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蛇腹

 雨が上がった翌日、空気がまだしっとりして、それでいて清澄さを感じられる気候だった。菫は研究室に向かった。もしかしたらという期待があった。

 研究室のドアを開けたら、駿がいつものように笑顔でおはようと迎えてくれるのではないかと。

 期待は儚く潰えた。

 華絵と瀧が、菫におはようと言う。二人しかいない。まるで当たり前のように駿は不在で、菫は取り繕った笑顔で彼らに挨拶を返した。室内に漂う労わるような雰囲気が、菫をいたたまれなくさせた。集めた史料や資料、文献に目を通し、パソコンを起動させて修士論文に集中しようとする。忙しさは時に救いだ。悲しみを紛らわせることが出来る。中間発表も近く、気を抜くことは出来ない。華絵がことりと青磁の湯呑を置いてくれる。さりげない気遣いが有り難かった。

 瀧は大学を休学してこちらに来ているそうで、さしてやることもなく暇そうな顔で駿が使っていたパソコンを弄っている。丁度、菫の目の前だ。そこは駿の席だと、瀧を謗りたくなる衝動を堪える。瀧はちらりと菫に視線を遣して、何も言わず手を動かし続けた。菫の胸中などお見通しなのだろう。

 菫は恥じ入る思いで、パソコンの画面に目を戻した。駿がこのまま戻らなければ、彼もまた休学、或いは退学の扱いを受けることになるのだろうか。央南大学のレベルは高い。学生はもちろん、院生ともなれば、要求される研究結果のレベルは格段に跳ね上がる。菫は文字の羅列を目で追いながら、強いて気持ちを学究へと向けた。緑茶の入った湯呑は両手で抱えるように持つと温かく、心に沁みるものがあった。


 杵築大社の中世の御師の活動は、宗教のみならず政治や軍事にまで介入し、非常に興味深い。今の御師や、隠師とも繋がるルーツを見る思いで、菫は執筆を進めていた。骨子だけでも形にしておかなければ、中間発表で容赦ない教授陣に酷評されるのは明らかだ。形ばかり在籍している隠師は修士の資格こそ貰えるだろうが、酷評に晒されない理由はどこにもない。

 以前、卒論の中間発表を行ったある学生に対して、近代史が専門の教授が「今、君が発表したのはただの紙屑だね」と言い放ったという事実は語り草となっている。尤もその教授は、勉学に熱心な生徒には惜しみない称賛を送るので、恐らくこきおろされた学生は、かなりの怠慢をしていたのだろう。卒論の中間発表でさえ、そんな叱責紛いの評価を受けるのだ。修士論文で準備不足の発表をしようものなら、どんな罵声を浴びせられるか知れない。強迫観念もあって、菫は手当たり次第に史料に資料を収集し、自分なりの主義主張とその論拠や類例を示そうと躍起になっていた。


 しばらく集中して執筆していると、いつの間にか華絵が部屋から消え、瀧だけが目の前に座っていた。赤い目はパソコンに据えられている。据えたままで、菫の視線を感じたらしく、「何?」と訊いてきた。


「華絵さんは?」

「持永教授の講義の手伝い。菫ちゃんが集中してるみたいだったから、そっと部屋を抜け出してたよ」

「そうか。私は学食の自販機に行くが、瀧は何か要るか?」

「んじゃ、コーラがあったらお願い。なかったらフルーツ・オレで」

「解った」


 央南大学の学食は合同講義棟の地下一階にある。自動販売機はその入り口横だ。

 コーラは無かったので、代わりにフルーツ・オレとコーヒー牛乳を買った。昼近い時間帯なので学生たちで賑わっていて、階段を上りながら何人もの生徒とすれ違った。中には顔見知りの教授や准教授、院生もいて、会釈したりしてその場を過ぎた。

 合同講義棟の出入り口横にある駐輪場には自転車が溢れ返っていて、中にははみ出している物さえあった。そういう自転車は注意を示すシールが貼られ、酷い時には撤去される。


 淡く、刷毛で塗ったような青空の下、文学部棟まで戻ると、自分の居場所に帰った心地で安心するものがある。もう長い年月をこの建物で過ごしているので、それなりに愛着があるのだ。入り口のすぐ脇には煙草の灰皿と一脚のパイプ椅子が置かれている。昼で人が出払っていることもあり、閑散として薄暗い一階の廊下の内、そこだけがスポットライトを浴びたかのように目立っていた。

 見知らぬ青年が、煙草をくゆらせながら椅子に座り、脚を組んでいたのだ。黒い長髪、座っていても高いと判る身長。こんなに目立つ容貌の学生がいたら、これまで記憶に残らない筈はないのだが。

 怪訝に思いながらも菫が彼の横を通ろうとした時。


 するり、と腕が後ろから前に回された。何の気配も感じられなかった。

 しっとり絡まるように、しなやかな筋肉のついた腕は菫を拘束し、紫煙が菫の顔の前を右から左に流れた。

 

「見つけた」


 耳朶に吐息が掛かり、鳥肌がざわりと立つ。

 動きたいのに動けない。青年が発する強烈な殺気が、菫を硬直させ、指一本、動かせないようにしていた。


「バイオレット。そうだろう?」


 ふふ、と青年が笑う。さも楽しげで、獣が小動物をいたぶるような笑いだった。


「綺麗だね。悪くない」


 前に回されていた腕が、そのまま緩やかに下降して、菫の胸に触れようとした。

 赤いリボンが飛来して、青年の腕を束縛し、彼の総身そのものをも拘束した。

 青年の目が僅かに大きくなる。漆黒の双眸。

 二階から一階に下る、階段上からこちらを見ていたのは赤い双眸。

 瀧が冷たい視線で青年を見下ろしていた。


「俺のテリトリーでおいたは止めてくれるかな。蛇魅(じゃみ)

「おや。いたのか。麒麟児」

「あんたがいるってことは、玲音司祭に呼ばれたのか」

「ああ。実力者はどこも引く手数多でね。さしずめお前もそうなんだろう?」


 ふん、と瀧が鼻を鳴らし、赤いリボンを操り菫から晃音を遠ざける。ギリギリと、拘束の度合いは強まるばかりだ。流石に晃音も苦痛の表情を露わにし、辛うじて動かせる指で煙草を上に向けた。煙が昇る。


「開け放たれた天界の門。(はい)絶句(ぜっく)


 煙草が、灰色の刀身を持つ一振りの剣に変じた。霊刀の顕現だ。極めて例外的な。

 霊刀で瀧の赤いリボンを弾くと、晃音は後方に下がった。即ち、入り口寄りへと。リボンの切断にまで至らないのは、瀧が練り上げた結界の塊の強固さゆえだ。


「また逢おう、バイオレット。今度は楽しいことをしようじゃないか。二人きりで」


 晃音が煙草の残り香をその場にして去ると、瀧はリボンを腕の一振りで回収した。


「油断大敵だよ、菫ちゃん。建物丸ごと、結界術張っておいて正解だったよ」

「今のは誰だ」


 瀧の元に歩み寄りながら菫が尋ねる。声が震えないように努力した。


「聴いたことくらいはあるんじゃないかな。五十鈴晃音。はぐれ隠師の最たる者」

「蛇魅……」

「そ。冷酷無比で粗野で、男でも女でも食べちゃうとこからついた二つ名だよ」

「瀧とは顔見知りか」


 ここで瀧が嫌そうな顔をした。渋々と言った風に口を開く。


「昔、襲われかけた。まだ子供の頃だ。ばあさんがいなけりゃ、俺もあいつの好色の餌食になってたかもね」

「煙草から霊刀を顕現させていた。そんなことも可能なのか」

「あいつは異常だよ、色々と。クレイジー。煙草って元々は植物でしょ。だから霊刀も呼べるって理屈じゃそうなんだろうけど、そんな芸当を実際にやってのけるのは五十鈴くらいのもんだ」

「……ありがとう」


 瀧にコーラの代わりと言ってフルーツ・オレを手渡して菫が言うと、瀧が怪訝そうな顔をした。歩きながら話していたので、二人はもう研究室の手前まで来ていた。


「んん? 何が?」

「助けてくれて」

「ああ。いや。ばあさんにしっかりやれって言われたし」


 それに、と研究室のドアを開けながら瀧がつけ加えた。


「もし彼が戻ってきた時にさ、菫ちゃんに万一のことがあったら、顔向け出来ないからね」


 彼というのが駿を指すことに、数秒経ってから気付く。気付いて、物悲しいような切ない気持ちが込み上げた。瀧の気持ちが嬉しいとも思った。



 央南大学の校門を出た晃音の表情には愉悦が浮かんでいた。

 月光姫の二つ名で畏怖される菫は、思いの外華奢で、頼りなげな少女のようだった。そして白い肌、切れ長の目に睫毛の庇は長く影を作り、唇は名も知らぬ花を思わせた。十分に、自分の美意識に適う。

 喰らい、蹂躙すればどんな声で鳴いてくれるのか。今から楽しみだ。

 仕事の傍ら、自らの欲求を満たすのは晃音の常だった。強者であればある程、征服した時の快感は何にも代え難い。恥辱と屈辱に顔を歪め、自分を睨む顔の、何と魅力的なことか。

 それにしても大学というものは。草を食む子羊たちの集う草原めいて、如何にも安閑と平和だった。戦場を渡る晃音には別世界のようで、多少、癇に障った。まやかしの日常を享受しながら恥もせずのうのうと生きる軟弱な人間たち。象牙の塔に籠り、戦闘とは無縁の滑らかな手で書物のページをめくるのであろう教授陣。片っ端から喰らい尽くしてやりたくなる。脳みそだけが肥大した愚者には、地獄の光景となるだろう。


 大学の長い塀の横を歩む晃音は、すぐには気付かなかった。彼には珍しく外で思索に耽っていたからだ。激した感情が異常を察知する感覚を鈍らせた。

 ふと顔を上げれば目前には見知らぬ青年が一人立つだけだった。

 一拍遅れて、結界内に誘導されたと知る。

 青年は自分と同年代くらいに見えた。憂いがちな顔は、誰かに似ている。

 悪くないと思うのは、晃音から切り離せない嗜好ゆえだ。

 端整な顔立ちは、けれど決意を秘めているようでもあった。手には赤紫の(いぬ)(たで)の花。

 

「明には明の歌響き、宵には宵の星光る。紫藤(しとう)(えん)


 ついに主に呼ばれたと、歓喜する藤色の霊刀を構え、翔は晃音と対峙した。憂いがちの顔には仄かな微笑が浮かび、たったそれだけの表情に、晃音は滅多になく戦慄を覚えた。



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