トロイメライ
気を抜いている余裕はなかった。戦闘はまだ続いている。だが、京史郎も暁斎も、一刻も早く安静な状態にする必要がある。菫は自分のシャツを引き千切って、暁斎の傷の止血をした。銀滴主も王黄院も、無に帰している。菫が彼らを辛うじて介抱することが出来たのは、偏にその間、駿たちが奮戦してくれたお蔭である。
そんな菫にも魔手は伸びる。
樹利亜の煉獄真紅がひたりと首に当てられる。
「戻りなさい、バイオレット。貴方に危害は加えない」
樹利亜の相手をしていた興吾はと見れば、右腕を押さえて蹲っている。流血に、菫の顔が一層、蒼褪める。若草色の八百緑斬が、所在無げに床に転がっていた。自分のほうに樹利亜が来てまだ良かったと菫は思う。同時に、銀月を抜き打ちの要領で樹利亜に放ち、彼女を後退させた。
樹利亜だけに狙いを絞って呪言を唱える。狙いが狂えば味方まで巻き添えになる。
「銀月。銀連鎖」
銀の鎖が樹利亜の足に絡みつく。月光色の縛めに、樹利亜の顔に焦りが浮かぶ。彼女が仲間を巻き添えにせず技を放つには、集中力がいる。しかし今の樹利亜にはそれが欠けていた。いちかばちかの賭けで、樹利亜は呪言を唱える。
「煉獄真紅。爆中心」
菫の内部を焔が駈ける。しかしその寸前、菫が放った傘下対手によって焔の効力は格段に弱まっていた。熱を遣り過ごし、菫は銀月に命じる。
「銀月。月下銀光」
天から降る銀の串が、樹利亜を襲う。樹利亜は煉獄真紅で数本を薙ぎ払ったか、元よりレイピアは日本刀程、薙ぎ払うことに長けていない。肩に腕に脚に。銀の串が刺さり、貫く。菫は弟を害した樹利亜に対して怒っていた。殺すにはまだ、彼女の心は繊細に過ぎたが、苛烈な怒りのまま、銀月に次の技を命じようとした。
そこに、飛来する赤いリボン。
樹利亜の首に巻きつき、襲撃者の男たちの首にもそれは巻きついた。赤い蜘蛛の巣のように、リボンは正確に敵だけを絡め取っていた。
難を逃れたのは虎鉄と遙だけだった。暁斎には及ばなかった赤いリボンを繰っているのは、瀧だった。結界術、攻の一。
もがけばもがく程、赤いリボンは首に喰い込む。
絶対の実力を誇る麒麟児が笑みさえ浮かべて菫に問う。
「どうする? 菫ちゃん。皆殺す?」
既に男たちの数人は屍と化している。残った者も怯えと混乱の表情で、戦意を消失しているように見える。それでも皆を殺すかと平然と訊く瀧は、冷酷無慈悲と言えた。
菫は一考の後、遙に言った。
「退いてくれ、遙君。これ以上は無用な殺生だ」
そして一刻も早く暁斎を安全な、清潔な場所へ――――。
彼はまだ、こちらに戻ってきてはくれないのだろうから。菫には解らない、何等かの目的を果たすまでは。
遙が僅かに顎を引く。
「そうしよう。安野暁斎の手当はちゃんとする。だから心配しないで」
「…………頼む」
願う声は小さく、か弱くなった。
今この場で、最も生殺与奪の権限を握る菫が、遙の目には幼い日の少女のように見えた。
「つまらない幕引きだね」
瀧が乾いた声でリボンを退こうとした時。
駿は黒白を手に、幕引きの様子を見守っていた。どうしてだか、普段より咽喉が渇く。戦闘で水分を使ったからか。黒白が、脈打つ音が聴こえる。
どくん、どくんと。
生きていてはいけない子供。
そういう存在が世にいるとしたら、自分こそがそれだろうと駿は子供の時から考えていた。
あの鬼子はいつ処分する積りか。
老人の声。
それに対して静馬の祖父・嘉治はつかいでがある、と答えたのだ。
鬼子を手懐け懐柔して、駿は彼らの思惑に従順に、手駒の一つとして働いた。孤独のまま。孤独に冷え切った心は、いつの間にか麻痺して、自分を孤独とさえ感じなくなった。ただある独り。それ以上でもそれ以下でもない。
けれど菫と再会して、その麻痺した心が疼いた。ひりひりとして、痛いように。
生きていてはいけない存在が、澄明な存在感を放ち、心の傷を痛ましくも抱えながら生きる菫の傍に、いて許されるのだろうかと。彼女の傍らは陽だまりのように、ひどく居心地が良かった。
処分されなくて良かった。
利用目的でも、生かされていて良かった。
駿はそう感じて、陽だまりの温もりを甘受した。
だが、黒白の悪食は時に暴走した。
汚濁を喰らう。そこまでは良い。霊刀すら喰らう霊刀。
おぞましい得物が、けれど間違いなく駿の物なのだ。あの日。奈良で田沼鶴に降りた存在は、その黒白を寧ろ褒める口振りだった。遍く猛者を屠るだろうと。それをしない駿を不思議に思う、と。
駿にとってはその発想こそが不思議だった。黒白を暴走するままに任せれば、菫たちとて危うくなるものを。所詮、鶴に降りた神は人心を解さないのだと、そう感じた。
黒白のおぞましい要求を聴き取ったあの夜。
あの夜から駿は、菫たちから距離を置くべきではないかと考えていた。このままでは取り返しのつかないことが起きる気がした。
念の為に、瀧にある結界術を教わった。有り得ない事態が起きた場合の、保険だ。その、有り得ない事態が起きないよう、ひたすら駿は祈った。
世界に神がいると言うのなら、それは慈悲深さなど持ち合わせず、冷えた感覚しか持たないのだろうと思いながら、それでも縋る思いだった。
この場所から動きたくない。例えその思いが菫たちを危険に晒すとしても。エゴだと、理解していた。
今の菫はシャツは破れ、返り血を浴び、酷い有り様だった。銀月を持つ手は細い。なぜあの手に刀が握られればならないのかと駿は兼ねてより疑問だった。あんなにぼろぼろになってまで、彼女は戦陣に立とうとするのだ。さながら浮浪者にも劣らぬ悲惨な菫の姿だが、その双眼だけはくっきりと明瞭に輝いていた。
ずくん、と黒白が鳴る。いや、鳴く。
自分に寄越せ、それを寄越せ。
霊刀の強い欲求は、ついに駿のコントロールの限界を超えた。
「止めろ、黒白!」
駿の絶叫。
上がる断末魔の叫び声。
黒白が形を半液体状に変化させ、赤いリボンに囚われた男たちを、喰らい始めた。
腕、肩、脚、内臓まで引き摺り出して。
割れる頭蓋、脳漿が見える。こぼれ落ちる眼球。
凄惨な光景に、華絵が口元を押さえて身体を折り曲げる。
黒白はぐちゃぐちゃ、ぼき、ばり、という音を立てながら、人肉を旨そうに喰らい続ける。
「黒白っ」
駿の絶叫は悲鳴だった。
世界が崩れる。陽だまりが失われる。自分にこれまで向けられていた、優しい笑顔が一変する。恐怖とおぞましさに。
生きながら喰われる男たちの悲鳴は耳を塞ぎたくなるような声だった。血溜まりの、阿鼻叫喚の地獄絵図がそこにあった。菫もまた、どうすることも出来ず、ただ目を瞠り、茫然とこれらの光景を見ていた。目を逸らすことさえ考えられない程、逼迫した心境で、どうにか駿を助けなければと思った。けれど、どうやって。駿を銀月で攻撃する訳には行かない。かと言って、黒白への攻撃も出来ない。霊刀が霊刀を攻撃した場合、どんな事態になるか予測もつかない。また、銀月が黒白の食べる対象と見なされる危険性もあった。
このままでは、と菫は思う。
このままではいけない。駿にこんな惨いことをさせてはいけない。彼の心が耐えられない。泣き喚くように叫ぶ駿を、菫は抱き締めてやらねばと、埒外なことをなぜか考えた。今の駿は子供のようで。居場所を失くしたくないと切望する幼い子供のようで。
その間にも黒白の咀嚼する音は室内に響く。
遙たちも樹利亜も、目前の光景に圧倒され、樹利亜は華絵と同じように口元と押さえていた。漏れ出る、吐瀉物。
瀧だけが、幾分、顔色が悪い程度の状態で、二の足でしっかりと立っていた。彼も考えあぐねていた。黒白を結界で封じることも出来るが、それには餌となる人間をも巻き込んでしまう。つまり、暴食は続く。一人のみを切り捨てるという考え方でならば成り立つ理論だが、黒白の動きは素早く、且つ無秩序で、あちらの人間を喰らったかと思えば、次にはこちらの人間を喰らうというように、目にも留まらぬ速さと無節操さだった。
「銀月……」
菫の細い声に応じて、銀月の光が黒白を包み込む。黒白は、その光さえ喰らい、そして次の獲物の対象に、菫を選んだ。
襲い掛かる黒白を、菫は自分でも不思議な程、冷静に見つめていた。反して、恐怖と戦慄に震えたのは駿だ。
「黒白! 言うことを聴け!」
菫が銀月で黒白の牙を防ぐ。黒白は、銀月そのものまでは喰らえないらしい。本来であれば主の命に従い無に帰す霊刀が、ここまで暴走し切っては手に負えない。菫は黒白を銀月で叩き斬った。ここに至り、ようやく無に帰す黒白。銀月によって負ったダメージも、次に顕現する時には快復しているだろう。
あとには耐え難い血臭と、陰惨な沈黙が残った。
菫は、駿に近寄ろうと手を伸ばした。
「来るな」
止まる足。強い拒絶の意志が、静かな声に宿っていた。
駿は歪な笑みを浮かべて菫を見た。
「ぼろぼろだな、菫」
「……ああ」
「暁斎さんに裏切られ、殺されかけ、お母さんを亡くして、そうして今度は、仲間の霊刀に喰われかけた。……ほんと、ぼろぼろだ」
「村崎」
「菫、俺がいなくなったら泣く?」
「……悲しむ」
「びみょーな答えだな」
はは、と駿が笑う。
「戻れるものなら戻りたいな。お前に差し入れして、コーヒー淹れさせられて、汚濁を滅して。あの頃に。俺はお前が好きだったよ」
「村崎」
伸ばした手の先。駿がゆっくりと近づき、人差し指の爪の先に口づける。微かに湿った唇の感触。
「さよなら」
「行くな」
駿の姿は、室内から煙のように消え失せた。最後に見せた微笑は鮮やかで軽やかだった。
<第十章・完>