない敵の存在に、恐れる心を煽られる。
弾丸はばらばらと飛んでくる。
もしも興吾たちも銃撃を受けていたら、と想像した菫は背筋が寒くなった。先程の弾丸が掠めた傷から、鮮血が滴り落ちる。混乱の極致ゆえか、菫の目にはその鮮血が美しく見えた。戦場ならではの異常な心理だ。
曇天はまだ泣いていないというのに、弾丸の雨は絶え間ない。
近所の住民が騒ぎ始める頃だ。結界もこれ以上持ち堪えるのは厳しい。
菫が苦渋に顔をしかめた時、眼前にひらりと現れた人影があった。その人影は菫と華絵の盾になるような立ち位置にいた。菫が危ないと言う間もなく、人影が手にしていた蛇の目傘を開いた。傘は表面がうっすらと紫色に光り、銃弾を弾き返している。やがてしつこかった銃撃が止むと、残っていた汚濁がここぞとばかりに菫たちに襲いかかってきた。
「極北の王、清かなる龍影、召しませ夢を……、銀滴主」
菫たちに助勢した人影は白髪、黒い単衣を纏った男だった。菫と同じ、紫色の燐光。彼は蛇の目傘を放ると、手にしていた一輪の桔梗から霊刀を顕現させた。その霊刀は菫の銀月に似て、美しい銀の水を浴びたように眩しく輝いた。
神速の、斬撃に次ぐ斬撃。
見る間に汚濁が滅され、この場は菫たちだけとなった。
振り返った男を見て、菫が目を瞠る。
「久し振りですねえ、菫はん」
「暁斎おじ様……」
同じ頃、興吾と駿も菫たち同様に狙撃され、結界を張り、次の手を打ちあぐねていた。銃撃音の中、興吾が駿に大声で問う。
「おい村崎駿、何か策はないのか!」
「君こそ何か思いつかないの」
「そうだ。お前、霊刀を出せ、本当の奴だ」
「何の話か解らないね」
「大体、何だこいつらは! 隠師の敵は汚濁や妖怪だけじゃないのか」
「俺たちのお友達じゃないことだけは確かだ」
チッと興吾が舌打ちする。
耳を痛いように刺激する音と声、そして汚濁の異臭で、結界を張っていなければ通り掛かった通行人がいたら気絶しているところだろう。
そんな銃撃音がぴたりと止んだのは、それが宙に浮いて光る姿を見せた頃だった。
それはクリスタル硝子で出来た、握り拳大程の……。
「ハリネズミ……?」
駿も興吾も虚を突かれて、宙に浮くその置物を凝視した。その隙を突こうとする汚濁をすかさず霊刀で滅する。
浮遊するハリネズミはそのまま光を放ちながら板倉家の壁を摺り抜けて行った。
「どういうことだ」
狙撃手が呟く。急に銃の制御が利かなくなった。
彼は住宅街の裏手の竹林に身を潜めていた。
「ハリネズミは奪取したのではなかったのか」
「あれは元来、付喪神だ。自らの意志で守るべきところに戻ったのだろう」
「とんだファンタジーだな」
狙撃手に答えた男は成り行きを見届けると、闇に紛れて消えた。