秘密の花園
菫の花が咲き乱れていた。
可憐で華奢で、田舎道のそこかしこにちらほら見えるのが似合いの菫が、不自然な程に群生して、花畑を成していた。可憐も極まれば異様となる。
その、中央。
一人の青年と少女がいた。二人共、良家の子息、子女と思しき衣服を身に纏っている。
奇妙なことに菫の紫の花畑には、赤い赤い花も咲いていた。
それが倒れ伏した青年の血の洪水であると、少女は否応なく理解していた。
なぜなら少女のベルベットの水色のワンピースにまで、その赤は侵略していたからだ。
清水を穢す汚泥をそれは連想させた。
少女の頬にも汚泥はあった。
血がその白い、水蜜桃のような頬にまで飛散していたからだ。
春の麗らかな気候だった。蜜蜂が場違いな長閑さで菫の花に群れている。
陽光は世界を祝福するかのようにきららかに満ちていた。
その為に、尚一層、血に溢れた青年の悲惨はくっきりと明瞭に際立った。
声を出すことを忘れていたかのようだった少女は、やっと悲鳴を上げた。
甲高い、絹を裂くような悲鳴だった。
聴く者に哀れを催させる声だった。
小鳥が飛んでいる。
青年は悲鳴を聴きながら霞みゆく意識でそんな呑気なことを思った。もう、目の焦点も合わなくなってきていることが、小鳥が何羽なのか定かに数え切れないことからも解る。
「菫。菫。バイオレット。僕の可愛いお姫様」
血塗れの青年が端整な顔を苦悶に歪めながら少女に手を伸ばす。
「菫。良いかい。このことは、君と僕だけの秘密だ。秘密だよ。見たことを完全に忘れることは無理だろう。だから菫。要のところだけ君の記憶の箱に鍵を掛けて。心の深海に沈めて」
少女はガタガタと震えている。青年を喪う恐怖に。青年を喪わしめた者への恐怖に。
「お兄様」
やっと出てきた声は、しかし青年の耳には届かなかった。
青年の意識は暗黒に呑まれた。
そして少女は兄との約束通り、惨劇の記憶に鍵を掛けた。
*
それが全ての始まり。
いや、物語の原点を、糸を手繰るように遡れば、始まりは更に昔。古にまで至るのかもしれない。
いずれにせよここに来て歯車は動き出し、その真実を、実状を、知る者は知り、悟る者もまたあった。力を有する者、観察する者、力を欲する者、謎を解き明かそうとする者。様々な思惑が乱れ、絡み合い、少女の行く末を左右することとなる。
未だ眠れる秘密の物語。
明かされるまでには時間が掛かる。
そう、だからそれまでは。
Violet, Violet, secret………….
*
九州は福岡。央南大学文学部棟・史学科研究室の黒い革張りソファーの上で、神楽菫は目を覚ました。
久し振りに昔の、遠い昔の夢を見た。初夏の候、背中にじっとりと汗を掻いている。
ブラインドシャッターの隙間から、まだ射し込む光が見えず、この静けさから鑑みると、今はまだ夜更けだろう。それを証明するかのように、研究室の壁時計は午前二時過ぎを指していた。チッと舌打ちする。この時間に目が覚めると、次に眠るのが難しいのだ。
それに今は、〝奴ら〟の活動が活発化する時間帯でもある。厄介事はご免だった。
菫は溜息を吐くと、研究室に備え付けのシャワーを浴びることにした。
この研究室を根城にしている菫はこういった場合の為の着替えもロッカーに常備している。シャワーを浴びようと着替えを手にシャワールームのドアを開けようとしたところで、研究室のドアが開いた。
こんな夜更けに誰かと思えば同じ院生の村崎駿だった。片手に有名店のドーナツ入りの箱を持っている。
「差し入れより今は熱いシャワーが恋しい」
「先回りして俺の好意を無碍にするなよ」
「他の子に貢げ。私は賂の類は好かん」
「そうそれ! その、簡単には靡かないところが良い! 堪らん!」
軽く染めた明るい髪、すらりとした長身をいつも垢抜けた服で装っている。
黙っていれば眉目秀麗で通る駿の残念な、且つなぜか憎めないところがここだ。駿は無類の女好きだった。良く言えばフェミニストで、この容貌でそんな気質なものだから、女性に誤解されることはしょっちゅうである。その度、自分には心に決めた女がいる、と引き合いに出される菫は良い迷惑だった。そうした流れであれば菫も同性の恨みを買いそうなものだが、ショートカットで華奢な、一見、美少年のような菫の外見と、男のような物言い、きっぱりとした性格がそうはさせなかった。駿よりも女性に支持されるくらいである。そして美少年のような菫を駿が想っているという事実は一部、腐女子の層に美味しい妄想を提供することとなった。
「先にシャワー浴びるから、コーヒー淹れとけ。豆からな」
「良いね。その、俺を顎で使う女王様気質」
「M」
「S」
どちらもどっちであった。
そんな遣り取りの後、シャワーを浴びて人心地ついた菫は、従順な駿のお蔭でコーヒーとドーナツにありつくことが出来た。チョコ、オールドファッション、生クリームが注入された物、多様な味を菫は楽しんだ。この時間帯に高カロリーな甘味を摂取することに、年頃の乙女として躊躇いがないではなかったが、誘惑には勝てなかった。
「何かこんな夜は嫌だよなあ」
「不吉なことを言う為に来たのか。シャーマンの血筋のお前が言うと洒落にならん。ああ、生クリーム最高」
「いやいや普通、オールドファッション一択だろ。それに不吉な予感は菫も同じでしょ」
菫は眉をひそめた。
ファーストネームでいつの間にか呼ばれるようになったのは良いとして、駿の言葉には菫も覚えがあったからである。
しっとりとして空気が露を含んだようで、陰の気がある。
こんな夜は、〝奴ら〟が出やすい。
二人の直感を裏付けるように、電灯が瞬き、外から異臭がしてきた。
その異臭はコーヒーの芳しい香りを凌駕して、菫と駿の嗅覚を刺激した。常人には判らない異臭を、二人は嗅ぎ分けることが出来た。はあ、と菫が嘆息する。こうなってしまっては仕方ない。
「行くぞ」
菫はそれだけ言うと、研究室から出て、文学部棟の階段を駆け下りた。
当然のように駿がそれに続く。
〝奴ら〟は大学構内でも平気で出現する。
文学部棟のすぐ正面に、目当てのものはいた。
灰色の、途方もなく長い影が実体化したようなその形状。うぞうぞとした影は不気味に蠢き、所々に赤い明滅が見受けられる。
形状が判る程までに近づくと、臭気はいよいよ濃くなる。
夜にも鳴く蝉の音が、いつの間にか止んでいる。
「魂魄の厳粛なる誓約。あるかなしかと命脈に問え」
菫が桜の樹の枝を、一本掴む。それを引き出すように動かすと、ずるずるとその枝先が刃となった日本刀のような全容を成した。
「……銀月」
低く囁いたそれが、その不可思議な霊刀の銘だった。
駿も短い呪言を唱えて建物脇に生えていた雑草を無造作に抜き、小刀を数本、出現させている。自分が前面に出るのではなく、菫をサポートする姿勢だ。
菫が正眼の構えで影に斬りかかると、駿が小刀を飛来させる。
普段、何がしか喰い違うところの多い二人だが、こうした時のコンビネーションは抜群だった。
菫が舞踊のように影に刃を振るう。
(……踏み込みが甘い)
初太刀をかわされ、続け様、斜線を描くように二の太刀、三の太刀を浴びせる。
その動きは流麗且つ華麗で、見慣れた駿をも見惚れさせた。戦闘時の菫は紫色の燐光を全身に帯びる。それがまた菫を妖しくも美しくも見せた。しかし菫の体力も無尽蔵ではない。舞踊めいた超人的な動きには相応の消耗を伴う。
二の太刀、三の太刀に負傷するも、影は素早い動きで菫の追撃をかわした。このままかわされ続ければ、いずれ菫の体力も底を尽く。
だが駿の小刀により更に手傷を受け、影の動きが鈍った。そこに菫が剣を一閃させる。
両断され、留めとばかりに小刀を受けて倒れたそれはさらりさらりと灰色の砂塵となった。
ぶんっ、と菫が刀を振るうとたちまち輝きは消失して刃そのものが無に帰した。
「コーヒーが冷めたな」
「また淹れ直すよ」
「あの桜は長くない」
「仕方ないことさ」
研究室に戻りながら短い遣り取りをする。戻る途中、白髪の人影が視界をよぎった気がして、菫は目を擦った。白髪に、黒い単衣の着流し。
該当する人物に心当たりがあったが、彼が今、ここにいる筈はない。目の錯覚だろう。
研究室に戻ったら、駿は言った通りに、コーヒーをまた豆から淹れ直すだろう。
そうしてドーナツに加え、教授の貰い物のクッキーの缶でも開けて、二人は歓談しながら、影と遭遇し、戦った心身のダメージを回復させる。
温もりが必要なのだ。
菫の脳裏に紫の花畑と、その中央に咲いた赤い血の花が蘇る。
ずきん、と頭痛がする。
当時の詳細を思い出そうとするといつもこうだ。
(兄さん。貴方はどうして死んだのですか)
菫はずっとその謎に取り憑かれている。
まるでファントムのように。
頭上には星空。
蝉の鳴き声はいつの間にか戻っていた。