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偽りの花

「菫ちゃんって村崎君が好きなの?」

「菫が好きなのは暁斎さんよ。でも駿も、菫にとっては大事。これは私の憶測だけど、恋に近しい感情を持っていると思う」

「何か複雑だね」

「女心よ」


 華絵はそう一言で言い切ると、コーヒー豆をミルの受け皿に入れ、挽き始める。たちまち、香ばしい匂いが立つ。


「コーヒー淹れてくれるんだ。丁度良い。俺、チョコチップクッキー買ってきた」

「気が利くじゃない」


 薬缶が沸騰を知らせる。湯をケトルに移す。コーヒーフィルターに挽いた粉を入れる。


 菫の感情はよく解らない。恐らく本人にも解っていないのではないかと華絵は思う。

 恋慕の情を向ける暁斎と。

 失えないと思う駿と。

 その境界線は曖昧で、駿は身近過ぎて恋愛対象として見えていないだけではないかとも思える。深層には仄かな熱がありながら。

 駿にしておけば良いのに、と思ったことは何度もある。

 けれど事態がこうなるともう、何とも言えない。暁斎にしろ、駿にしろ、菫の前から去ってしまった男たちだ。不運としか言い様がない。

 少し冷ましたケトルの湯をゆっくり粉に回し掛ける。


「それで駿はどこなの?」

「言えない」


 華絵は思わずコーヒーフィルターから目を離し、瀧を睨んでしまった。瀧の表情は華絵の眼光を受けても揺らがず静かで、大人びた微笑を湛えていた。


「村崎君が可哀そうだ。解ってよ。華絵ちゃん」


 響く声には確かに同情が宿り、華絵はそれ以上何も言えなくなってしまった。自らの意志で去った男を軽々に捜し出すものではない。その思考は華絵にも同調出来るものだったのだ。




 布団を敷き、興吾は改めてそちらに移った。菫もベッドに横になる。その必要はないと言ったが、興吾が煩くベッドに追い立てたのだ。傷を負った姉弟はそれぞれに、互いを思い合っていた。獣と獣が寄り添うように、心を添わせて時を過ごした。戦いゆえの傷と、そうとばかりも言えない傷と。興吾の腕の傷は縫い合わされたが、菫の心の傷は未だ癒えず血が流れている。興吾は自分の負傷より、そちらのほうを重視した。


 菫が泣いた。

 強い姉の涙は、興吾の心を打った。


 なぜだろう。

 暁斎も駿も、菫を大事に想うようでありながら、菫を泣かせる真似ばかりする。女を泣かせる男、というものは、興吾の許容範囲を超えていた。守ってこそ、笑わせてこそだろう、と思うのは、彼の若さゆえだけではなく、真っ直ぐな気性からくる信条でもあった。


(何してんだよ)


 菫を傷つけた男たちに憤りが湧く。それが大人の男の選択の結果だと言うのであれば、自分は子供のままで良い。

 菫はベッドに横になると、睡眠不足と疲労も手伝い、すぐに寝入った。寝た姉を、今度は興吾が見守っていた。自分もまだ熱があるが、少し動くのが億劫な程度だ。眠る菫はぴくりとも動かず、微かに上下する胸を見なければ、まるで死んでいるかのようで、それが興吾の胸に痛ましさを喚起させた。

 昼になっても菫は目覚めず、興吾は生姜粥と春雨入り湯豆腐を二人分、用意した。自分の分を食べながら、起きない姉を時々、見遣った。生姜粥や湯豆腐が冷めても、菫が起きる気配はない。まるで目覚めることを拒否しているかのようだ。


 帰りたくないのだろうか、と興吾は考える。

 この過酷な現実に。


 月光姫と謳われながら。

 並み居る隠師たちの中でも、超越した力を持ちながら。

 菫が幸せそうだと思えないことに、興吾は割り切れないものを感じていた。


 それでも、と興吾は思う。

 それでも菫は目覚めると、また銀月を手にするのだ。相手が暁斎であっても、銀月を振るうのだ。いっそ眠ったままのほうが菫の幸せではないかと興吾が考える程度には、菫の置かれた状況は悲惨だった。

 すっかり冷めた生姜粥と湯豆腐をキッチンに運び、痛み止めと解熱剤を飲む。利き腕を負傷するとここまで不便なものかと内心、驚いていた。

 京史郎は今頃どうしているだろう。

 銀滴の毒を浴びたらしいが、菫の処置と彼の強靭な肉体を興吾は信じていた。暁斎と父が仕合うなど、少し前までは考えもしなかったことだ。看過し難い事態だと感じると同時に、強者同士の戦いへの憧れがあるのもまた、否めなかった。樹利亜の相手で手一杯で、暁斎たちの戦いの結界を透かして見ることなど到底、不可能だったが、それでも見ておきたかったと思う。

 布団に横になると、電気から下がった紐の先端の円球が目に入る。見るともなしにそれを見て、そして再び姉を見る。

 菫はまだ深い眠りの中だ。


「なあ、菫」


 眠る菫に呼び掛ける。届かないと承知の上で。


「俺がいてやるよ。暁斎おじがいなくても、村崎がいなくても、俺はずっと傍にいてやる。だから」


 だからあんまり泣くなよ、と囁いた。

 脳裏には水色の髪と蒼い双眸が浮かんでいた。彼女は今頃どうしているだろうと思いながら、興吾は眠る菫を見つめ続けた。




 目覚めた暁斎は、ここはどこだろうと考えた。玲音に宛がわれたいつもの部屋とは匂いや気配が違う。清潔を心掛けるような、それでいて少しの忙しなさが漂う雰囲気。病院か、と見当をつける。左腕に感じる違和は点滴だろう。王黄院で刺された胸は手術を施されたようだった。死に損なったか、と他人事のように思う。

 菫に命を拾われた。

 何かを口中に含ませられた。そして感じた銀光の力。

 それらがなければ、自分が今、生きていることは適わなかっただろう。

 死んで頂きたいと告げた京史郎の望みを自分は受け容れた。玲音の陣営に赴くことで、京史郎といずれ闘うことで、訪れる死を。

 そうしてまでも、玲音のもとに行く必要があった。時を繰る銀は万能ではない。呪言の詠唱の補助が必要だ。少なくとも今の暁斎にはまだ。そして変えたい過去は、京史郎の望みと一致していた。だからこそ京史郎は暁斎に頼んだのだ。それによって暁斎が落命する未来を視ながら。


 だが暁斎は生きている。未来は変わった。菫が変えた。


 菫もまた、時を繰る銀。そういうことかと暁斎は合点が行った。あのあと、戦局がどうなったのか暁斎は知らない。自分が病院にいるのは、遙たちの意志だろうか、菫たちの意志だろうか。情報を望む暁斎の耳に、ドアをノックする音が聴こえた。暁斎はまだ細くしか出せない声で応じた。入ってくる足音。遙だ。


「気分はどう」

「それなりに」

「とりあえず、菫ちゃんたちは無事だ。神楽京史郎は御倉華絵に引き取られた。神楽興吾の怪我も手当を受けた。貴方の快復も時間の問題だろう」

「何を隠してはります?」

「え?」

「僕に今、あえて言わへんかったことがありますね。声音で判りました。何ですか」

「…………村崎駿が消えた」

「消えた?」

「彼の霊刀が、暴走して、――――兵隊たちを喰らった。貪るように」

「…………」

「ここにはいられないと思ったんだろう。無理もない。あの惨状を見れば。彼は菫ちゃんに別れを告げて消えた。結界術の一つだろうが、行先は僕たちには解らない」


 暁斎は開けていた目を閉じた。薄紫が隠れる。

 開けていようがいまいが見えないことに変わりはないが、心境の違いはある。


 菫が泣いたのではないか。


 そう思い、暁斎は慨嘆した。彼女を襲う苦難は荒ぶる波涛のように。その一つが自分の離反であると知りながら、尚、暁斎は運命を呪った。そして僅かに、嫉妬している自分に気付く。菫は村崎に淡い想いを寄せていた。それは本人も無自覚で、暁斎に対するそれとは比べものにならない。けれど確かに恋心の一種だった。その相手との離別に菫が泣いたかと思うと、痛ましさと共に嫉妬の念が湧く。


 今すぐ彼女の元に駆けつけて細い身体を掻き抱きたい衝動に駆られる。

 不在は逆説的に、菫の心により深く駿の存在を刻むかもしれない。それを嫌だと感じる自分がいる。

 無私無欲と見せかけて我が儘で、貪欲で、身勝手で。

 そんな自分を暁斎は誰より知っていた。



 静馬の顔色は冴えなかった。

 昨晩、央南大学文学部棟史学科研究室で起きたことは、彼の耳にも入っていた。

 黒白の暴走。駿の失踪。

 ずっと恐れていた事態がついに起きてしまった。報告を受けた忍も、思案顔だった。今は銀滴の毒からも快癒して、日常の生活を送っている。水色の髪は高く結い上げられ、牡丹柄の振袖を纏い座敷に座る。


「厭わしくも哀れ」


 しばしの沈黙の後、忍はそう評した。


「駿はどこに行ったのでしょう」

「さて。見当はつくがそれを私が言うのは僭越だろう」

「なぜ」


 蒼が、哀れむように静馬に向いた。


「男の決意に水を差す真似は好かない」

「しかし」

「お前は朋輩に惨めな思いをさせたいのか」

「――――いえ」

「そうだろう」

「そう言えば駿は、消える前に妙なことを言っていました」

「妙なこと?」

「神楽翔という男の話を。いもしない人間のことを、さもいるかのように」


 忍が静馬を凝視する。かなり長い時間、彼女はそうして、白い人差し指を顎に当てた。


「成程。時の改変の副作用は、まだ続いているのか」

「何のことです」

「今、お前に言っても始まらない」


 にべもなくそう言い、忍は目を伏せた。長い睫毛も髪と同じ水色で、海のような蒼に掛かると絵のようだった。彼女の膝には桜交差という名前の手毬がある。それを弄びながら思索に耽る。


 消えた駿。

 時の改変。

 先を視る金。

 時を繰る銀。


 並ぶキーワードを頭の中でじっくりと見据えながら、忍は胸中に浮かぶ人物たちに憐憫の情を垂らした。それは暁斎であり、駿であり、翔であり、菫であり。

 なまじ心を寄せるからそうなるのだと、些か興醒めする思いもあった。

 忍は誰にも心を寄せない。

 蒼い双眸は誰一人として映さない。

 そうであればこそ彼女は身軽に、鳥のように自由でいられるのだ。もし、自分が心を寄せる人物が現れたら。飛翔する自由を奪われたら。その人間を憎むかもしれないと忍は思った。

 憎んで殺し、再び自由を得るであろうと。



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