誰が神を盗んだか
雨は平等に誰にでも降り注ぐ。どんな思惑を抱く者にも。
板倉家から出てくる菫たちを、グレーのシャツ、黒いスラックスの中年の男が眺めていた。その隣にはもう少し若い男が立っている。いずれもビニール傘を持ち、雨音を鳴らすに任せている。
「なぜ隠師が動いたか……」
「教える者があったらしい」
「ふん、こそこそと。まさに〝隠師〟だな」
「口を慎め。司祭も隠師だ」
降って湧いたように、割り込む声があった。
「心外やなあ。隠師の意味はそないコソ泥めいた意味ではありません」
男たちが振り向く。
黒い単衣の着流し。白髪、薄紫の双眼。合わせたように紫と白の蛇の目傘を差している。これが女性であれば匂い立つようにあえかであったかもしれない。
「――――――暁斎。貴様か」
「おや。僕は有名人ですねえ」
細められる、薄紫。その様子は銀線に混じってもよく見えた。戦慄と共に。
暁斎と呼びかけた男が懐から出した拳銃を彼に向ける。日本警察に採用されているH&KP2000。名刺を差し出すように軽やかで自然な仕草だった。
「日本は法治国家ですえ」
そう言う暁斎も傘をくるりと回すと、すらりと仕込み刀を抜いた。結界を張り、銃弾に備える。
「花を、手向けましょか? 弔いの花を……」
白髪を雨滴に濡らしながら、暁斎は微笑んだ。
研究室に戻った菫たちは、熱いコーヒーを淹れて、美紀子の話をそれぞれの脳内で精査していた。興吾はコーヒーにミルクと砂糖を入れた。そんなところは年相応の子供じみており、駿はふと笑んだ。
「誰がハリネズミを持ち出したんだろうな」
菫が白地に黒で花と果実が描かれたアラビアのコーヒーカップから口を離して、誰にともなく言う。フィンランドのブランドであるアラビアのこのカップも、持永が揃えた物だ。幾らしたんですかと以前、菫が訊いたら珍しく重々しい顔で「割ったら弁償……」とぼそりと言った。以来、菫はこのカップを使う時には細心の注意を払っている。
「故意か偶然か……。ハリネズミの消失によって汚濁の出現率は上がった」
「汚濁を意図的に生み出そうという思惑は、あるのかもしれないわね」
駿と華絵がそれぞれ応じる。
「それに……気付いた?」
華絵の問いに駿と菫、そして興吾も頷く。
「仏壇に霊力の名残りがあった。ハリネズミは、付喪神化している可能性が高い」
「多分、智恵子さんの為に仏壇に置かれてから、付喪神になったのね。智恵子さんを悼む心を受けて。そのハリネズミ……もとい付喪神の存在が、あの家の人々を和ませ、守護していたとも考えられるわ」
駿の端的な指摘に華絵が言い添える。
「智恵子さんの霊の為にも、板倉家の為にも、ハリネズミを取り戻す必要がある」
そしてそこで問題は最初に戻る。即ち、誰がハリネズミを持ち出しだのか。
「ハリネズミが持ち出されただけで智恵子さんが現れたとも考えにくい。誰かが、智恵子さんに負の霊力を介添えしたんだ。汚濁を望む存在が、いる」
駿の発言は隠師たる菫たちに重く圧し掛かった。なぜなら本当にそんな存在がいるとすれば、それは菫たち隠師の存在意義を真っ向から否定するものだからだ。このまま汚濁を滅していれば、その存在との遭遇、そして対決は必至だった。
悩んだ挙句、菫は父である京史郎に相談することにした。本来であれば既に隠師としての第一線を退いている京史郎に相談するのはお門違いかもしれないが、菫の目には未だに父は憧れの隠師、戦士であった。
閑静な住宅街の一角に神楽家はあった。
建売住宅とは言え、庭には桜の樹と枝垂れ梅の樹が植えられ、季節の花々が花壇を賑やかしている。京史郎は公務員で、帰りは夕方になる。菫は父の帰宅するであろう時刻よりやや早めに、家に着いた。
母の美津枝が笑顔で出迎えてくれる。
「あらあら。菫。お帰りなさい。今日は急なのね」
菫のスリッパを出しながら、嬉しそうに美津枝が言う。
「お夕飯食べてく?」
菫は苦笑した。美津枝は菫に預けた興吾の存在を忘れている。
「食べないよ。今日はちょっと、父さんに訊きたいことがあって」
「隠師のこと?」
リビングに菫を案内しながら眉をひそめる。美津枝も隠師の家系だが、本人にその力は全くなく、隠師や汚濁についても知識として知るだけである。
「うん、そう」
「あんまり危ないことしないでね、貴方は女の子なんだし。興吾だってまだ子供なんだから。コーヒーで良いかしら? 丁度、頂き物の羊羹があるの」
「え、羊羹とコーヒー?」
「ふふ、それがね、無花果なんかのドライフルーツ入りの羊羹なのよ。ちょっと変わってるでしょ?」
「うん。でもその前に、お線香上げるよ」
「そうね」
菫は実家に帰省すると必ず最初に翔の位牌に線香を上げることにしている。何となく仏壇を見る。当然ながら、そこにクリスタル硝子のハリネズミはない。
菫は静かに仏間を出た。
美津枝がパタパタと台所を動く様子を、菫は観察していた。注意深く。程なくして、菫の花柄のコーヒーカップと、小皿に一切れ、ドライフルーツ入りの羊羹が菫の前の卓上に出された。その間も菫は母親を観察する。髪、肌、目、仔細に密かに凝視する。
「嫌ね、この子は」
「え、」
ぎくりとする。気付かれたのだろうか。
だが美津枝は笑っている。
「白髪が増えたと思ってるんでしょ。染めるのは抵抗があるのよ。お父さんもこのままで良いって言うし……。いずれ貴方も、この年になったら解るわ」
見当違いの母親の苦情にほっとする。美紀子といい、初老の女性の白髪への意識は過敏なようだ。菫は切なくなった。すると玄関の鍵が開き、スリッパがリビングに近づく音がした。
リビングのドアを開けたのは、菫の父・京史郎だった。周到な京史郎のことだから、傘は持参して出たのだろうが、雨脚が思いの外強くなったのか、スーツの肩が少し濡れている。いつも端正な佇まいの京史郎は、クールビズが謳われる昨今でも、スーツを着て、だらしなく着崩すこともない。
「お帰りなさい、貴方」
「お帰りなさい、父さん」
「ああ。菫、来てたのか」
出迎えの挨拶の二重奏に、京史郎が顔を綻ばせた。
「父さんに相談があって」
「じゃあ、書斎に来なさい」
「貴方、コーヒーはいかが?」
「あとで貰うよ」
美津枝に聴かれるには都合が悪い話もあるかもしれないとの、京史郎の気遣いだった。
京史郎の書斎は六畳の洋間で、調度品などからどことなくイギリスを思わせる。イギリスに留学した経験を持つ京史郎ならではだ。本棚には洋書を含めた蔵書がぎっしりと並んでいる。硝子鉢に植えられた観葉植物のジェフレラが、書斎の机の上を物柔らかな印象にしていた。机上にはインク壺や硝子ペン、羽ペンなど、いつ使うのかと思うような文房具もあったが、この部屋の雰囲気を演出するには相応しかった。
「……ほう」
「そのハリネズミがないことには、手の打ち様がないんです」
「要は汚濁を生じさせなければ良いんだろう?」
「生じるでしょう、今のままでは」
「生じたら、滅すれば良い」
「……板倉さんたちに害が及ぶ可能性があります」
「――――ふむ」
京史郎が肘掛け椅子から立ち上がり、硝子窓を向く。
暗い闇に、相変わらず白銀の線が止むところを知らない。
「そうだな。私であれば」
「父さんであれば?」
「汚濁が生じた、その瞬間を叩く」
「……飽くまでオフェンスの姿勢ですね」
「ディフェンスの姿勢を貫いた上でのオフェンスだ。止むを得まい」
京史郎の書斎に下がるペンダントランプは、イギリス製のアンティークで、水色のウラン硝子に緩やかな波線が施されている。その波線が部屋全体に複雑な陰影をもたらして、部屋を独特の空間に仕立て上げていた。
「母さんの様子はどうだ。お前から見て」
不意に心臓を冷たい手で撫でられたような心地がして、菫は息を呑んだ。
「変わりありません」
「なら良い」
良いのか。それで良いのか。本当に。
「――――父さん。父さんは、」
菫は机上に飾られた翔の写真を見る。
「兄さんの死についてどうお考えですか」
ずっと訊いてみたかった。だが翔の死に沈む父を知る菫には、訊き難いことであった。いつも毅然とした父が、翔の死に打ちのめされ、長い時をかけて立ち直る姿を菫は見てきた。何より翔の死の現場に自分は居合わせたのだ。
京史郎が菫を振り向いた。その表情を何と言い表せば良いのだろう。
悲しみ。憐憫。憤り。哀惜。後悔。
……後悔?
「バイオレット」
ぽつり、と。雨垂れのように京史郎が低く呟いた。
「バイオレット……、it`s so secret」
京史郎は肝心なことを話す時、英語になる場合がある。
今もそうだった。
シークレット、と京史郎は繰り返した。
哀切な響きは雨音に混じって煙のように溶けた。