エンドレスゲーム
粉糠雨の降る日だった。微小な水滴を受け、野山が、草花が、紅葉し、実ろうとしている時節。
傷だらけでぼろぼろになり、やつれ果てて教会の門前で倒れていた真紗女を見つけたのは樹利亜だった。彼女は短く悲鳴を上げ、真紗女を抱え起こした。真紗女の意識は混濁状態で、樹利亜はすぐに彼女を屋内へと運び込んだ。幼女とは言え、樹利亜が軽く抱え上げることが出来るくらい、真紗女の体重は激減していたのだ。
一時は死をも覚悟していたのだ。悲惨な状態であれ、生きているのは幸運と言えるだろう。だが真紗女が見開いた目には最早、何も映っておらず、怯えや恐怖、戸惑いが色濃くあった。身体の傷よりも精神に負った傷のほうが問題だと、樹利亜も、報せを受けて駆けつけた遙や虎鉄も思った。玲音は憂いがちな顔で、真紗女の髪を慈しむように丁重な手つきで撫でた。
真紗女の部屋は建物内で数少ない和室で、調度も和風の物ばかりだった。桐箪笥や鏡台が置かれ、紙風船が幾つも所在無げに転がっている。青、緑、ピンク、白、黄色の描く放物線。
「瀧は?」
出し抜けに、澄んだ瞳で尋ねた真紗女に、皆が注目する。
「瀧と遊ぶ約束をしたの。でもまだ、来ないのよ」
記憶力と判断力が著しく低下している。今の真紗女は狂気と紙一重の場所にいた。
玲音が噛んで含めるように言い聴かせる。
「彼は来ない。真紗女。今は眠るんだ」
真紗女はいやいやと言うように首を振ったが、やがてことりと玲音の腕の中に頭を預けた。天才と名高い巫術士の田沼瀧が、どんな手段で以てここまで真紗女を追い詰めたのか、玲音たちに知る術はない。ただ仲間を手酷く傷つけられたという認識から怨恨は生じた。
布団に真紗女の小さな身体を横たえた玲音が立ち上がる。
「骨折しているが回復傾向にあるようだ。戦力の補充が必要だな」
冷淡とも思える玲音の発言に、遙が軽く眉をひそめた。
目を開けたら興吾がいた。
ベッドの傍らに座り、まるで見張るかのように菫を見ている。白髪、紫の瞳に、堪え難い懐かしさと愛しさを覚え、菫は泣きたくなる。
暁斎は帰らない。
駿も帰らない。
帰らない男たちばかりだ。去って行く男たちばかりだ。引き留めるには自分の掌は小さすぎて、彼らは菫を顧みることなく旅立ってしまうのだ。
身体を起こし、硝子戸の外を見るとか細い雨が降っている。朝方らしい。自分はどのくらい寝ていたのだろう。興吾の看病を疎かにしてしまった、と菫は自分を責めた。それを見越したかのように興吾が告げる。
「飯はちゃんと喰った。朝飯も作ってる。腕がこれだからちょっと手抜きだけど、喰うか?」
「うん。興吾、傷は?」
「痛み止めを飲んだ」
ではまだ痛みが引いた訳ではないのだ。興吾の言い方からそう判断する。熱はどうだろうか。窺うように興吾を見ると、紫の双眸が細くなった。
「まだ微熱はあるけどな。そこまで酷くない」
大人びた表情と口調。この子はこの歳で大人になりつつある、と菫は感慨のような悲しみのようなものを感じて複雑になった。
「そうか」
「自覚ないようだから言っておくけど、お前も熱が出てるぞ」
「え?」
体温計で測ると、確かに熱があった。
銀線の貫く外を再び見る。論文を書かなければならない。
「休めよ、今日も」
先んじて、興吾に釘を刺されてしまった。
キッチンから半熟卵とご飯、塩鮭を運んできた興吾に、菫は試みに尋ねてみた。
「興吾。兄さんを憶えているか?」
「――――兄さん? 誰の?」
「私とお前の」
「何言ってんだ、菫」
「……そうか」
菫は嘆息する。自分にも翔のことを忘れていた時期があったことは確かだ。そして興吾の記憶には今も翔はいない。
一度、夢現に現れた翔。
そして二度目はドアの外に佇んでいた。
妹が、ドアを開けるのを待っていただろう。
記憶のない菫は、ドアを開けなかった。開けなかったことを今では死ぬ程後悔している。
問題はどうして翔が存在するのかということだ。そして彼に関する記憶の欠落。
根拠はないが、暁斎が関与しているのではないかと菫は考えた。菫と同じく時を繰る銀。彼が、玲音の元で、過ぎた時間に干渉しているのだとしたら? 暁斎離反の理由が、そこに求められるのだとしたら。
暁斎は玲音の信念を支持して敵陣に身を投じたのではない。必要であるからこそ、裏切りという形を取ってまであちらに奔った。菫や京史郎と闘ったのも、敵を欺く為だとしたら。希望的観測かもしれないが、菫にはその真実のほうがしっくり来た。少なくとも暁斎は、汚濁を生む行為を標榜するような人間ではない。
半熟卵はまだ温かく、口の中で蕩けて黄味の旨味が広がった。興吾は手抜きだと謙遜したが、塩鮭の焼き方も按配が良く、熱があっても白いご飯を食べることが苦痛ではなかった。
自分たちの内で唯一人、翔を忘れていなかった駿に思いを馳せる。彼が混乱し、恐怖しただろうことは容易に想像がつく。恐ろしかっただろう。自分以外の全員が、いた筈の人間を忘れていることの恐怖。周囲を疑い、次は自分の正気を疑う。疑心暗鬼に陥った彼の苦痛、そして黒白の暴走により味わったであろう悲嘆を思うと、菫まで苦しくなった。
暁斎の成し遂げたいこと。駿が消えた先。
瀧なら知っているだろうか。最も身近で、最も情報を有していそうな男の姿を思い浮かべ、食べ終えた朝食の膳に箸を置く。
逢ったその日に教えられた番号に、電話を掛けた。
京史郎は極めて不本意に天蓋つきのベッドに臥しながら、銀滴の毒と闘っていた。御倉家の使用人は、念の入ったことに清拭(身体を清潔に保つ為にタオルなどで拭くこと)まで行き届いていたが、京史郎は感謝より抵抗感のほうが強かった。せめてもの救いは、ベッドから絨毯、カーテンに至るまで、布地の色が淡い青で統一されていたことか。これが真紅などであったりしたら遣り切れない。
暁斎が生かされた。菫の力で。
先を視る金の京史郎が視た未来は変わった。では、他の未来はどうだろう?
京史郎は嘗て亡くした息子のことを思い出していた。忘れていた間のこともまた、思い出した。これが過去に干渉した代償かと思いながら、慄然としたことは確かだった。翔を自分が忘れるなど、あってはならないことだった。
暴走した黒白を制し切れず、駿が消えたと聴いた。
彼は電話で京史郎に尋ねた。翔を憶えているかと。京史郎は誰のことかと尋ね返した。思い返しても今更、仕方のないことだが、駿に同情を禁じ得なかった。
暁斎も孤立しているが、彼はまだ自分の意志でそれを選んだ立場だ。しかし駿は、望まずして二重の孤立の輪に嵌められたのだ。
首を巡らせ、張り出し窓の外を見る。
細かく甘く降る雨は、微かに白銀に光る。
優しく降ってやってくれと、胸中で囁き掛ける。息子を想うように、京史郎は駿に同調し、雨が彼を強く打つことのないよう祈った。
「京史郎。体調はどうだね」
ノックの音と共に現れた昌三が訊いてきた。今、余り見たい顔ではない。京史郎にもそれなりの矜持も虚栄心もある。打ち伏した姿を、戦友とも呼べる相手に見せたくはなかった。
「芳しくないが、緩やかな快復傾向にある」
「それは重畳」
「会社は良いのか?」
「重役出勤さ」
「昌三」
「何だ」
「父として顔向け出来ないことを子に為した時、どうすれば贖えると思う?」
昌三の緑の目が疑問の色をも宿したが、彼は真面目な表情で簡潔に答えた。
「詫びて、抱き締めてやることだ。愛していると告げて」
「そうか。――――ありがとう」
翔に再び逢える機会が巡り来ることを、京史郎は心から希求した。
黒い髪はうねるようで、男性にしては長めだった。
フード付きの濃いグレーのパーカーを羽織り、黒いスラックスを穿いた立ち姿はすらりとして様になる。スラックスの両ポケットに手を突っ込んでいる姿勢は行儀が良いとは言えないが、玲音は黙認した。実力のある者が優遇されるのがこの世界だ。
「あんたからお呼びが掛かるとはな」
「こちらも人手不足でね」
シュッと擦ったマッチで煙草に火を点け、彼は紫煙を吐き出した。玲音がやや顔をしかめるが、構う様子はない。それどころか興がるようににやりと笑い、犬歯を覗かせた。
「報酬さえ払えれば働くぜ」
「言い値を払おう」
「流石、警察と癒着してるだけはあるな。ま、その警察も今やてんでばらばら、分裂してるみたいだが」
「五十鈴。無駄なお喋りをする為に君を呼んだ訳じゃない」
「解っている」
ふう、と再び紫煙を吐き出し、五十鈴晃音は唇に笑みを刷いた。男性的でありながら、蠱惑的でもある笑みだった。そして昏さが匂った。
世にはぐれ隠師は多いが、晃音程、孤高の一匹狼を貫く人間も少ない。彼はそれを可能にするだけの実力者であり、尚且つ、払いが良ければどんな主義思想の持ち主であっても手を組むことで有名だった。
獰猛、残忍でも鳴らしている晃音を、玲音は苦肉の策として迎え入れた。
「安野暁斎がいるんだよな?」
「今は病院だ」
「見えずの暁斎、されど視えたる、がよくこっちに就いたもんだ」
探るような晃音の目は、通常の日本人より黒い。ずっと見ていると暗黒に呑まれるような黒さだ。玲音は平然とその目を見返した。暗黒ならばそのものを玲音は身の内に飼っている。
「色々と事情があってね」
「事情、ね。白髪、薄紫の目か。悪くない。美形か?」
「そうなんだろうな」
暁斎の容貌に関心の薄い玲音は淡泊に答えた。
「喰っても良いか?」
玲音が咽喉の奥で嗤った。
全くこの男は。
晃音の好色の対象は男女を問わないことでも有名だ。但し彼の美意識に適うことが条件だ。
「好きにしたまえ。君の良い様にされる可愛げのある男なら、こちら側にはいないさ」
そう言って玲音は、粉糠雨の降るしずやかな音を聴きながら軽く目を閉じた。伝わる、苛立ちの気配。壁を乱暴に蹴る音がして、目を開けると晃音が部屋を出て行くところだった。さて、と微苦笑して、玲音は真紗女のいる部屋へと足を向けた。雨の音は幽けきほうがなぜか耳に響くと思いながら。