かつての日々の出来事
大貴と一緒に暮らすようになってからすでに数か月。
私は大貴とのこの生活に満足している。もう昔あったことを思いかえすこともない。
何しろ、物心づいてから私の心は彼と共にあったし、それ以外の人間のことなど大貴の風景に並べられている存在でしか。
もしかしたら、一人いたかもしれないが――いや、今はいい。もうあの子との思い出は思い起こすにも足らない。
「あなた、おかえり」
今日も大貴はいつも通りに帰ってきた。
「いや、今日は本当はもう少し早くなるはずだったんだけどな」
後頭部に手を当てて。
「あら、そうなの?」
わずかならず困り顔。
「小雪からまた電話が来たんだ」
「また、あの女と?」
すると、いかにも嫌味な笑いを浮かべて、
「おやおや、小雪にまだそんな気持ち抱いてるのか」と挑発する。
こういう言葉には慣れているが、やはり心穏やかにはいられない。
「小雪はいつも俺との会話を楽しみたいらしいからな。いつも通話を長引かせようとする。おかげで三十分くらい付き合わされたよ」
何という偏執ぶり。
「もし本当に私の前に現れたら、容赦しないから」
まるでそいつが本当に目の前にいるかのように、表情を険しくして腕を組む。
対する大貴は、なぜか、さほど怒っているという感じでもない。
「韓国にずっと留学してるんだ。時には生まれ故郷の人間が恋しくなるのも分からなくはないさ」
「あなた、優しいね」
「あたり前だろ、小雪は高校の時からずっと大事な『友達』なんだから」
『友達』? 私はますます、不穏な気持ちに駆られる。小雪が大貴にどんな感情を持っているか、私が知らないとでもいうのだろうか。
むろん、小雪が私たちにとってどういう存在であるか、適切な言葉で表すことが今のところできないのも事実だが。
「でも、なんだか懐かしい気持ちだな。かつて同じ時間を過ごした人間とまたつながり合うというのは」
「へえ、そうなの?」
大貴はすぐには返事せず、靴を脱いで部屋の中に入り、真ん中にあるソファに座った。
私の目を、何かをうったえかけるかのような目で、
「だって、考えてみろよ。あの高校で出会った連中はどいつも濃い面々ばっかりだったろ」
「また思い出話でもするつもり?」
少しあきれた感情さえ湧きながら、私もその横に。
大貴はそっけなく、
「あのな、文子。同じ時を同じ風に感じるなんてのはありえないことなんだよ」
複雑な表情作りつつ、
「お前がつまらない時間だと思っているのは、俺にとっては忘れがたいものなんだ。逆に、俺がすっかり忘れちまったものでも、お前にとっては印象に残っていることかもしれないし」
「で――小雪と一体何を話し合ったの?」
こういうことになるとつい悪い癖で、私は真意以上に鋭い口になってしまう。
「何でもない、高校の時にあった一つの思い出話さ」
「どの思い出なの?」
「三年生の文化祭で劇をやった、その時何があったかを」
私は正直言って演劇などというものに興味がなかったのだ。文化祭の出しものが劇だったのは、ただ三年生はこれをやらなければならないという規定があったからにすぎない。
「確か……あれは八年くらい前のことだったな」
「そう、八年前。ずいぶん昔だと思うけれど」
「あの記憶ばかりが思い出されるわけでもないが、まあ俺にとってささいな出来事というわけでもない。とりあえず、あれのあらすじは何だったかな」
私自身、文化祭でやった劇は本場の物に比べればずっと劣った物だと思っている――その知識が実際あるわけではないけれども。まして打ちこんだ覚えもない。何しろ、私はあの劇で印象に残る功績を挙げたわけじゃないんだから。
どうあれ、私たちのクラスがやったものは一種のファンタジー物だった。いわゆる、魔王を勇者が倒すという、まるでお約束の原理を忠実になぞった物語。
なぜ、この話になったのか。確か、最初に脚本を書く係がいたのだ。その脚本の内容に合わせて、劇の準備が始まるのである。
誰だったろう。まずその脚本を書いた奴は。思い出せない。いや、存在感のある奴だったことは分かっている。だが、名前となると……。
「菅ありさじゃなかったか?」
答えは大貴の方から。
「そう、あいつだった。なんで忘れてたんだろ」
「そんなに目立ってもない奴だったし、忘れててもおかしくないはずだが」
ありさは私たちに口をきくことも少なかったし、よく一人でひっそり机にたたずんでいることが多かった。いつも暗めの表情で、何を考えているのか分からない奴だと、周りからは思われていたらしい。
しかし時にありさは、普通の人が知らないことを教えて、みんなを感心させることもあった。例えば、世界の歴史とか、言語とか、銃器のこととか。趣味というわりには、やけにその類のことを詳しく知っていた。時にはだじゃれめいたことを言って笑わせてくれたこともある。
にしては、ありさが基本的にどういう性格の奴だったかというと、これがどうもよく分からない。一つ一つの体験から彼女の性質を『面白い』と言えても、大局から判断すると『得体のしれない』人間としか思えなくなってくるのだ。
「ありさは喜んであの役目を引き受けたんだよな。なかなか意気ごんでいたよ」
ありさがこういう仕事が好きそうなのは知っていた。なにしろ、彼女はよく音楽とかイラストを作るのが好きだ、と言ってたから。そういう創作の面で手を挙げるのは当然だろう。
「私に任せるですぅ。きっと面白いストーリーに仕立てあげちゃうですぅから」
高校生と言うにはやけに幼げな高い声で――実際その体つきも小学生より少し大きいくらいだったが――、ありさは会議の最中叫んだ。いつもの陰気な性格には似つかわしくないくらいの。
そして翌日、ありさはすぐ教室に脚本を印刷した紙をもって現れた。今考えると、なぜあんな短い時間であれほどの作品を仕上げたのか、不思議でならない。もしかしたら、すでに書きだめしたのがあったのかも。
その脚本の内容というのが、先ほどものべた中世騎士物語みたいな話だったわけだが、最初クラスのみんなはあれにどんな反応を。
「私は別になんでもよかった。劇にはさして興味もなかったし」
むしろ、こんな記憶が芋づる式に蘇ってくるのが、奇跡にすら感じられる。隠された思い入れでもあったのか。
じゃあ大貴は――
「へえ、実に文子らしいな……もう忘れたのか?」
「忘れてる?」
何か、私に知らないことがあるとでも。
「小雪が村人役で出てたぞ。大体モブに近かったが」
「村人役?」
「序盤でちょっとセリフがあるだけの役柄だったんだがな――小雪にとってはなかなかの重荷だったらしい。練習の時でさえ、目の前に客がいると想像するだけで顔中赤くなって、まるで演技ができない。お前、笑ってただろ?」
あまり記憶がない。地味な部分だけに、詳しく覚えていないのだろう。
「そうだったっけ。麻里香とかがどんな風だったかはよく知ってるんだけど……」
「そりゃ麻里香は主役だからだろ。あいつもなかなか頑張ってたよなあ」
大貴は苦笑する。しかし、その懐かしげな様子になぜか腑に落ちない気分が。
小雪のことなら、何でも覚えているはずなのに。
「麻里香のあの格好は個人的に決まってたな。金が結構かかったってぼやいていたのは今でも覚えてる」
その言葉から察せられるように、戸邊麻里香はいわゆる勇者役だった。
彼女自身濃い茶髪で、瞳も青かったし、なかなかそういう世界観にはぴったりの外見だろう、という理由だった。
剣や鎧を自作して持ってきたことが心に残る、色々なサイトや本を参考にして全部自分で手作りしてきたのだ。
「ねえ、どう?」
衣装に着替えた後、初練習のため多目的室にあらわれると、腰に手をあてて、麻里香が自慢げに姿を見せる。
材料には恐らく段ボールとか紙コップとかが使われていたと思う。しかし表面にはあざやかな彩色があって、やすっぽさをうまく覆い隠していた。剣は、多分コスプレ用の製品を買ってきたものだったような。背中には深緑のマント。
全体としては、少し『ことさらな』感じがぬぐえない。勇者らしさと言うよりは司令官みたいな。
「実に近世的なつくりだな。中世の兵士なら鎧をさらしたりなんかしない。日光が当たって熱くなったらいけないから、普通は上に布を……」
瀬原勝はその知的で思慮深そうな顔つきにふさわしい、言葉遣いでこれを批評。
「何だろう、すごく偉そうな感じがする」
もう少し率直に感想を申すのは、その親友の李駿。
「まあ、当然だよね」
麻里香は明るく自嘲した。
「サイズを調節するために結構時間かかったんだけど……やっぱり見栄えこれじゃだめか」
傾けた頭をかく。
私は少し気まずそうにたたずむ彼女に提案した。
「マントを外せばいいんじゃないかな。多分それで威圧的な感じになってるんだ」
個人的にさほど思慮をめぐらせたわけではなかったが、麻里香はことさらに顔を明るくして、
「ありがとう、文子。もう一度作り直さなきゃ、と考えてたところだったよ」
その場で麻里香はマントを振り放す。そこでようやく違和感は消え去り、少女は勇者らしさを取り戻していた。
ここまで私たちが語り終えると大貴は怪訝そうに表情を曲げる。
「なんだよ、やっぱり興味があったんだろう?」
「別に。ただ麻里香が困ってるのを察てるのが嫌だったから」
大貴はソファから腰を起こすと、何やら心の秘密をえぐりとろうとするかのように見下ろす。
「言うほどお前は冷静でも寡黙でもない気がするがな。小雪が言い出したって聞いたからわざとそんな態度取ってるんだろ」
むっとした感情が湧いて、こちらも大貴にらみつけた。
「私はあの野郎のことなんて眼中にない。だって私はあいつを出し抜いてあの勝負に勝ったんだから」
なぜ、今になっても、そんなことにこだわらなきゃならないのだろう。もう、大貴からそんな言葉は聞きたくない。
「その態度自身、まさにあいつのことが忘れられない証拠じゃないのか」
「なっ……」
「別に気を悪くしたいわけじゃないが、俺は正直言ってお前のやり方が気にくわなかったんだ。今となっては仕方がないけどな」
あの日、大貴に私は自分の心を告げた。小雪が私を追い越さないように、小雪が、私の大貴を横取りしないように、あの場で打ち明けたのだ。
その瞬間、彼の心に何をもたらすかなんて、何も。
「小雪がどんな気持ちを隠してるながら向こうで暮らしてるか、分かったもんじゃない……」
それに対して、赦しを乞うつもりはない。
だが、屈辱にも似たものを感じる。まさか、私の人から不満めいたものを聴かなきゃならないなんて。
大貴は何でもないような顔を浮かべていたけれど、そのまま当面の話を進める。
「そういや、お前は一つ口出ししてたな」
先ほどの麻里香との話からはさかのぼるが、もう一度役者選出会議のことになる。
「お姫様役はどうするですぅか?」
ありさが司会をつとめるこの会議で、
「それは里見でいいんじゃないかな」
すました声でとんでもない言葉を、瀬原である。
「ファ!?」
誰もが里見景輔に視線を注いでいた。
実際、彼は大人びたりりしさもあったが、あどけない風体も同じくらい併せ持っていたのだ。その二つの要素が中性的な顔つきを形作っていたから。
「だって勇者役が女なんだから、そいつに向き合うヒロインを男がやって当たり前だよなぁ?」
瀬原は本当に何でもない様子で。
「そうだよ」 駿はすぐ横を向いて便乗。
「いや、そんなこと……瀬原! 李駿! 何言ってくれるのさ! 男が女の真似をするなんて、そんな破廉恥な――」
はっきり言って、面白くない。この三人のかけ合いは教室の名物みたいなものだったが、大概が瀬原が駿と景輔を相手に手玉にかけるものでしかない。
「じゃあ、私がやる」
私はほとんど無意識的に手を挙げて、叫んだ。
「文子、おまいがやるですぅか?」
別に私自身は演技に興味があったわけではなかったが、瀬原たちのこの漫才を黙って観ているわけには。
「文子は、確かにお姫様らしい顔つきだからね」 麻里香が他の女子たちも賛同の声。
「いや、今のはただのたわむれさ」
瀬原はさして恥じてもいない顔。
「変な提案で僕を巻きこむのはやめてくれよ……」
里見はしかし、そこで意味ありげに、
「でも、劇で演じるの自体は悪くないかな。人前に出るのは嫌いじゃない」
ありさはその言葉を聞いて、手元にある脚本をのぞきこみながら、
「じゃあ……主人公級の登場人物であと一人空いてるのあるから、その魔法使い役でどう?」
そう切り出されると、景輔は少し緊張したかのように表情がかたくなった。
「なんだ里見うれしそうじゃねえか」
はやしたてる駿。
「ん? じゃあやっぱりお前出るわけなんだな」
瀬原の待ち望む声。
この三人は、はたから見れば不思議なくらい、いつも絡み合って離れることが。
「……悪くないね」 最後に、そう。
今思い出すと、里見の演技はかなり優秀だったのではなかろうか。初めて、緑を基調にした、三角帽子とかローブとかを着た時の彼はかなり恥ずかしがっている様子だった。だが、わたし的にはなかなか似合っていたと思う。
「で、その後に、あなた自身が立候補した」
ついさっき、大貴からかけられた言葉に少し傷つきながらもこの雑談につきあう。
「俺は嫌な思いしてないから、何とも思ってはいないけどな」
劇の中で、大貴も麻里香の仲間の一人だった。芝居はどちらかと言えば大根気味だったが、演技の方はかなり迫真と感じた。
「あれは意外だったな。まさか大切な役目を嫌々押し付けた奴自身がまわりからそれを薦められるとはよ」。
「あれ、瀬原が自分でそれに乗ったんじゃなくて?」
「いや、ずっと辞退し続けてたぞ――『それは僕ができる範囲のことじゃない』って」
「私が見た限り、あいつは『これこそ自分がやるべき役だ』ってよろこんでる様子だったけど」
遠い昔のことからか、記憶に食い違いが少なくない。劇以外の思い出をあげれば、もっと多くなるだろう。
さて、何を瀬原は演じたか。
この劇は単なる敵を倒す物語ではない。麻里香一行はある場所で、素性の不明な少年と遭遇する。少なくとも敵であるとは見えないこの人物は麻里香に助言を与えたりと一見勇者に都合のいい存在に見える。だが、実はこの人間こそが魔王だったのだ。ずっと、どちらからも隔たった、謎に満ちた存在だったのが。
「この役は瀬原がやらなきゃならなかった役だった」
私は断言した。
「というのは?」
「何しろ瀬原は頭もいいし、口も達者なのよ。そりゃあの役以外につとまる何かでもあるというの?」
味方ならこれほど頼もしい奴はなく、敵なら逆にこれほど恐ろしい奴は。
大貴はふと、目を背けて窓の風景を眺める。風を受けて、細い草花がそよいでいる。
「……瀬原は、俺も抜け目のない奴だと思ったよ。いつもみんなと仲良く話し合ってるように見えて、でも自分のものみたいに手玉に取っていた」
窓に映る木々は、
「あいつと李駿と里見の付き合いをながめればそれがよく分かる。なにしろ、李駿と里見が瀬原に対する態度は迎合に近かった。瀬原が何かを言えば二人が決して相手にしないことはなかったし、瀬原が話題にしたものの内であの二人が話題にしないものなんてなかったからな。あたかも奴は、二人に依存させているみたいだった。
はっきり言って、観ていて不快だったよ」
私は、しばらく戸惑った。大貴がそんな鋭い言葉を口にするのは、もう何年となかっただろうから。瀬原は賢い人間だ、というのは分かる。しかし、不快とまで口にするとは予想しなかった。
大貴は、想像以上にずばずばと物をいう人なのか。
「……ねえ、なぜ彼をそんな風に?」
「どういうわけだ」
「つまり、『不快』って言葉のことよ」
「あいつのような類の人間の『人の良さ』は大概信頼できないもんだ。瀬原の頭の良さは確かに外に現れているが、それが性格全体につながるとは限らない。自分の才能で性格をごまかしてるんじゃないのか、という憶測が起こって癪にさわった」
大貴にしては珍しい、意味深な発言。
ここまで洞察力の深い人間とは思っていなかったのだ。もう少し、明るい風にものをとらえる性格だと思っていなかったのだが。
「瀬原はでも、利己的な性格の持ち主には見えなかったけど」
「いや、俺の頭の中にいる瀬原なんだ。お前の考えてる瀬原とはまた若干違うだろう。さっき俺たちの思い出は少し違う様相を見せた。同じ人間としてとらえ続ければ、きっと誤解が起こるだろうから」
私はふとつぶやいた。
「……小雪は今日の電話で、瀬原のことに何か触れてたか?」
「あいつの演技もなかなかうまかった、と評してたよ。まあ、そこまで頭の筋が多い方じゃないから、奴のそういう怖ろしさまでは見ぬかなったようだが」
昔々、ある所に王国があった。魔王の軍に攻められて、また姫が行方不明になって苦しんでいた国王(担任)は、古くから伝わる預言に従って、異世界(つまり現実世界)からある一人の少女を召喚する。
少女(麻里香)は自分が勇者であるという事実に当惑しつつも、仲間を集めながら各地を旅してまわる。やがて勇者一行はある人間(瀬原)の協力を得て魔王の城へとたどりつき、彼がいる部屋に入ろうとしたところで突然敵に捕縛され、牢にぶちこまれる。
二人で劇のあらましを復元していく途中で、大貴がこう切り出した。
「あの劇は正直言ってどうだった? 面白かったか? 俺はあまりそこらへんのセンスがないから分からない」
「劇って、私たち自身がやった劇のこと?」
「ああ。お前自身はあの筋立てをどうとらえた?」
「まあ、ひねりがあってありさらしかったと思う。他にどんな作品を書いてたかは知らないけど」
そう言えばありさはこういうのを書くのが好きだ、と言ってた気がするが確証はない。
「……お前は演じてる時、どんな気持ちだった?」
最初に言ったように、この劇に対して私はさほど思い入れはなかったし、演じるときだって本気になってやっていたわけではない。他の生徒たちからは、そう見えていたかもしれないが。
「まあ、適当に」
二つの意味のうち、どちらで解釈してくるか、と待っていると
「お前はいつも冷静だな、文子。麻里香なんていつも発声練習やってたし、朝起きるといつも顔芸に興じてたって語ってたぞ」
ふと、妙な気持ち。もう自分はあの頃に興味なんてないとばかり思っていたのに、一度口を開けばこんなに語れるのか。心のどこかが、懐かしんでいるとでも?
「麻里香は私に比べても数倍真面目だし、一度指示されたことは愚直に守り通す。あきらめたりしない性格なのよね。私なんてすぐ飽きが来るし、不真面目だから人の言う通りに努力なんてしない」
不思議にも、大貴は口の端笑みをこぼしていた。
「そこがお前の魅力だよ。馬鹿みてえに人の信用を得ようとしない所が」
「へえ、魅力?」
「だが――(咳払い)まあ、お前も知ってそうなことから話をするとしよう。お前が王女役として、勇者と語り合ったことを覚えてるか?」
「一句一句までは覚えてないわよ」
「せめて、内容の大枠ってのをな」
勇者一行は牢屋で、行方不明だった姫に出会う。姫は、彼らに、自分の意思で魔王の元に下ったのだと衝撃の告白。
その行為をなじる勇者に、姫は魔王との戦争に関する真実を打ち明ける。つまり、実は魔王は元々王族の一人だったのだが、政変によって殺されそうになり、魔族の中に逃げこむことで命を長らえた。
姫自身は、魔王の腹違いの妹だったために直接の疑いを持ってはいなかったが、それでも自分の義兄が放逐されたことをずっと根に持っていたのである。
時が熟した今、復讐のために、彼は部下を率いて、王の位を簒奪しようとしているのだ。
そして、姫に続いて、魔王もそれを裏付ける事実を開示し、勇者を追い詰める。
「もう、私には大切なことなのか分からない!」
麻里香の、本当に悩み苦しんでいるかのような声に、私は実際驚いていた。
無論、ステージの上でそんな感情を出すわけにはいかなかったが、彼女の演技に対する熱心さは他の役者と違って圧倒的だった。
「これは私の正義を実現するための戦いだ。そして、世界の正義を実現するための戦いでもある!」
黒い鎧に身を包む瀬原の演技も麻里香に負けず劣らず真に迫っているのだが、麻里香が自分の気持ちを素直に打ち明ける雰囲気なのとは違って、不特定多数の観客に対して自分の首長を演説する節があった。
「さあ、君も私の笠下につけ。ともにあの王を倒すために手を組もうではないか。それがより多くの人間のためになる」
里見が抗議した。
「だめだよ。こんな奴にたぶらかされちゃ。一体何のためにここまでやって来たっていうの?」
大貴も抗議して、
「その通りだ。ここで戦いをやめるわけには行かない」と二人に歩を進める。
私はさほど、演じることに熱心ではなかったからセリフは棒読み気味だったろうと、自分で思う。
「では、結局ここで殺さなければならないようね。あなたたち三人ともども」
私はさほど抑揚を欠いた気迫のない声で叫び、瀬原の後ろに回る。
「おい勇者、何とかしろ。これは国の命運にかかってるんだぞ」
大貴のセリフは確かアドリブで、麻里香が本来のセリフを忘れてしまったために即興で叫んだ、と記憶している。ありさは、むしろ麻里香がそのまま沈黙し続けたおかげで場に緊張感が強調される結果になった、と評したようだが。
「……分かった。私は今、正気に戻った」
麻里香は何とも言えない口調でそう言うと立ち上がり、剣を抜いて戦い始める。それからが、この劇の最も印象的なシーンだ。
瀬原と麻里香が近距離でせめぎ合う、この時に関して私が言えることは少ない。ただ、それ少し前、言い争いの場面について、私と麻里香が交わした会話は、今でも印象に残っている。
「文子の芝居はすごかった。まるで、本当に一線を越えている人って感じがしたよ」
「そう? あまり本気だったわけじゃないんだけど」
「いや、そこがすごいんだって。普通の人がやってもあんな風には映えないんだから」
そういうことを今になって話せば、
「麻里香はお人よしだからそんなこと言ったんだろう?」
と大貴は身もふたもなく。
「まあ、あいつは自分でも人にかける言葉の加減ができないたちだったからな。要するに、他人がどんなにだめでもいい所を見つけ出そうとするし、自分が落ちこんでいてもむりにはげまそうとする」
「きっと、そうなる性格になるしかなかったんじゃないかな。あれが、時にいい方向に進むこともあったんだろうけど」
「そこがあいつの末恐ろしいところでもある。麻里香はやろうと決めたことは何でもしようとするし、人から頼まれたことは何でもする。とにかくなまけない」
その性格が、あの時の行動に反映されているのだろう。決意したらもう止まらない――もっとも恐ろしげな形で。
大貴はしかし、単純な性格なのか、そのまま話を進めていく。
「で、お前は瀬原と麻里香が闘っている間、どうしてた?」
「え……別に何もしてなかったけど。あなただってそうでしょ?」
「ああ。あの時はもう瀬原と麻里香の独擅場だからな。だがその後でお前もセリフがあったろ?」
大貴は単にその記憶を懐かしもうとし始めているように見えた。ただの考えすぎかもしれないが、様々なことを振り返る中で、私は人々の外面だけでなくその内心まで掘り下げている気がした。
そして、目の前にいるこの人は、それを避けているか――あるいは最初から興味がないのと違うか。
「小雪がその時のことを一番、心にとめていると言ってた。あの二人がすっかり自分の世界に入りこんで来るなかにお前は介入してくるんだ。剣を持って、麻里香を後ろから刺してな。全く予想がつかなかったはずだよ」
「もう、こんな不毛な戦いには耐えられない! って感じでね。それで私は、瀬原と一緒に勝ったって叫ぶ。あなたと里見は驚くだけで何もできない。でも、そこに王様の軍隊がやって来て、私たちは結局殺されてしまうのね」
ありさはあの劇で何を伝えようとしたのだろうか。よくよく考えてみれば、あいつはもう私たちが練習しているときはもう関わっていなかったとおぼわっている。
しかし、これは正義が悪を倒す話ではない。少なくとも、観終わった後に快楽を得る話では。
「……それで、勇者は一命をとりとめるが、王様にこれ以上仕えるのを嫌がって、自分が魔王になろうとする終わり方だったような。まあ、すっきりしない話だな。俺はもう少し後味が良い話を求めるんだが」
「まあ、私もね」
劇の最後、麻里香は、一人で舞台に立ち、晴らしようのない恨みをぶちまける。敵を憎み切れない思いと、運命にもてあそばされたことへの自己嫌悪。
「どうして私はこうなの!? 勝手に選ばれて、勝手に闘わされて、勝手に追いやられる……! どうしてこんなに恵まれないの!!」
かつての仲間が現れ、帰ってこいと叫ぶ。追っ手だと思いこんだ彼女は、激情に駆られて二人に斬りかかって追い払ってしまう。
いよいよ、麻里香が闇に落ちようとするところで、幕が閉じる。大体、そういう結末だった。
「麻里香はリハーサルの時、あの部分を演じるのにすごく苦労したんだとさ」
「誰から聞いたの、その話」
「小雪が言ってた。打ち上げの時に話したんだとよ。あそこまで負の感情をぶちまけるのは、今までなかったから、気力がいったそうな。お前は行かなかったのか?」
私は何も言わなかった。他の奴とそこまで共有したい思い出でもなかったし、小雪に関してそこまで触れたくなかったのもある。
「いや。あまり小雪と一緒に語らいたくなかったしね……」
「そう、か」
大貴は、小雪に何を考えているのだろう。今もまだ、小雪のことを想い続けているのだろうか。であるとしても、遠く離れた地にいる今は、脅威ではない。
「私ったら、変な奴」
気づくと、その言葉。無意識の働きかけか。
「なんで、こんなことに夢中になって語っていられるんだろう。もうみんな、過ぎ去ったことじゃない。今さら、懐かしい気持ちになってる必要が……」
大貴は小さくうなずく。
「お前がそう言うのも無理はない。何しろ、高校の時の同級生なんてもうほとんど音沙汰なしなんだから。同じことを頭に留めている奴がいかほどいるのやら」
ふと、窓の風景に目を。気づかぬ間に、空は曇天に変わりつつある。
「でも……まあいい。あの時はまるで教室中が一つだったかのような熱心ぶりだった。麻里香だけじゃない。他の多くの人間がこの劇を完成させるためにがんばったんだ。たとえ、例外が一人くらいいようがな」
くすり、と笑いがこぼれかけて、止まる。
「私だって、自分なりの努力はしたけど」
「別に自分自身がどう思っていようが、よそから察てがんばっていると思えれば、それでよかったのさ」
大貴は不思議な微笑を浮かべて、私をながめた。
彼は何を考えているのだろう。一体こんなありふれたことを話しながら、そこから何か、思い詰めていることはないのだろうか。劇で何をやったか、芝居はどうだったか、なんてことよりも。
「その通り、他人が何と言おうとこだわりはしない」
「他人が何と言おうと……ああ、みんな誰かのことを理解していなかったのかもしれない。そして俺たちはあの時、一つだったのか?」
一つ? そんな疑問を呈された時、心底くだらない気持ちがした。
大貴ほどの人間でも、そんなことを気にかけるのか、と。
「いや、一つなんかじゃない」
教え、さとす目で大貴に告げる。
「あの麻里香を見なさいよ。一時は、魔王を倒すという意思で精神を統一したのに、魔王の言葉を聞いて心が乱れた結果、心変わりしちゃったじゃない。でも、そう言うことじゃなくて、元からそう心変わりするのなら、心は一つにそもそもなってなんかない」
「厳しいな。劇をやるというたった一つのことでしかまとまれないのなら、元から俺たちにまとまりは――」
迂遠な話をするのはよそう。
「そう、ない。みんな、単に一時期くっつきあってただけだったのかもね」
大貴は面くらった顔でぽかんと口をあけていたが、私の心の中を理解したかのように、わずかな弧状を描いた唇に閉じる。
「ありさは、もしかしたらそういう心の隙間を分かってたのかもしれない。どんなに元気に張り切っている奴でも、いつか闇に落ちるときが来るものなの。そして、その時こそは元から落ちてる奴よりもずっと用心せねばならない」
「あたかも瀬原よりも麻里香の方が怖ろしいって言い方だな。あいつはとても瀬原みたいに人をあおったり自分をごまかせる性分じゃないはずだが」
「もしかしたら、麻里香みたいに明るくて裏がない奴こそが、一番危ないのかもってね」
根拠があって言ったわけではなかった。しかし、この記憶のたばを解いてみればみるほど、この妙な憶測がわきあがるのも事実である。
「してみると、俺たちがこれまで思い描いてきたあいつらの人間像ってのは、ひょっとしたら的を得ているかどうか、なかなかはっきりしないってことらしいな」
「それに――小雪と私の関係」
意表をつかれたらしく、大貴の顔がわずかにかげった。
「……ああ、言うと思った。俺がまだそのことでまだわだかまっていると予測してか」
もしかしたら、私たち二人にも隙間があるのかもしれない。決してこの点は理解することのできない、溝が。
「きっとあなたも、このことだけは大目に見てくれないだろうし、小雪もずっと根に持ち続けるのかも」
答える口調は、決して明るくはない。
「いや、決まった話であるしな」
曇りの空と同じくらい、大貴は薄暗い顔を浮かべる。ものに憑かれたようでもあり、気力を吸われたようでもある。
ひょっとしたら、だ。私は何も分かっていないのかもしれない。
元から彼の心の中なんてのぞけるわけがないのに。
大貴が、どんな時だって私を想ってくれていると錯覚してはいないか。理性の一部がそうささやいた。
「……でも、それでいい。私には、それでも、あなたがいるから」
たとえその内心がどうであれ、私は彼のことが必要でならないのだ。
腹をさする。この二人の関係こそは、決して崩れることはない。破られるはずのない物だから。たくさんの人間を相手に自分でもよくわからない心をつくろうよりは、ずっといいと信じている。