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最終話 花見坂上沙耶と奧海桜子



 青い空 青い春



 ◆ ◆ ◆



「沙耶先生はずっと白海坂だったんですよね?」


「うん、そうだよ」


 今年担任を受け持つ学年は中等部の二年生。

そのクラスの一人である彼女は、大層興味深そうに私へとそうやって問いを投げて寄越した。なんでも、中学受験をして白海坂に来たけれど、そのまま高校も白海坂で良いのかを悩んでいるという。私の当時は高等部までずっと白海坂一本を念頭に置いていたからそんな事は考えすらも浮かばなかったけれど、確かに高校から他校をまた受験しなおすという子も少なくなかった。

 自身に合った環境というのは探すのが難しいものだし、常に選択肢というのは沢山あって良いものなのかも知れない。

 私は白海坂が好きだったし、大学も白海坂に進学したけれど、学びたい事やその深度も人によってそれぞれ違う。


「私、音大を志望するんですけど、白海坂の高等部ってどうですか?」


「私の友人も音大に行った子いるよ。でも白海坂の高等部には音楽科が無いから……。例えば、もっとより専門的な事を学びたいって思うなら、音楽科のある高校も白海坂から受験できるし」


「……正直少し迷ってるんです。中学の時期から大学の事まで気にするなんて気が早いでしょうか」


 春。

 彼女にとって中等部二年の初日。

 彼女の事は一年時から受け持ってきたけれど、どうやら意志は固く志も高い様だ。真剣な表情と眼差し。そして、進む先への少しの不安。


「早い遅いっていうのは、きっと他人が決める事じゃないわ。貴女が自由に決めて良いの。だから、私は貴女が決めた事を尊重するし、その手助けをするのが先生って仕事だと思ってる。ただ、迷ってるって言うなら、もう少しだけ迷ってみたら? っふふ、別に迷うのが悪いって訳じゃあないし、あと半年くらいなら、十分に迷ってみても良いんじゃない?」


 私は明確な答えを示す事は出来ないし、結局決めるのは彼女自身。

 それでも、彼女は私の言いに考える様な仕草で合わせてから、先程よりも幾らか晴れやかな表情で「はい、もう少し、ちゃんと考えてみます」と、元気にそう応えてくれた。


 四年間という大学での日々は私の生活を大きくも小さくも変えてくれた。それは白海坂の中等部から高等部に進学した時以上の変化で、根幹や価値観をそのままにして見識や学びを得るのにはとても良い環境だった。

 新しい環境は苦手だったけれど、そういうのももう慣れっこだ。それに、もう世間的に大人の一歩手前まで年齢を重ねたその歳でそんな事も言っていられない。新しい友人とずっと仲の良い友人。そして、次に決めるのは進路ではなく仕事。

 何故教職を取って教師という仕事を選んだのかは、自分でも曖昧だったかも知れない。けれど、例えば小学校の時に中学受験をすると言った私に真剣に向き合ってくれた先生がいたし、白海坂という場所には校風と環境に見合った先生方が沢山いた。そういう人達が私の人生に起因しているとするならば、私がまた後世の誰かの礎になるのも良いと思っていた。

 十三歳の、中等部一年生の時から数えて、もう十年以上白海坂にいる。

 環境、雰囲気、ゆったりとした時間の流れ方。

 私はきっと、白海坂が好きなのだと思う。

 この場所での変化は無駄にはならない。

 きっと私が選んだこの場所で、毎年咲いてくれている桜の並木道が同じ様に見えて常に変化を重ねている様に。花弁が落ち、枝葉が枯れても、必ずまた花を咲かせてくれる様に。


『そっちの大学はどう?』


『なんとかやってるよ、講義も面白いし。バイトが大変かな』


 大学時代、桜子とやり取りするのは近況報告が主だった。

 電話とメールと、そういう連絡が沢山。

 年に会える回数は限られている。

 その代わり、夏休みや冬休みの長期休暇には思い切り触れ合って甘えた。

 私達には互いという存在が必要だったから。

 依存し過ぎず、離れ過ぎず。


『ちょっと思うところがあってね、一年長く大学に居ようと思うんだ』


 それは、大学三年の夏の会話。

 もう一つ欲しい資格が出来たという桜子は申し訳なさそうにそう言った。

 長いと思っていた離れている期間と遠いと思っていた二人の距離。

 それでも、そういう素直な話は嬉しかった。

 信じられるから本当の事が言える。理解しているから受け入れられる。


『うん、私、待ってるから。大丈夫だよ。桜子』


 嘘じゃないけど、それは本心でもない。

 私は待てる。

 だけど、大丈夫かは分からない。

 四年間は長かった。

 そこにもう一年。

 それでも私が信じて待つのは、それが桜子との約束で、そして大切だから。

 私は一年だけ早く大学を卒業して白海坂の中等部に新任教師として着任し、桜子はもう一年だけ大学に残り五年目の大学生活を送る。


 一年だけ。

 たったの一年。


 初年度で受け持った一年生のクラスは天手古舞だったけれど、生徒に好かれたのはとてもありがたかった。授業とテストを形作るのは大変だったけれど、子供達の手助けが出来るのは遣り甲斐があった。

 …………。

 遣り甲斐のある仕事。

 桜子との電話。

 声。言葉。

 会いたいと膨らむ気持ち。

 私は待てる。

 だけど、大丈夫かは分からない。


 …………。

 寂しくない訳が無かった。



 ◆ ◆ ◆



「沙耶先生さようなら」


「もぅ、『花見坂上先生』ね。はい、さようなら」


 教師二年目の初日はその工程を半日で終わらせる。

 廊下ですれ違う生徒達とそんな挨拶を交わし、行き着いた職員室から見える陽の位置はまだまだ高い。昼の内に在校の生徒達は帰路へ発ち、新入生は二時間にも満たないオリエンテーションを済ませて同じ様に帰り道を辿る。来た道と同じ、桜の並木。そして明日、始業式が執り行われ、彼女達と私達の新しい白海坂での生活が始まる。


「明日からまた新年度の生活が始まりますが——」


 職員会議。

 教頭先生の話。

 学年主任の話。

 メモを取る事は多く、参照する資料でファイルはどんどん分厚くなる。

 生徒一人一人の把握。

 彼女は音大へ行くと言い、彼女は数学が少し苦手。あの子は歌がとても上手で、またあの子は水泳部で期待されていて。


「…………?」


 …………。

 ……瞬間、何か、眩しい光が目の端を掠めた気がした。

 それは太陽の光か、それとも空を流れる星の尻尾か。

 いや、流れ星なんか見える筈はない。

 だって、今はまだまだお昼の時間帯で、今日は新学期の初日なのだから。

 窓の外から見える正門。そこでは帰路を行く生徒の彼女達が明日からの新しい日々に胸を躍らせていて、そんな——。



「……うそ」



「では、明日から着任する先生の——、先生? 花見坂上先生?」


「——……すみません、……あの、本当にすみません。私、——ッ私! 少しだけ席を外します! 本当に少しだけ! ッすみません‼」


 慌てて席を立ち、職員室のドアを急いで開け放つ。

 この白海坂の校則には『廊下を走ってはいけない』というものがある。

 それはきっと何処の学校にでもあると思うし、私はその校則を在学中の時から知っていた。


『廊下を走ってはいけない』


 全力で駆ける廊下。

 まだ帰路についていない生徒達には奇異の目で見られるけれど、今はそれが気にならなかったし、もっと有り体に言えばそれは如何でも良かった。


「……うそ、うそでしょ⁉」


 漏れ出る言葉は自分に言い聞かせるものだけれど、私はそれが嘘であって欲しくなかった。

 昇った太陽の数。

流れた星の数。

過ぎ去った日々は、年月は、どれだけ私に、どれだけ彼女に互いが必要だと気付かせた?

 教職員用の下駄箱で上靴を脱ぎパンプスに履き替えようとするけれど、それすらもまどろっこしくて素足のままで地を踏んだ。

 砂と埃。きっと黒くなる足の裏。

 待ってて。

 お願い、そこで待ってて……ッ!

 石畳の敷き詰められる構内、正門までの距離。

 それは誰と誰の距離なのか。

 四年という年月か。

 一年という不意の年月か。

 電車でたったの二時間。

 隣にいる貴女。

 おでことおでこを付けて熱を測る親子の様な距離。

 口付けする様な心の距離。

 四年間。

 五年間。

 貴女と過ごした、白海坂での三年間。




「——桜子ッ‼」




「沙耶ッ‼」




 正門に立つ彼女の名を呼び、駆けた勢いのままに抱き締めると、桜子も私を受け入れてくれて大きく抱き寄せてくれた。

 嘘でも偽りでもない本物の奧海桜子。

 心地良い声で、猫目がちで、背の高くて、綺麗なクリーム色の髪の桜子。

 少し頬を紅くした桜子。

 触れる肌とその熱。

 私から背伸びでせがむ口付け。

 交わしたそれは五年間の月日と今日まで離れていた距離の全てをゼロにしてくれた気がした。


「なんで⁉ 如何して⁉」


「私ね、沙耶。高等部の三年の時、ライトオレンジに行ったんだ」


「……へ?」


 浮かべる疑問符。

 ライトオレンジという言葉。

 その意味。

 願いを叶える場所。

 桜子は、言いを続ける。


「私、あの場所で沙耶との幸せを望んだの」


「…………」


「だけど、朧さんは私の願いを叶えなかった。『くそ詰まんない』って。『面倒だ』って。『もうくそほど幸せな癖してこれ以上を望むなら自分で何とかしろ』って」


「……ぅ、っふぅあぁぁ…………」


「私ね、教職取ってきたんだよ? 明日から、私も沙耶と白海坂の先生」


「……ぅあぁあぁぁ、っうぅあ……っあぁぁぁああ……ッ」


「私も中学受験すればよかった。だけどさ、沙耶とこの場所で、また、あの頃とはきっと違うけど、それでもさ、私………。だから、……よろしくお願いします。花見坂上先生」



 私は桜子の胸でわんわん泣いて、桜子は私が泣き止むまでずっと抱き締めてくれていた。こんな、誰の目にも止まってしまう様な場所で語らうには過ぎた恥ずかしさかも知れない。それでも今、この場所で言わずにはいられなかったし、桜子も同じ想いなのだという、そんな通じ合える様な確信があった。




「好きです、桜子さん。私と一緒になってください」




「私も。沙耶ちゃん、好きです。私と誓ってください」




 満開の桜が春の風に花弁を乗せ、照らされる太陽の日差しはやけに柔らかく感じられる四月の頭。


 きっと私は、桜子とこの場所で沢山の大切を共有していく。

 

 私達は、そんな二人にとっての特別がいつまでもとても嬉しいのだ。






『私達が流れ星に願い事をするなら』








お疲れ様です。

三年間続けてきた彼女達の話もこれで最終稿となりました。

本稿の後に最後の【登場人物紹介】があるのでよかったらそこまでお目通ししてみてください。

最後までのお付き合い並びにお目通しをいただきありがとうございました。

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