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裂傷と傲慢

 駿が消えた。

 目の前から。


「……村崎」


〝俺がいなくなったら泣く?〟


「村崎」


〝俺のことは全て俺が決める。菫がどんなことになっても〟


 駿がそう言ったのは、まだ初夏の頃だった。まるでこうなることを、予見していたかのような言葉だ。

 菫の目から涙は出ない。ただ、酷く苦しかった。悲しくて遣る瀬無かった。

 遙が複雑な表情で、虎鉄や樹利亜に目配せした。

 撤退の合図だ。虎鉄が暁斎を抱え起こす。


「こりゃ救急車ものかな」

「呼ぼう」


 独りごちた虎鉄に、すぐさま菫が同意した。興吾の傷の手当も必要だ。霊能特務課の権限を使えば、刺し傷にも余計な詮索はされない。暗に一時休戦を菫は提示した。遙が頷く。

生々しく血痕の残る研究室の惨状も、特務課員に何とかしてもらう他ない。こんな時の為のバックアップ体制は十全に敷かれている。


「神楽さんはうちで預かるわ。菫は興吾に付き添ってやって」

「すみません、華絵さん」

「車まで運ぶのは俺がするよ」

「ありがとう、田沼君」

「瀧で良い。……莫迦だな。村崎君」


 消えちまうことないのに、と瀧が呟いて、華絵が顔を伏せた。菫の胸がきり、と痛む。

 暁斎、美津枝、駿。皆、自分から遠く離れてしまう。喪失は絶望を呼ぶ。菫の目は乾いていたが、心は涙していた。


(私もそう思う、村崎)


 駿がいて、差し入れを二人でコーヒーと共に食べ、時に暁斎に助けられ、実家に戻れば美津枝の笑顔が待っている。そんな時間に戻れたら。

 駿の最後の微笑が、やけにまざまざと菫の脳裏に焼き付いていた。

 救急車に乗り込む間際、見上げた空に掛かる細い月がどこか侘しく、余所余所しさを薄情とも感じさせた。感じさせるのは自分の心持ちだと知っていた。




 興吾の右腕の裂傷は縫合され、全治三週間とのことだった。

 入院も勧められたが、興吾は頑なに帰宅を望んだ。駿を失った姉を独りにしたくないという思いが、幼い彼にそうさせた。菫は痛み止めと解熱剤、包帯を渡され、興吾と帰路に就いた。京史郎は華絵の家の車に乗せられ運ばれた。華絵なら適切な処置をしてくれるだろう。しばらくの間、利き腕を負傷した興吾は不自由することになり、無論、戦闘に加わることも出来ない。だがそういう時間もあって良いだろうと菫は考えた。早熟な興吾はともすれば先走り過ぎる。ゆっくりと大人になれば良いのだ。その内、嫌でも大人になり、様々な選択を迫られるようになる。暁斎や駿や自分のように。

 その晩、興吾は傷が原因で発熱した。菫は水を入れた硝子コップと解熱剤を彼の左手に交代で持たせてやった。苦しむ弟の姿を見るのが辛かった。それでも熱で潤む紫色の双眸からは、菫を気遣う思いが見て取れた。大丈夫か、と。自らも傷の痛みに喘ぎながら、興吾は菫の心の傷を慮っていた。

 駿が去って大丈夫なのかと。

 菫は答える言葉を持たなかった。考えてみれば大学に入ってから、汚濁や人外を滅する時は大抵、駿が傍にいた。真の霊刀こそ出さなかったものの、彼の力なしではここまで来られなかっただろうと思う。

 その駿が、金輪際、いなくなる――――。


 もう時計は正子をとうに過ぎ、朝刊が届く頃に近くなっていた。

 菫は興吾の看病をしながら、冴えた目でずっと考えていた。

 こうならない道はなかったのかと。

 思い返せば駿は常に恐れていた気がする。黒白の異常性を最も危険視していたのは、特務課や長老たちではない。静馬とその背後の御師たちでもなく。

 駿自身だ。

 主を守る筈の霊刀が、何より主を追い詰め、怯えさせていた。そしてついには居場所を奪ってしまった。ここまで考えて菫は初めて、黒白を憎いと思った。解っている。黒白に罪はない。生まれ持った性質が、悪食だったというだけだ。だがそれが何より駿にとって致命的だった。肉を喰らい骨を食み。脳髄を啜り眼球を舐める。そんな惨状を晒して、平然としていられる人間がいるだろうか。いるとすればそれは、人間ではない。駿は地の通った人間だった。心を持つ人だった。だから、去らねばならなくなった。

 どうしてだろう。

 ここまで考えて、駿のことはもう納得出来た筈なのに、まだ彼の不在を信じ切れない自分がいる。研究室に行けば、いつも通り、軽い態度と笑顔でそこにいるのではないかと思ってしまう。

 彼の軽口が無性に聴きたかった。中身のない、他愛ない話をして笑っていて欲しい。最後に見せた、あんな微笑ではなく。思い出すと泣きたくなるような微笑ではなく。

 白髪、薄紫の双眸がふと浮かぶ。

 泣かせて欲しい。

 暁斎の前でなら泣ける気がするから。

 駿が恋しいと。

 恋しい暁斎の前であれば吐露出来る気がするから。


「……菫」


 興吾の、躊躇いかちな声に目を開ける。

 いつの間にかうたた寝していたらしい。呑気なものだと自嘲する。

 白銀のカーテンを透かして、日光が射し込んでいる。もう朝なのだ。


「興吾。傷はどうだ。痛いか。朝は和食で良いか」

「うん」


 さら、と興吾の前髪の下、額に手を置き体温を確かめる。


「少し待っていろ」


 重い身体を引き摺るようにキッチンに向かう。頭も重く、軽く頭痛がして咽喉が痛い。風邪をひき掛けているのかもしれない。気を付けなければ。今、自分まで寝込むと興吾の面倒を見る人間がいなくなる。小学校にも休む連絡を入れておかなくてはならない。

 昆布と椎茸、いりこで作っておいた出汁で味噌汁を作る。


 ――――お前がいなくても私は日常を送っている。村崎。


 そんな自分に、酷い罪悪感を感じた。

 豆腐を掌の上で賽の目切りし、わかめを水で戻す。

 四角いフライパンで出汁巻き卵を作り、ししゃもを焼く。林檎は普通に切った物と摩り下ろした物を用意した。興吾の熱はまだ引いていない。食べやすく、消化に良いよう、気を配る必要がある。白粥に梅干を乗せ、他のおかずと一緒にお盆に載せて運ぶ。昨日は布団を敷く余裕もなかったので、興吾はベッドにいる。居心地が悪そうなので、あとで布団を敷こうと思う。ローテーブルを出し、自分の朝食も運んで並べる。だが、食欲がない。

 菫とは反対に箸を持ちにくそうにしながらだが、着実にお盆の上の朝食を食べている興吾は、そんな姉の様子に気付き、箸を止めた。


「おい、菫。お前も熱があるんじゃないか。顔色悪いぞ」

「ああ、多分、大したことない……」

「菫」

「ん?」

「お前、泣いてるぞ」


 興吾に指摘されるまで、菫は自分の涙に気付かなかった。いなくなったら泣くかと駿に訊かれた。あの時はただ、悲しむとだけ答えた。実際、そうだろうと思った。

 なのに滴り落ちる透明な雫。


「嘘吐き」

「菫」

「行く訳ないって言った癖に」


 口角は吊り上っているのに、涙だけが勝手に流れる。興吾が箸を置き、ベッドから降りて手を伸ばす。姉の頭を抱え込んだ。


「畜生」

「興吾……」

「畜生。ガキってのは嫌だな……」


 腕が細くて短くて。菫をすっぽり包み込むまでには至らない。興吾はそれが歯痒かった。


「今だけ俺を暁斎おじと思えよ」

「無理だよ」

「髪と目の色が似てるだろ」

「…………」


 暁斎が死ななくて良かった。

 悪夢のような夜の、それだけが僥倖だった。例えあちら側にいようと、暁斎は生きていてくれる。きっとまた、逢うことが出来る。


 では駿とは?


 あれが永遠の別離となるなど、考えたくなかった。



「あっれー。華絵ちゃんだけ? 菫ちゃんは?」


 持永研究室に顔を出した瀧は、些か素っ頓狂な声を上げた。

 悪い子じゃないんだけど、と思いながら華絵は細く息を吐いて答える。


「病欠。心労ね。あの子、最近、色々あり過ぎたから」

「あー…。昨日のあれはグロかったね」

「止めて。思い出させないで」


 そういう嫌悪感を示されることを、駿は恐れたのだろうと瀧は推測しつつ、更に尋ねる。


「神楽京史郎は?」

「うちの人間に任せてきたわ。容態は落ち着いてる」

「そかそか。見応えあったねえ。最強の京と安野暁斎の仕合」

「見えなかったわよ。結界で」

「ああ、そうか。俺は視てたから」

「よくそんな余裕あったわね」

「そりゃあ、俺って実力者だし」

「――――駿はどこに行ったの」


 緑がかった目と、赤い目が交錯する。華絵の声は低く、底に力が籠っていた。瀧が内心、僅かにたじろいだのは一瞬で、彼はきっぱりと答えた。


「言えない。男がこうと決めたことだ。横槍は傲慢だよ」

「……大事な子なのよ。あの子がいないと私も菫も困るの」

「戦力的な意味でなら、俺が補うよ。自信あるよ」

「違うわ、そうじゃない。仲間なのよ。失えないの」

「仲良しごっこか。ちょっと白けるね」


 緑を孕む瞳が殺意をも孕んだように思えて、瀧はひやりとした。


「菫は駿が好きだった。だから返してやりたい。暁斎さんが無理なら、あの子だけでも。傲慢で結構よ。私はそういう女なの」



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