第49話 彼女達の『流れ星』
流れ星を探そう
◆ ◆ ◆
描いてきたデッサンの枚数。
それは、千里との白海坂での日々。
油画を専攻した千里とデザインを専攻した私で試験を受ける教室も試験の内容も違ったけれど、何故か通じ合うものがあった気がする。滑らせる筆の一筋が、全部千里とリンクしているような気がした。試験会場というその場所で、私と千里がどれだけ互いの事を好いていて、尊重していて、そして何より互いの描くソレが上手くいく事を、日にちと時間をいっぱいに使って描き切る事が出来るのを互いに願っていて、そういう色んな事が離れているのに如何しようもなく伝わってきて、だから——。
「試験の絵を描き上げた時、私嬉しくてね、なんか泣けてきちゃったんだよね。それで、これからがスタートだって分かってた筈なのに、生きてる内で、一番良いものが描けたような、そんな気がしたの」
「あぁ、うん。それ、なんとなく分かるわ」
三月頭の、放課後。
もうとっぷりと陽も暮れてしまって、一番星も二番星も、それから三番星も空に浮かんでしまうようなこの時間帯。
三日後に控えている卒業式を前にして、私と千里にはまだやらなければならない事があった。
美術室。
自分のクラスのロッカーはもう綺麗に片付けを終わらせているのだけれど、美術室は受験直前まで予備校と並行して日中の殆どを入り浸っていた。
ロッカーはなるべく綺麗に使っていたけれど、それでも積み重なっていった三年の月日は徐々に色んな物をそこに貯め込んでいく。思い出ばっかりが沢山詰まっているのに、この場所を離れなければならない私達は、如何あってもそれ等を選り分けていかなければならない。必要な物と必要でない物。そうやってこれまで大切だった物を選別していって、使えるものは美術部に寄付し、もう使えない物は可能な限り処分して。
「全部を連れて行く事は出来ないんだよね」
そう言いながら、千里は名残惜しそうに毛羽立ちが目立つようになった筆を二つ折りにしていく。空き箱に貯めていた、短くなりすぎてもう描けなくなった鉛筆や、小さくなり過ぎて消せなくなった消しゴムをそのままごみ袋へと放る。
「そうだね」
視線を投げないまま一言だけで返事をして、私もまたロッカーの中で転がっていたマスキングテープの切れ端や、いつか使うだろうと捨てられずにいた残り少ない絵の具のチューブを処分していった。
連れて行く事自体は出来る。
けれど、それはもう『思い出』としてしか意味を成さない。
「春真さぁ」
「ん?」
「三年で、クロッキー帳。何冊描いた?」
「……さぁ、わかんないよ」
処分する事で報われる思い出と、残しておくことで自分が救われる思い出。
これまで白海坂で描いてきたクロッキー帳は、数えるのが億劫になるほどロッカーの中に押し込められていた。積み上げられ、立て掛けられ、それ等はきっと『成長』を図るのに適切な物差しとなってくれている。
「春真クロッキー帳捨てる?」
「んー、どうしようかな。これはさ、流石にちょっと悩むよねぇ……」
必要な物と必要でない物。
持って帰るにはきっと多すぎて、そうしようとすれば両手に紙袋を下げて帰路に立つ事となるだろう。
持ち帰るには沢山が過ぎる思い出。まだ今よりももっと線も綺麗じゃなくてパースも甘いだろう最初期のクロッキー帳。それ等からいくつか選んで二、三冊程度を持ち帰るならば苦も少なくて良いかも知れない。
……と、そんな事を薄っすらと考えていたところに、だ。
「……なに?」
千里はそういう時によく悪知恵が働く子だというのを、私はこれまでも嫌という程目の当たりにしてきた。
そういう表情はもう慣れっこで、何かを思い付いたのだろうニコニコと浮かぶ千里の楽しそうな笑顔が心底鬱陶しく思う。
鬱陶しく思うけれど、別に私は、それが嫌いではない。
「交換しようよ」
「……何を」
「クロッキー帳」
「……全部?」
「全部だよ!」
また始まった……。私はそうやって頭を抱えて膝に手を付くけれど、千里はそれが可笑しかったのか、お腹を抱えて笑い出した。
大きく声を上げて、口を大きく開けて、「あー可笑しい!」と膝を叩く。
それを見ると、なんだか私も笑えてきた。
クリスマス、誕生日、バレンタイン、夏休み、その他にも、色々沢山。
イベント事や何かの節目、そういう時には二人で出掛けて、クロッキー帳に絵を描いては交換するという事をしてきた。初めは、一年生の時のクリスマス。水族館でそれこそ死ぬ程沢山の魚を描いて、二人でそれを交換した。
「良いじゃん。私自分のクロッキー帳持って帰るのは面倒だけど、春真のやつなら全部欲しい。交換じゃなくても良いよ。春真がソレいらないって言うなら、私に頂戴」
……はぁ。
溜め息が一つ漏れて出る。
それは呆れではなくて、もっと、別の何かの溜め息で、私はそれが何なのかを理解していない振りをするけれど、きっと知っているし理解もしている。
「良いよ。交換する。私も千里のクロッキー帳が欲しい。持って帰って全部見る。それで、自分に足りない部分を見付けて、如何に私が千里より優れているかを分からせてあげるから」
「あ! 言ったね⁉ 言っておくけど私の方が春真より——」
その先は言わせなかった。
私が、千里にキスをしたから。
そうしていっぱいに抱き締めてやったから。
一瞬の事に困惑と動揺を面出して慌てる千里。その視線の動き。それが可笑しくて、私はやっぱり笑ってしまった。
刹那的に触れさせた口付けを離して、それでも、彼女を抱き締める腕は解かないで——。
「千里、あの日貴女、私にキスしたんだよ。無理矢理」
「……それは、謝ったよ。ちゃんと」
「……白海坂で、貴女から貰ったものが多過ぎる」
「……それはお互い様」
「あの頃、あの時に見たあの絵は、凄かったけど大嫌いなんだ……。綺麗だったけど、感動したけど、それでも大っ嫌い……」
「……うん」
「だけど……千里と、同じ気持ちであれを、見る事が出来たのは、少しだけ感謝してる……」
「……そうだね」
抱き締める千里の身体。腕に込める力を少しだけ緩めると、千里もまた私の背に腕を回してくれた。密着する身体に恥ずかしさを感じる事もあるけれど、今は、彼女の体温が嬉しかった。
「あの日、私を見付けてくれてありがとう……。私に声を掛けて、手を引いてくれてありがとう……」
「……私も、春真。この場所に来てくれて、また筆を持ってくれて、私の、我が儘に付き合ってくれて、ありがとう。春真……」
きっと、本当はお互いにこの場で言う必要のない筈だった言葉の数々が、そうやって自然にぽろぽろと溢れてきていた。
感謝の言葉はもう言い尽くしていた筈なのに、何度も何度も確かめ合った筈なのに、そうやってまた、この、もう本当に『この場所』に来る事がなくなるだろうという節目に、再度、私達は確かめ合う様に口付けして、抱き締めて、恥ずかしげもなく思いの言葉と感謝の言葉を押し付けた。
『ありがとう』って、きっと私は、これから先何度も千里に言うと思う。
そういえばさぁ、これ、何回洗っても落ちないんだよね。
帰り際、不意に言った千里の言葉は軽くて、私は何の事か分からずに疑問符を投げる。両手に下げた『必要な物』を詰め込んだ鞄。その中から、千里はエプロンを取り出した。ところどころが絵の具で汚れているそれは、千里が一年の時から絵を描く際に着ているもの。
「ここ、覚えてるでしょ」
「……あ、うん。覚えてる……」
エプロンの真ん中には黄色の絵の具が斜めに走っていた。
他の汚れは幾度もの洗濯から薄くなっているのに、その黄色だけが鮮やかに色濃く残っている。
それは、あの時私が千里のエプロンに付けた黄色だ。
「これだけがさ、ずっと残ってるの。色落ちしないで」
自慢気にそうやって笑う千里は、星の浮かぶ暗闇の空にエプロンを掲げて見せる。
それはまるで——。
「春真が引いた黄色がさ、私は嬉しいんだよ。流れ星みたいで、ワクワクする」
無邪気な千里の笑顔が、私の内側を温めて、明るく照らしてくれて、白海坂での三年のいう彼女との日々が、どれだけ尊く、充実した素晴らしいものだったかを、私に再び思い起こさせてくれる。
だから私は、「……ばかね」と、一言だけそう返した。
それだけで通じ合えると、私も千里も、もう分かっているから。
「——あ、見て春真」
流れ星だよ。
◆ ◆ ◆
「もう三日後には卒業式ですか」
「そうだね。寂しい?」
「……それが、不思議と『寂しい』って感覚は無いんですよ」
「ふうん?」
まだ少し寒さの残る時期。ビニールハウスの中に作られた庭園では季節の花が綺麗に咲いている。それは私達三年生が園芸部を満了した後でも後輩の部員の子達が懸命にこの場所を手入れし守ってくれていた証拠に他ならない。陽が落ちると息はまた白くなり始め、薄っすらと赤くなった雉鶴の鼻頭をキュッとつまむと、彼女は「ぷぁ!」と可愛い声を鳴らすので私は少しだけ笑ってしまった。
「もぅ! 酷いです志穂さん!」
「っははは、ごめんごめん。だけど雉鶴だって酷いのよ? 寂しくないなんて言うんだから」
寂しくないっていうのは、語弊があったかも知れません。
言うと、雉鶴は少し言葉を選ぶ様に空を仰いだ。
薄く目を瞑り、自身の頬に触れ、胸に触れ、雉鶴は文字を書く様に中空へと触れる。
「私、志穂さんより一つ下だから、先に志穂さんが卒業してしまうのは覚悟してましたよ。それでも寂しくないとなんとなく思えるのは、私の中には貴女が居て、貴女の中には私がちゃんと居てくれるという、そういう確信があるからかも知れません。月並みな言葉ではありますが、私は志穂さんを愛していますし、志穂さんにも愛してもらえているという、そういう確かなものがあります。それに、私も白海坂の大学に進学します。たった一年です」
「……そっか」
「私、これでも志穂さんの隣に並べる様に一生懸命なんですよ。っふふ。年齢で一生追い付けないなら、他の部分で並べる様にするだけです。だから、志穂さんはずっと、私が追い付かない様にしてください。もし私が追い付いてきたら、ちゃんと走って逃げてくださいね」
…………。
出会った頃からあまり変わらないと思っていたけれど、よくよく見ると少し大人びてみえるところも出て来たのかも知れない。首筋の細さとか、振る舞いとか、膨らんだ胸とか、余裕の出て来た口振りとか。
考え方や、人としての器の大きさ。
大らかさ。
「生意気ね」
「……会えない日が、きっと多くなります」
「……うん」
「だけど、やっぱりたったの一年です」
「……そうだね」
「連絡します」
「私も」
「会いに行きます」
「私も、会いに行くから」
まだ、冬物のコートはなかなか手放せない。マフラーだって巻いていないと今の時間は寒いんだ。だけど、握った雉鶴の手の平は温かかった。
「志穂さんの手、温かいですね」
「そう? 嬉しいな」
「好きです」
「私も好きだよ」
「志穂さんの事を愛しています」
「……雉鶴?」
「好きです。愛してます。志穂さんの事を、私……、好きです。ちゃんと……」
「ちょ、泣かないで雉鶴? どうし——」
別に気付いていなかった訳じゃない。
きっと雉鶴は気付かせまいとしていたし、私がそれに応えるなら、気付いていない振りをするのが一番良いと思ったから。宴町雉鶴という、私の大切な彼女は、自身の書き出す物語の中では活発に飛び回る癖に、私の前では強く振舞おうと努力を惜しまない。けれど、本当はいつだって脆さを隠し通せないんだ。
抱き締められ、抱き締め返し、耳に聞く雉鶴の喉をしゃくる音と、その心臓の鼓動だけが、彼女の本音を私に教えてくれた。
「雉鶴、ごめんね。私も、本当は寂しい」
「……私は、寂しくなんてないです」
「うん」
「……本当ですからね」
「うん、分かってるよ」
「好きです。志穂さん。絶対……、たった一年にします……」
「ん、そしたら、また一緒に居られる」
薄暗いビニールハウスの中で誓うのは、彼女への愛と、たったの一年という離れ離れになる間の互いの想い。
私は大学へ進学して、雉鶴は文芸部で自身を研鑽する。
その日々がきっとまた私達の大切なこれからに繋がっているから、寂しくても信じられると、私は泣かなかったし、雉鶴は少しだけ泣いた。
見上げる空には星の輝きがあって、月明かりもそれを手助けしていて、そういうものを視認すると、何故だか白海坂へ来た時の自分が少しだけ思い出された。
あの時の私は凄く嫌な奴で、腐っていて、それでもこの白海坂での日々が美しいものになったのは、私を諭してくれた友人達と、私が愛した彼女と、今ここで、互いを大切だと、好きだと、愛していると信じさせてくれた雉鶴のおかげなのだ。
だから、偶然にしろ何にしろ、見上げた空で流れたソレを私が見付けたのなら、雉鶴の為、言いを発して指差さずにはいられなかった。
「——雉鶴。あれ、流れた」
流れ星だ。
◆ ◆ ◆
「卒業旅行、楽しみだね」
「うん、そうだね。楽しみ」
その言葉に嘘は無い。
けれど、その言葉が意味するものはある。
「私、屋上に来たの初めてだ。桜子は来た事あった?」
問うと、「うーん、如何だったかな」とはぐらかす様に頬を掻いて見せる。そうして、「あ、だけど、教えてくれたのは星波さんだったね」と薄笑みを浮かべて見せた。
白海坂の屋上は特別な許可がない限り立ち入りが禁止になっている。だけど、施錠がされている訳でもなく、屋上の扉への階段も簡単な仕切り板があるだけで容易に乗り越えたり潜ったり退かしたり出来る。屋上に出ようと思えば出られるこの決まりは、生徒と教師間の信頼によって成り立っている事。だから、これまで生徒が屋上に立ち入ったという事例は学園設立以来一件も報告されていないらしい。
実際に立った屋上という場所は少しだけ冷たい風が気持ち良かった。
背の高いフェンスに囲まれた初めてのこの場所がなんだか特別な空間に思えて、空で輝きだした星達には簡単に手が届く様な気がした。
空気が乾燥していて、吐く息は白くなるくらいに寒いのに、隣に桜子が居るだけで色んななにかが特別だと思えるのだから、自身の単純さが何年も前から変わっていないのだとつくづくそう思い起こさせる。
「本当は屋上って立ち入り禁止らしいね」
空を見上げて、桜子は視線をそのままにこちらへと言いを投げる。
桜子の横顔が星明りや月明かりに照らされて、薄暗い今のこの時間帯でもハッキリと輪郭や表情は分かった。
「別に良いよ。大学も決まったし、もう三日もすれば卒業だし」
「共犯だね」
「そうだよ。共犯」
…………。
この白海坂で、桜子と共に犯した罪はどれだけあったか分からない。
小さな罪を幾つも。きっと沢山。
授業はサボらなかったし、無断で欠席する事も無かった三年間。行事にも真面目に参加して、テストで赤点を取る事も無くて、私と桜子は他から見れば所謂『優等生』としてこの白海坂を卒業するに違いない。
私達は女の子を愛して、色んな事に反したのだろうと思う。
隠れてキスをして、空き教室で見付からない様にセックスして、そんなの、良い子じゃなかったなんて事は自分で分かってるんだ。
楽しかった思い出と、青い罪と。
色恋だけがこの場所での青春ではないけれど、如何あったところで桜子と共に過ごす時間が多かったし、彼女との時間は私にとって掛け替えが無かった。
「引っ越しの準備、終わった?」
「ん、もう大体ね。卒業旅行が終わってから、三月の後半にはもう向こうに行くよ」
「私、手伝いに行って良い?」
「……うん、助かる。ありがと」
話したい事。
話しておきたい事。
話すべきじゃない事。
押し込める必要なんてない癖に、私と桜子はこの場所で口を噤む事を選んでいた。
ただ互いに隣で肩を並べる彼女の手を握り、触れあった肌に熱が伝わる事だけで必要な会話を済ませた。
桜子はこの三年で背が伸びたと思うけど、私はそんなに変わらない。
だから、いつだって桜子が屈んでくれていた。
私が必要以上に『背伸び』をしなくて良い様に。
「……ねぇ、沙耶」
「……?」
「……四年って、長いと思う?」
「全然」
四年間なんて長くない。
出会った三年間がこんなに短かったのに、会えない四年間が長いなんて、そんな理不尽な事があってたまるか。
「全然長くない。四年間なんて、あっという間だよ……。私も桜子も。だから、あの、桜子——」
解かれる手の平の繋がり。
その代わりに、強く抱き寄せられた肩……。
あれから三年が経っても、これから四年が経とうとしていても、彼女へ桜色の光が差して、私の見る景色が虹色に煌めき出したのは本物だったから……。
逃げないって決めたから。
泣かないって決めたから。
だから——。
「……あ、見て沙耶」
流れ星だよ。
◆ ◆ ◆
「みんな卒業していっちゃうね」
「うん」
「桃は、みんなと卒業したかった?」
横並びで座る冬乃にそう問われ、私は「どうだろう」と、少しだけ考えた末にそんな曖昧な返答をした。もう殆ど人の居なくなった図書室。それもその筈で、時刻はいつの間にか十九時を回ろうという時間に差し掛かっている。見渡す机はどこも空席で、カウンターには本来この時間なら司書の先生が居る筈なのだけれど、何故だか今は席を外していた。
ノートに走らせていたペンを置き、開いていた教科書から目を離す。
視線を冬乃へ向けると、彼女もまた、ペンを置いて私へと視線を合わせてきた。
一つ息を吐く。
長時間の勉強が掛けた姿勢への負担に抵抗するよう身体を椅子の背もたれに預け、窓の外に広がる空の暗さと月明かりを視界の隅に置きながら、私は口角を少しだけ持ち上げて笑みを作った。
それは無意識にだったと思う。
「人によってタイミングも大切なモノも違うから、私は『みんなと』って言うより、『自分の気持ち』に正直で居たかったから」
二度目のピンク色のリボン。
これは、私が冬乃と選び取った色で、その価値は私が一番よく知っている。
「ごめ——」
「んねは、言わない約束」
人差し指をピッと立て、自身の口元に持ってきてそう言うと、冬乃は少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げるけれど、直ぐにいつもみたいな笑顔を浮かべてくれた。
詳しく説明した事は無い。
だけど、きっと冬乃は今こうして、自分が『普通』に白海坂の生徒として過ごし、私が何故二度目の二年生をしているかの理由を知っている。
二人が知らない振りをする、二人だけの、二人の真実。
沢山の『ごめんね』と『ありがとう』で形を作ってきた私達の学園生活で、友人達は三日後、一足先に白海坂を卒業していく。
白海坂の校風なのか、それとも元より私達にも下の子達にもそういう垣根が無かったのか、随分とすんなり留年した私達の存在は下の子達に受け入れられて、いつの間にか宴町さんとも仲良くなった。
「三年生って、受験頑張らなきゃだよね」
「そうだよ。冬乃、大学どうするの?」
「私は白海坂にそのまま進学するよ。好きなんだ、白海坂」
「そっか。じゃあ、また四年間、一緒に居られるね」
「四年間だけ?」
「……冬乃」
近付けられる、顔の距離。
手の平で触れた彼女の頬は、もうあの頃の様にひんやりと冷たくはない。あの頃の様に、病的な白さではない。
生きている証拠。
口付けをした唇の赤さが薔薇色みたいだったから、あの日、あの時、あの場所に行って、自分の決めた選択が正しかったのだいう確信を与えてくれる。
変わったのではない。
それは、三月場冬乃が、『ただの女の子』に戻ったという、それだけの事。
交わした口付けを離し、代わりにおでことおでこで互いを確かめ合い、見つめた彼女の瞳の奥には、ブラウンの中に海みたいな青色が広がっていた。
「帰ろうか、冬乃。今日は流れ星が沢山流れるよ」
「うん。私も、そんな気がしてる」
あの日見た流れ星に、私達は沢山のお願いをした。
その内のどれだけが叶えられたかなんて分かる筈もないけれど、大切で確かなモノが私達にあるのを教えてくれたのは事実なんだ。
教科書とノートを閉じて、鞄にまとめて、図書室の電気を消して退室しようとした時、窓の外で星の光が尾を引いた。
私は、冬乃に問う。
「今度は何をお願いしようか?」
「ん? んー、それは内緒」
可愛らしく笑んだ冬乃の顔が星明りに照らされるので、私はそんな事がいつまでも嬉しいから、だから、私も——。
「じゃあ、私も内緒にしようっと」
◆ ◆ ◆
私は音大。由紀は美大。
私はトランペットを吹いて、由紀は粘土をこねる。
彼女は入学試験でトップの成績を叩き出し授業料免除の話まで来ているという。
そういうのが私にとっての一番の励みになるんだ。
分野の違うライバル。
いつだって由紀は私に力を与えてくれる。
「それなら、私だって同じだよ」
「……それ、また聴いてるの?」
「好きなんだよ、茜ちゃんの演奏。茜ちゃんのトランペットを聴くとね、勇気が湧いてくるし、私も頑張ろうって沢山思えるの」
放課後の音楽室で由紀が流すのは、私達が全国大会で金賞を得た曲。
トランペットで吹いたソロパート。満足のいく演奏。それが完成された美しさだったのを私達は全員が知っていた。
だけど、今年はアイツが居なかった。
アイツが居なかったし、今後も音楽の場に出てくることはきっと無いし、私がアイツに会う事も、きっと一生、ただの一度も無いだろう。
「茜ちゃん、約束覚えてるでしょ」
「……覚えてるよ」
言うと、由紀は納得したように首肯してくれる。
向けられた優しい笑みが、とびきりの言葉が、私に安心とやる気と、それと大切なモノを与えてくれる。
「私もね、世界一になる。私も誰にも負けなくないもん。だから、茜ちゃんにも負けたくない」
「……私も、誰にも負けたくない」
確かめ合うのは本音と野望。
目指すのは、私も由紀も、それぞれの世界での一番。
一人で研鑽する技術を二人で約束して高め合う。
それは『誓い』と言っても間違いではないかも知れない。
「由紀。私、大学の四年間で、一曲だけ作ってみようと思う」
由紀の為に、そして、絶対に、もう二度と会う事の無いアイツの為に。
「うん。楽しみにしてる」
私も由紀も、学ぶ事は沢山ある。そして、その学んだ先で大切な貴女が待ってくれていると信じられるから、離れ離れのそれぞれの場所でも、私達は同じ空の下を感じ取る事が出来る。
「あ、茜ちゃん。見て、流れ星」
音楽室から見える窓の外。
幾つもの流れる星の光が暗闇の空の中で輝いていた。
「綺麗だね」
「……うん、凄く綺麗」
何方からともなくそう言って、何方からともなくそう応えた。
卒業するのは三日後。
進む道は違う。
それでも、進む方向は同じ。
「茜ちゃん、トランペット吹いてよ」
「え、いま?」
「いまが良い。我が儘かな?」
「……ううん、ちっとも」
ケースから取り出したトランペットを構えると、由紀は私の隣に並んでくれる。
目を瞑り、肩を寄せて、私の音に身を任せてくれる。
自分の願いを叶えるのは自分の力だ。
だから、私は流れ星に由紀を願う。
彼女の息災と、それと幸せを。
お疲れ様です。
長い事続けてきたものですが、次回が最終話です。
なるべく六月中には最終話である『第50話』を公開し、それに付随する後日談的なモノを書いて終了となります。
もう少しだけお付き合いください。
どうぞよろしくお願いします。




