檸檬とハリネズミ
椅子を斜めに傾けて、駿がぽーん、ぽーん、と檸檬を投げては受け留める、を繰り返している。
天線は未だ止まず。
雨に降り込められた駿の目は宙に向かい、同じ空間にいる興吾も眼中にない。尤もそれは興吾も同じことで、研究室の応接セットでないほうの黒い革張りのソファーに座り、紫水晶を矯めつ眇めつして見ている。
「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた」
「かなしく白くあかるい死の床で。『智恵子抄』のレモン哀歌か」
駿が目を瞠って興吾を見る。檸檬が放物線を描くのを止める。
「よく知ってるね、興吾君」
「高村光太郎だろう。有名だ。あと、呼び捨てで良い」
それにしても小学生が、明治生まれの詩人兼彫刻家の詩を知っているとは驚きである。しかも興吾の様子だと『レモン哀歌』を全て諳んじていそうだ。
「お孫さんの名前の字が智恵子だって伺ったからさ」
「『智恵子抄』は愛の詩集とか言われてるが、俺は嫌いだ」
「おや、どうして」
「智恵子は高村光太郎に押し潰されて死んだからだ。才能も、人生も」
「確かにそういう説もあるけど……」
駿の中で興吾に対する警戒レベルが上がる。これはただの小学生ではない。もちろん隠師であるという意味では既に常人ではないのだが、興吾の博識は非常人振りを更に糊塗する。
〝捜して……〟
不意に響いた少女の声に、駿も興吾も思わず臨戦態勢をとる。ぞくりとする冷気が室内に漂う。パチパチという音と共に電気が明滅する。この研究室には結界が張られている。人外や不心得者の類は侵入出来ない筈なのだが。
〝捜して……〟
「君は誰だい?何を捜して欲しいのかな?」
〝私は智恵子。ハリネズミを捜して〟
声が途切れると、室内の空気も電気も、正常を取り戻した。
「そんなにもあなたはハリネズミを待ってゐた」
「おい」
「冗談だよ」
駿が肩を竦める。
窓の外の雨を眺めて、菫たちが戻ると報告することの算段を頭の中でまとめていた。
戻ってきた菫と華絵からは、微かに甘い香りがした。まったりした空気を伴って戻った女性二人に、その空気を壊すような報告をしなければならない駿は、多少、気が重かった。
「智恵子さんを誘導している存在がいる?」
「多分な。ハリネズミが何のことか解らないが、眠っていた智恵子さんの魂に働きかけ、板倉夫婦が動揺するよう、仕向けている奴がいる。ご丁寧に、俺たちに挨拶までしてきなすった」
菫も華絵も思慮深げな顔になる。
「……智恵子さんのご両親は、智恵子さんの声を聴いたり姿を見たりはしていないんだよな?」
菫の問い掛けに駿が頷く。
「ああ。そこも解せないが……、より死期の近い老齢の板倉さんたちに狙いを絞ることで、汚濁の増殖を目論んでいるのかもしれない」
「ハリネズミって何のことかしらね」
華絵が机上の檸檬を長い爪で突く。
「ペットとか?」
「いずれにしろ、一度、板倉さん宅に行く必要はあるな」
菫も華絵も、密かに駿を盗み見た。駿はそれを知りながら無反応だ。知りながら無反応であることこそが、何かを秘匿していることを示唆する。興吾も姉たちと駿を見て、彼なりに思いを巡らせていた。
傘が歌うのを聴きながら、菫たちは板倉家に向かった。予め連絡はしてある。
板倉家は思ったよりモダンな建物だった。漆喰の外壁に、玄関先にはオリーブと桜が植えてある。
「正直、戸惑っております」
智恵子の母、板倉美紀子は菫たちに対して不快な表情を隠そうとしなかった。うりざね顔の、綺麗な女性だった。窺える年齢にしては多いと思える白髪の量が、娘を喪った彼女の心痛を物語っていた。ピリピリとした空気を纏わせてはいたが、美紀子は菫たちに紅茶とクッキーを供して、客人をもてなす体裁を取った。白髪に紫の目の興吾の存在には驚いた表情を見せていたが。小学生が何をしに来たと追い返したりはしなかった。
広い間取りのリビングは明るく洋風で、天井のシーリングファンは空調の冷風を部屋全体に行き渡らせていた。シーリングファンと一体となった鈴蘭型の照明が、暖色を点し、同じく暖色のソファーと伴ってリビングに柔らかな印象をもたらしていた。観葉植物が多いのも、このリビングの居心地の良さに一役買っているようだ。だがどんな演出を以てしても、美紀子の硬化した態度の前では、自然、菫たちは恐縮するしかなかった。
「今になって義母たちが娘の声が聴こえるなどと言い出すのは、私への当てつけですわ」
「と、申しますと……」
この中では最年長の華絵が主な話し相手を務める。
美紀子が苛立たしげな溜息を吐く。
「あの日……。智恵子が事故に遭った日、私は美容院に行っておりましたの。その為、連絡を受けるのが遅れ、智恵子の死に目に会えませんでしたわ。それを未だに義母たちは責めているのです。自分を飾ることのほうを、娘の大事より優先させた、と……。私だって」
そこで美紀子が声を詰まらせた。双眸から涙がこぼれ落ちる。
「私だって、何度、自分を責めたか解りません。智恵子を亡くしてから、美容院に行く回数は減りました」
白髪が目立つ理由は、心労の為ばかりでもなかったようだ。
「ハリネズミ、にお心当たりはございませんか?」
美紀子が潤んだ目を丸くする。
「どうしてご存じなんです?智恵子は昔から小動物……、特にハリネズミが好きで、最後のあの子の誕生日には、クリスタル硝子で出来たハリネズミの置物をあげたんです。本当は、飼ってやるのが一番喜んだんでしょうけど、私も主人も動物アレルギーで。智恵子が逝ってしまってからは、その置物を仏壇に飾っていました。ところがそれがこの数日、見当たらないんです。あれは……そう、丁度、義母たちが智恵子の声を聴いたと騒ぎ出した日と重なりますわ」
「成程……。あの、折角ですから智恵子さんにお線香を上げさせて頂いても?」
「ええ、どうぞ。そうしてやってください」
美紀子の顔は話している内に険が取れ、今ではだいぶ穏やかな顔つきとなっていた。
菫たちはリビングの横にある仏間で、智恵子の位牌に線香を上げた。
仏壇には智恵子と思しき写真が飾られていた。セミロングの髪の、セーラー服姿の少女は明るく笑っている。クリスタル硝子のハリネズミがここにあれば、その笑顔をより輝かせたのだろう。